新しい聖騎士団長の任命式がすぐに行なわれた。
教皇に、新しい団長はやはりフィルシスが指名された。
フィルシスは若すぎる。剣技はもう、立派になっていたが、知らない事も多い。
だが、聖騎士と言う名を、最も体言するに相応しい人間である事は、誰もが認めていた。
「団長就任おめでとう、フィルシス。いや、今日からフィルシス様ですね。」
一人でぼんやりと、夜景を眺めるフィルシスに、声をかける。
団長という称号が、彼を輝かせるけれど、孤独にする事にもなる。
「そんな言葉遣い、しなくていいのに…」
周りに誰もいない事を確認すると、早速フィルシスは寄り添ってきた。
「無意味に見えても、形は結構大事ですよ。」
現に白いローブを着て、人当たり良い笑顔を見せているだけで、誰も自分の正体に気付かない。
「だからあなたも、毅然としていなさい。これからはあなたの言葉が、皆を動かすのですよ。もちろん私もね」
「……」
「まあ、二人きりなら、別にいいですけれどね」
寂しそうに頷いたフィルシスの頭を、仕方なくなでた。
しかし、フィルシスが聖騎士団長になってから間もなく、事件が起こり始めた。
一つは大司教がフィルシスを犯した事。
それを知った時ほど、激しい渇望を覚えたことはない。
確かに、彼には以前から、黒い噂があった。聖職者は異性と関係を持ってはいけないために、代わりに少年を買っていると。
しかも育ての親とも言える自分に、いやらしい目つきで媚薬を調合してくれなどと頼んでくる。
この世界を去る時には、暗黒の魔術で病気にみせかけて不能にしていってやろうと思った。
教会の裏を知る事で、フィルシスの心は踏み躙られ、聖剣が使えなくなってしまうのではないかと思われたが、その心は強かった。
そんな事にも汚れない心を、ますますこの手で汚してみたくなる。
残り一つは、再び戦が始まる事。
暗黒神官は、全ての部下の前で聖剣使いを殺したがった。
だから、こちらの世界に駐屯している者達を下がらせる必要があった。
しかし、理由なく退陣すれば、不審に思われるため、自分がフィルシスをけしかける事になった。
駐屯していた者達は、事前に神官に命令されている。この戦はわざと負けて、退陣すると。
だが、そんな芝居をするまでもなかった。
創造神の信者達に希望の光を見せる聖剣の輝きは、暗黒神の手先達には、業火のような光だったのだから。
この自分にとっても、フィルシスの近くにいるのが苦痛な程、聖剣の威力は凄まじい。
そのような誤算はあれ、準備は整ってしまった。暗黒神の世界に連れて行く時が来てしまった。
祝賀会の後、騎士団長の部屋の戸をたたく。
「私です、フィルシス様」
立ち上がる音がして、扉が開けられる。
「シャーレン…何の用?」
「大事な話があるのですよ」
部屋に通されて、椅子を用意される。
「…もしも、あなた一人が犠牲になることで、この世界が救えるとしたら、あなたならどうします?」
意を決して伝える。もう戻れない問い掛けを。
「……どういう意味だ?」
「敵の本拠地、つまり暗黒の世界に乗り込んで直接、全てを統べる暗黒神官を倒すのです。
残された戦争の記録を見れば、過去に数回、あの世界に赴いた聖騎士達がいるようです。
ただし、彼らは誰一人として、聖剣を扱うことができなかったため、皆、惨敗したと記されていました。
今まで何年もかけて、各地から文献を探して、調べてきたその記録によると」
最後は嘘だった。自分も、そのような聖騎士達を拷問に掛けたり、処刑したりした事もあったが、それを説明に使うわけにはいかない。
「聖剣の使えるあなたなら、暗黒神官を倒す事ができるはずです。もしも、倒す事ができなくても、せめて潜入調査は彼らよりも、容易にできるでしょう」
ただし、無事に生きて帰ってこれるかどうかはわかりません。いえ、帰ってこれない確率の方が高い。」
「………」
フィルシスは黙って考え込んだ。
いや、考えているのではない。きっともう、答えは決まっているに違いない。
愛する人達に、心の中で別れを言うために、黙っているのだ。
