三十秒という時間が何を意味しているか、シャーレンはすぐにわかった。
こんな至近距離では、ラークが腕を一振りすれば、剣は瞬時に自分を貫けるだろう。
自分が呪文を唱え終える前に。
だが、わざわざ三十秒の時間を与えられた。
暗黒魔術の中で、最も複雑で高度な、一瞬で死を与える呪文は、丁度三十秒かかるのだ。
「………」
三十秒は徐々に少なくなっていくのに、シャーレンは黙り込んだ。
あの女は姿を隠し、居場所がわからないため攻撃できない。
魔法解除の呪文はあるが、今の残り時間でそれを唱えて、また新たに、
あの女の息の根を、止められる程の呪文を唱えようとすれば、三十秒以上かかる。
ハウゼンはフィルシスの隣にいるはずだから、位置はわかる。
だが、実際に攻撃すると、フィルシスを盾にするかもしれない。
せめてフィルシスが自分の側にいれば、自分の周囲だけを焼き尽くす事ができるのに。
それともハウゼンの事だ、彼は自分がラークを殺すことだけを期待しているに違いない。
他の呪文を唱えた瞬間に、刺されるとも限らない。
ラークの剣を壊したとしても、こんな至近距離で、肉弾戦で、ラークには勝てない。
眠らせたり、気絶させたりしても、操られているのは肉体だから意味はない。
殺す事を選らんだとしても、死体を操られないように、肉体の原型をとどめずにしなければならない。
仮に、ラークを殺して何になるだろう。
ハウゼンを殺せる確証はない。
ハウゼンが姿を現さなければ何もできないし、現すとは限らない。
それでも、今の危機を回避しなければ、それを考える意味もないが。
ラークを始末できなければ、自分が死ぬだけだ。

時間だけが、静かに過ぎていく。
「……っ」
フィルシスはその間も必死に抵抗したが、魔法を振りほどくことはできなかった。
ずっと沈黙したままの、シャーレンとラークを見ている事しかできないのが、悔しくて仕方なかった。
いつも大切な人が困るのは嫌だと、思っていたのに、今その時だというのに、こんな風に捕まって、何もできない自分が悔しい。
シャーレンは今までずっと、暗黒神官を裏切ったり、刃向かうものを脅したりして、自分を生かそうとしてきた。
例え今、立ちはだかるのが友達でも、シャーレンはラークを殺してしまうのだろうか。
だが、そうしなければ、きっとシャーレンの方が殺される。
でも、きっとシャーレンはできない。
いつも、何事もすぐに実行するシャーレンが、本当に魔法を使う気ならとっくにしているはずだ…。
「どうしたシャーレン。お前のお得意な暗黒の魔術で早く殺せばどうだ?色々な呪文があるだろう?」
何も唱えられずにいるシャーレンに、ハウゼンが笑った。
その声だけが、響いた。
ハウゼンが、少しでも動くたびにフィルシスは、何かするのかと、不安に襲われて仕方なかった。
ずっと長い間、つかまっているような気さえする。
もう実際に、三十秒以上たっているのかもしれない。
ハウゼンは、おそらく分かっている、どれだけ待とうとシャーレンがラークに何もできない事を。
「昔、許しを請う反逆者達を、生きたまま解体していって殺したように。聖騎士達を操って、同士討ちさせたように。」
「……」
シャーレンはそっと、自嘲した。
確かに今までしてきたその所業を、友達にしなければならない時が来るなんて。
暗黒神官の元で、働いていた頃は、聖騎士に捕われた者を連れていかれる前に殺す事や、
捕われた者が、自白させられる前に自害する事は当たり前だった。
ラークとも、そういう事になって、例えお互いに殺す事になっても恨まないと、約束した事があった。
だからと言って、昔からの友達を失う事ができるだろうか?