それから、幾度も、会議が行われた。
騎士団全員で向かう事も提示されたが、あくまで潜入だから、実行するとすれば、全員で行くより少数精鋭の方が良いと、二人で良いと誘導していった。
それに再び、いつ向こうの世界の者が襲撃しに来るかわからない可能性も、実際はそれはないが、聖騎士団の頭の中にはある。
本当に決まってしまった出立の日。
その前夜が、最後の晩餐。城中の者も教会の者も、全員が集まった。
「団長、やはり私も行きます…!」
副団長のレヴィンがフィルシスに叫んでいた。
彼だって、フィルシスがまだ幼い頃からずっと、教えて、見てきたのだから。
「だめだ…もしも暗黒騎士がまた襲ってきたら、困ると言っただろう?だから私の代わりに指揮を頼む。」
「わかりました…」
恭しく頭を垂れて、呟く。もう今まで彼が見てきたような、子供だったフィルシスではないから。
フィルシスに、皆が別れと名誉の言葉を述べていく。
勿論、自分にも。今まで手に入れてきた数多の信頼と賛辞の数だけ。
結局最後まで、誰も気づかなかった。自分が裏切り者だった事に。
だから、最後まで、夢を見させていてあげる。偽りの自分の墓場をここにして。
フィルシスの所に行く前に、ローナは自分の所に来た。
「貴方がいてくれて、良かったです…」
寂しげに笑う。本当は、彼女のような人間が、ずっとフィルシスの側にいるのが相応しい。
「貴方が一番よく知っているように、フィルシスは本当は、優し過ぎて、弱いです…。でも、私には待つことしかできないから…」
ローナが、涙の滲み出した瞳を伏せる。
「私の分もどうか、フィルシスをお願いします…」
柔らかな栗毛色の髪を揺らして、深く深くお辞儀した。
「…約束するよ。その代わりに、私とも約束してくれるかい?」
かがんで、フィルシスよりも背の低い彼女に目線をあわせて、そっと微笑んだ。
「はい…私にできる事なら何でも…」
「君は、フィルシスの分も私の分も、幸せになるんだよ。フィルシスが強くなれるのは、君が待ってくれているからだという事を、忘れてはいけないよ」
そう言うと、彼女は自分にしがみついて、小さく泣き出した。その背を優しくなでる。
最初からそんな自分の方が良かったと思う時だって、確かにあったから。
翌朝は、まるで天が最後の手向けをするように、空は青く澄み渡っていた。
もう二度と見る事はない景色。
城門の前に集合した、宮中の人間や、教会の者達、聖騎士と宮廷魔術師達が、寂然と涙を堪えていた。
この前夜も、幾度も涙を流していたのが、まだ流れたりなかったように。
今生の別れに、進み始めた後ろから、物悲しげで力強い合唱が聞こえる。
”御神の言葉は 前に進むなり 我らの内には 清き御霊あり 主の正義 この身に翳し 恐れなく 闇を討たん”
御神の言葉なんて、主の正義なんて、本当にあるのか。それなら何故、自分をここまで生かしておいたのか。
それとも創造神は、自分がしようとしている事まで、全て見通しているのだろうか。
今まで考えもしなかった歌の詞をぼんやり思い出しながら、無言で馬を走らせるフィルシスについていく。
フィルシスは一度も振り返らなかった。レンドラントの領地から離れ、森を通る。
日が沈み、夜になると、夜営の場所を決めた。
「大丈夫ですか?」
野宿の準備をしながら聞いた。先程から、一言も話していない。
「…ああ」
俯いて返事する。表情が見えない。
「本当に?」
「…本当だ」
突っぱねて、強がるような返答。
「今は二人きりなのに、何を隠すことがあるんですか?」
そう言うと、目を伏せたまま、フィルシスはしばらく黙り込んだ。
「シャーレン…」
やがて耐え切れないように、顔をそっとあげる。
「いい子だね」
引き寄せて、優しく抱きしめた。
一緒にいると時折辛くなる。輝く光が眩しければ眩しい程、影は暗く落ちる。
だからこそ、自分は最初から、暗い闇だと知っていてほしい。
「……っ」
押し殺した声ですすり泣く。
今まで押し込めていたものがあふれ出たように。
なんて、澄んだ瞳。なんて、きれいな涙。
「シャーレンに出逢えて良かった…」
腕の中でフィルシスがぼそっと呟いた。
「今度はいきなり、何を言うんですか」
「言えなくなる前に、言っておきたかったから…」
そっと顔を上げて、寂しそうに笑う。
「そんなこと言ってはいけません。あなたには、待ってる人が大勢いるでしょう?戦う前から死ぬと決め付けて、どうするのですか」
真摯な言葉に、腕の中でフィルシスがそっと頷いた。
「…シャーレンはどうして、ついて来てくれたの…?故郷の人には、言わなくていいの?」
はっと思い出したように、聞かれる。
思えば確かに、急ぎすぎていて、故郷に戻るフリはし忘れていた。
「いいんです、別に。私もあなたに出逢えて良かったから、あなたのためにするのですよ。」
「うん…ありがとう……」
自分の胸に顔を埋めたフィルシスを、もっと強く抱き締めて、頭をなでて、優しく微笑んだ。
自分が心にどれ程、醜悪でおぞましい劣情を抱いていても、今まで覆い隠してきたきれいな笑顔で。
暗黒の世界の入り口へは、一週間程かかった。
勿論道を知っているが、過去の記録を何年も調べたという事にしておいた。
眼前に広がる暗い風景に、フィルシスの恐れは隠せなかった。
「シャーレンがいて良かった…」
少し安心したように、微笑む顔…それを見るのはこれが最後になるかもしれない。
「こんな所、一人で歩きたくない…」
やがて、神殿の前にたどり着く。最奥の広間に行くまでには、四つの門がある。
暗黒神官は神殿の広間でフィルシスを生け捕りにして、自ら華々しく処刑すると言っていた。
ただ、あまりにも敵が現れなければ怪しいと、先代の聖騎士団長にも恨みがあるラークだけは戦う事になった。
四天王や他の部下は隠れて待機して、万が一彼が負けそうになったら、後ろからフィルシスを不意打ちするという約束だった。
「気をつけて、シャーレン…」
「あなたもですよ」
互いの実力を考慮して、二手に分かれて、調べる事になった。
本当は側についていたかったが、イグデュールの足止めをしなければならない。
幻獣は、ラークの後、フィルシスと戦わせるために、暗黒騎士の門の方に向かわせる。
後にフィルシスと融合させるには、嫌がって暴れないように弱らせておく必要があったから。
命が危なくなる程になれば逃げろ、とだけ厳命しておいた。
四天王のそれぞれ門には、仕事で神殿に寝泊りしなければならない時のために、部屋がある。
だからそこは、第二の家とも言えた。
その部屋で漆黒のローブを着直す。今まで着ていた純白のローブは、黒い焔の呪文で燃やす。
もう一つ、本当の目的がある。
自分にしか開けないように魔法をかけていた棚から、薬の瓶を取り出した。
そこには研究や実験で調合した薬物を保管していた。傷薬も、媚薬も、毒薬も…。
準備を終えると、幻術師の門に向かった。
「シャーレン?どうしてここにいるんだい?」
向かっていった自分に、イグデュールが怪訝な表情をした。
「お前は本当に、向こうの世界がいいか?」
少しずつ、距離を詰める。
「当たり前だ、何を言ってるんだ、今更。それで、何の用なんだ」
どうせ始末するのに、何も隠す事はない。
「お前が邪魔だと言えばわかるか?」
長い沈黙が走った。
「……裏切るんだね…?そんなに君は、あの世界を一人占めしたいんだ」
うつむいて、ぼそっと呟く。
「私はあの世界ではなく、聖騎士を手に入れたいだけだ」
俯いていた顔をあげて、イグデュールが鋭く睨みつけて叫ぶ。
「何を言ってるんだ、暗黒世界の人間を、あっちのやつらが許すとでも思うのか!聖騎士はお前を殺そうとするだろう!」
言われなくてもわかっている。だが、本当にフィルシスはそれで終わるだろうか。
イグデュールは知らない、聖剣に認められた程の心が、どれ程澄んでいるかを。
「別に許して欲しいとも、愛して欲しいとも思っていない。たとえ憎しみでも、あの心が私のことだけを考えるのならそれでいい」
静かに呟いた。黙ってこちらを睨んでくる彼には、永遠にわからない。
両親に殺されかけたなら、それはさぞ嫌悪される事が恐ろしくなるだろう。
だが自分は?