「シャーレン…何をしてる…お前、今までアイツを助けるためなら何でもしてきただろ…」
ずっと沈黙したままのシャーレンに、今まで黙って剣を見ていたラークが顔を上げた。
震えた声で、決意したように話し始める。
「……お前の好きなようにしろよ。
何だよ、お前、今まで散々俺に嫌みばかり言ってたくせによ。
こんな肝心な時に、何でためらうんだよ。俺のことなんて、どうでもいいんだろ」
「ラーク……」
不意にそう言われて、シャーレンがはっと見返した。
「俺は、部下達といる時も楽しかったが、お前といる時が一番楽しかった」
部下の一部はフィルシスを殺そうとしている、シャーレンは大切にしている。
それでも自分には、どちらも大切だったから、相反するどちらの意見も尊重しようとした結果が、きっと今だ。
「お前が自分の好きなようにしても、俺はお前を恨まない」
にじみ出そうな涙を悟られないように、そっと笑う。
その笑顔がとても儚く、哀しかった。
「……ラーク…私は…」
確かに皮肉ばかり言っていたけど…本当は全部、わかってるくせに。
「俺も、俺だけ先に死ぬのは嫌だったよ…」
こみ上げる悲しみに決心が鈍らないように、ラークはシャーレンの言葉の続きを遮った。
「早く死の呪文でも何でも、唱えろよ…!お前が死んだら、あいつも死ぬだろ…!」
ただ自分を見つめるだけのシャーレンに、眉をひそめた悲痛な表情でラークが怒鳴る。
「………」
それでも、詠唱の文句は出てこなかった。
「ラーク……」
代わりに友達の名前が紡がれる。
それ以上何も言えない。
「終わりだ」
ハウゼンの轟く様な声が響いた。
耳元でそう呟く声にフィルシスは、声にならない悲鳴をあげた。
昔大切な人達を奪ったに、また大切な人を奪われる恐怖に。
「わざわざ死の呪文を唱えられるだけの時間を与えてやったのに、お前はできなかった」
ハウゼンが勝ち誇ったように笑う。
手を上げて、空気を切るような合図をした。
「やめろ、ハウゼン…!」
勝手に動く腕を感じたラークの悲鳴が、虚しく響く。
ここにいる四人の中で、ラークの剣の腕を知らない者はいなかった。
魔法の力で、振り下ろされた腕に持った剣が、シャーレンの腹部を斬った。
「……シャーレン…!」
フィルシスの心の中の悲鳴と、青ざめて絞り出すように叫ぶラークの声が重なった。
細い剣の刃に赤い血が伝った。
「く……っ」
よろめいたシャーレンの体から、白い大理石の床に赤い鮮血が滴る。
だが、傷は致命傷ではなかった。
「そんな一回で、殺してやると思うな」
そう言ったハウゼンの声は歓喜に満ちていた。
「知っているか?」
今度は、ハウゼンがフィルシスの耳元で囁いた。
「幻獣の所有権は、持ち主が弱っていれば奪いとれるんだ」
その言葉に怖気が背中を走る。
以前イグデュールも言っていた事だった。
床に滴る赤い血が目に焼きついて離れないままフィルシスは、ハウゼンが何か唱えるのを聞いた。
「……ッ!」
フィルシスは声にならない悲鳴をあげた。
何度も、何度も、シャーレンの名前を呼んだ。
涙があふれて、前が見えなくなる。
一番恐れていた事が、今にも現実になろうとしているから。
俯いて、傷口を押さえるシャーレンの姿が、以前に見せられた幻術の中で、遠くに去っていくシャーレンの姿と重なった。
怖くて、哀しくて、何も考えられない。
ただ、今までずっと心の奥底に閉じ込められていた気持ちが、次々と頭の中にあふれ出した。
自分でも知らなかった思いが、怒りとも言える言葉が、誰にも言ったことのなかった我が侭が。
両親が死んだ時、仲間が死んだ時、そんな時、心の中であげた我が侭。
―どうして一緒にいてくれないの
―自分の体をこんな風にしておいて、それなのに、一人で置いていくのか
―ずっと一緒にいるって何度も言ってたじゃないか
―どうして一人で死んでいくの
故郷とは、何もかも変わってしまったこの世界で、ただ一つ変わっていないのは、シャーレンが側にいることだけなのに、
最後までわかってくれない
「これで、あいつが死んでも、お前は死なない」
ハウゼンの恐ろしい宣告を聞くと同時にフィルシスは、大切な繋がりが消えて、おぞましい支配が体を満たすのをひしひしと感じた。

「……フィルシス…」
我知らず、シャーレンは呟いた。
立っているのがやっとだったが、血の流れる傷より、大切なものの離れていく感覚の方が痛かった。
「馬鹿、シャーレン、俺にお前を殺させるのか!お前らしくないぞ!」
最後の方は、半ば泣き声のような叫びだった。
見えない敵に動かされる腕は、ラークではどうすることもできない。
もう一度振り下ろされようとしている。
何故ラークだけを操ったのだろう。
二人とも始末するつもりなら、同士討ちさせるはずだ。
あの女がおとなしく従っているのだから、ラークを従わせる術も、ハウゼンは持っているのかもしれない。