「君とはどうしても、戦わなければならない事はわかったよ…」
イグデュールが腕を構えた。幻術を生み出す。
一人で戦うなら、幻術を破る呪文を唱えている暇はない。
詠唱の短い呪文を唱えながら、隠し持っていた小瓶を、素早く床に落として割った。
瓶が割れた瞬間、中に入っていた煙状の毒薬が広がる。
「…ぐ…う……!」
その瞬間、イグデュールの悲鳴が聞こえ、幻術が解けた。
唱えていた呪文を、幻術に紛れて襲い掛かろうとしていた幻獣に放つ。
鬼虎の体が傷ついていく。これで、しばらくは動けない。
「な…何をした…!」
咳き込み、血を吐きながら、イグデュールが床に膝をついた。目の前の床の上の割れた小瓶を睨む。
「気体状の毒だ…」
自分も、よろめく足を踏みとどめながら答える。
「…そのままだと、ほぼ一日で体中に回って、死に至るな」
同じく、持っていた解毒剤を取り出して飲んだ。
万が一、ラークが来て毒を吸わないように、空気中に残っているものは魔法で排除する。
床に倒れたイグデュールを見下ろした。このまま放っておくだけで彼は死ぬ。
悔しそうに、忌々しげに見返してくるが、諦めの混じった瞳だった。
「悔しいか?お前の大嫌いな私に、こんな風に見下されて」
自分が憎くてたまらないのに、無力な彼の姿を見るのがとても楽しくて、思わず時間を忘れそうになる。
「それとも羨ましいか?お前は何一つ手に入れる事はできないが、私は手に入れる事ができるのだからな」
「……」
彼の中にも、自分に対する凄まじい憎悪が渦巻いている事だろう。そう思うと、自分だけを見ている瞳が一瞬何故か愛しく思えた。
「安心しろ、お前の分もある」
その憎悪に振り回されながらも何もできない彼を見下ろした。
もう一つの瓶を取り出すと、イグデュールが驚いた。
しかしそれを、彼から遠く離れた所に放り投げると、再び忌々しげな視線を向けられる。
「貴様…!」
「お前の運が良ければ、また会えるさ」
彼を殺すかどうかは最早どうでも良かった。
ただ、彼だけが自分に、例え歪んだものであっても、今まで何かしらの感情をぶつけ続けて来たのと同じように、
自分もそんな彼に、何かしらの歪んだ愛着のようなものを持っていたのかもしれないと、その時気づいた。
「待て…!ちくしょうシャーレン!許さない!許さないぞ、そんなこと…!」
床に倒れたままのイグデュールの恐ろしい叫びを振り切って、神殿の中央に向かった。
両者が戦っている広間についた時に丁度、倒れたと思ったフィルシスの体が、輝く剣で暗黒神官を斬り裂いた。
二人とも激しく血を流して倒れこんでいた。
暗黒神官がこちらを見て微笑む。
戦いに必死で、自分が何故こんなにも遅く現れたか、考えもしなかったようだ。
助けない、とどめを…
呪文を唱えようとしたが、神官はその微笑みを顔に貼りつかせたまま、絶命していた。
今まで、自分の半生以上、その元に仕えていた人が死んだ。
もしも彼が、あの二人の両親に自分を育てさせていなければ、自分は死んでいた。
暗黒神官は、その大きな夢を叶えられたかもしれない。
でも、死んでもらうしかなかった。