そうなのだとしたら、ラークは殺さないつもりなのだろうか。
イグデュールも捕らえたように。
自分の代わりはあの女ということか。
「………」
今となってはあまり覚えていないし、もうどうでも良い事だが、幼い頃は何度、生を無意味に思っただろう。
大切なものが何もなかったから。
そして今まで何度、死線をくぐっただろう。
聖騎士団をだます時も、暗黒神官をだます時も。
あの時は、どれ程死を恐れたか。
フィルシスを手に入れられないまま死ぬなんて、考えられなかった。
「…何故…私らしくないと思う…?」
咳き込みながら、切れ切れになりそうな言葉を繋いで、顔を上げる。
優しく微笑んで、ラークを見た。
悲しそうに眉根を寄せたその顔の、黒い瞳が見開いた。
ラークのそんな顔を見たのは、先代の暗黒騎士団長が死んだ時以来だ。
「…友達でさえも殺して、そうして生き延びる事が…私らしいと思っているか?」
ラークなら、きっと気づいてくれる。
自分が死んだ後に、全てをわかって、自分らしかったと。
幼い頃は、何もかもどうでもいいと思っていたからこそ、何でもできた、暗黒神官の命令に従うことが。
ラークに初めて逢った日、返事をしてくれたのがとても、嬉しかった。
そんな事で一々喜ぶなんて馬鹿げていると、今なら思えるけれど、
あの両親に話しかけても、返事が返って来た事は一度も無かったから。
その日から、廊下を一人で歩いていても、ラークは自分に声をかけてくれた。
名前を呼んでくれたのが、嬉しかった。
それまでに名前を呼ばれた事なんて、暗黒神官が一度、事務的に呼んだきりだったから。
あの頃は、きっと最期は無意味に独りで死んでいくのだと思っていた。
だが、そうではなかった、一番の友達に殺される。
そして、愛する人もいずれすぐに、殺される。
「ラーク…私は……」
これからも一緒にいたい。
フィルシスのことも大事に思っているけど、ラークのことも大切に思っていたんだよ、
初めて会った後、独り占めしたいと思っていたけど、
ただ、ラークには、この世界に他に必要とする人がたくさんいたから、諦めた。
だから、いつも、好きになる気持ちをごまかすために、憎まれ口ばかり叩いていた。
そうしたら、ラークはいつか自分を友達と思ってくれなくなると思ったのに…
なのにラークは……ずっと友達でいてくれた。
そう思っていたことを、伝えたことはなかったけど、気づいてたくせに。
「お前の事は本当に、大切な友達だと思っていたよ、今までもずっと、これからもずっと」
たった一言、好きだなんて、大切な友達だなんて言葉で語るよりも、ラーク自身の身で知ってもらえる。
ラークが、自分をその手で殺した哀しみを、忘れるわけがない。
自分を刺して貫いた右手を見るたびに、自分の事を思い出す。
純粋な絆のように、おぞましい呪いのように。
そうやって、ずっと側にいられるから。
だから、”これからもずっと”
そんな風に君の心を傷つけて汚して、愛情を伝えて残す事が、それが一番私らしいと、きっといつか気づいてくれる。
「………」
たくましい胸に両手をついて、背伸びして、ラークの口元に顔を寄せた。
傷口の痛みが体を走るのに耐えて、唇を重ねる。
返される舌。
口の中を血ではない味が満たしていく。
「……シャーレン…!」
悲しい面持ちで、ラークは見返した。
涙が一筋伝う。
先程、自分は犠牲になっていってもいいと思った決意が揺らいだ。
やはり別れるのは嫌だと。
「何で…そんな顔するんだ…」
虚勢を張った笑顔ではなくて、これから殺される人間のするような表情ではなくて、きれいな笑顔、少しの揺らぎも無い瞳の青さ。
それが、一筋だけでなく、今度はあふれるように伝い始めた涙でぼやけた。
「………」
今に分かるさ…暗黒神も、ハウゼンも…
自分にしか聞こえない言葉をシャーレンは呟いた。
最後に、フィルシスを抱きしめたかった。
見えないけれど、どんな顔をしているのかわかる。
助けてあげられなくて、それだけが悲しく思う。
だが、きっとわかる、彼の大切なものは全部助けてあげられる事。
ずっと昔から自分の手に堕ちていた事。
剣を振りかざすラークの後ろに、封印された暗黒神の体の眠る、漆黒の巨大な水晶が、かすむ視界に入った。
創造神も、暗黒神も、もう気づいているだろうか。
フィルシスは誰にも渡さない、その死後も。
それが例え神でも。

「そんなに殺されたいなら、さっさと死ぬがいい…」
自分が期待していたような苦悶の表情を浮かべなかったシャーレンに、ハウゼンは舌打ちした。
「やめろ…!」
再び振り下ろされようとしている腕の動きを感じたラークの悲鳴が、静かに響いた。



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