フィルシスとずっとずっと一緒にいるためには。
そっと近づいて、フィルシスと対峙する。
待ち望んでいた刹那、来てほしくなかった瞬間。
いつの日だったか、彼がくれた飴玉を溶かしたように、彼がくれた幸せな偽りの日々を壊す時。
「シャーレン…!まさかシャーレンが暗黒の魔術師…」
自分を見るたびに、微笑みかけてきた愛らしい顔が、今は絶望に彩られた顔。
「そうですよ、フィルシス様」
冷酷に微笑みながら床に座り、血を流す体を抱き上げた。
ずっと夢見ていた、愛しいこの時と一緒に、抱きしめるように。
「あんなに私に優しくして…色々なこと…教えて…それは全部…
私に…暗黒神官を倒させて…私も暗黒神官も両方始末して…今度は自分がここを支配するつもりだったから…?」
そうではないのに。その思い出を、一人で思い返すなんて、嫌だから。
「間違ってますよ、フィルシス様。あなたを死なそうとは思ってない。私はいつも思っていたのですよ。あなたを私のものにしたいとね!」
大切に思ってる、何よりも。
気高く清い彼だから、ずっと優しく抱いていてあげたい。
なのに、こんなにも好きだから、自分だけの手で、汚したい。
傷つくだけ傷ついて、その傷跡を見て、ずっと自分の事だけ思い出していて欲しい。
「嫌だ…どうして…!」
途絶えていく意識の中、呻いているフィルシスの耳元で囁く。
複数の種類の生き物を、融合させる呪文。自然界では決して起こらない事を生み出す闇の魔術。
過去に試した者達の記録の中に、幾つもの結果が記されていた。
今にも実験台になった者達の悲鳴が聞こえてきそうなおぞましい記述。
もしも失敗すれば、それぞれの体が、神経や臓物も不自然に混ざり合い禍々しい姿になって、長く生きることも無理だろう。
成功すれば、正常な形で混ざり合う。それは人間のようで、人間の姿ではないけれど。
心も体も自分だけのものになる呪文。
黒い閃光が、フィルシスと狼の身をしばらく包んだ後、それは消えた。
端整な顔、線の細い体のライン、きれいな肌はそのままだった。ただ人間の耳は、犬のような耳に変わり、白い尾が生えていた。
成功だ。細い首に、首輪をつけて飼い慣らせる。
一番愛している人の心が、自分に対する愛情と憎しみだけで埋まる。
一番愛している人の体が、自分なしでは生きていられなくなる。
崩れ去っていったものが哀しくて、新しく芽生えたものが愛しくて、眠ったままのフィルシスの顔の上に、涙を零した。
「謀叛だ…」
しばらく床に座り込んでいると、低い声がこだました。すぐに涙は止まった。立ち上がって、そちらを見る。
影で、密かに待機していた暗黒神官の部下達は、まだいた。暗黒騎士も、魔術師も、幻術師も、召喚術師も。
フィルシスが勝利を収めた辺りから、忠誠が野心に変わった者もいるのかもしれない。
「なら、あんたを倒せば、今度は俺が支配権を得るって事だな…!」
誰かがそう言うと、我先にと、見ていた者達が向かってくる。
「そうだな。私に勝ったなら、好きにしていいさ…勝ったならな」
多勢相手に死の呪文を唱える暇はなかった。詠唱の短い呪文を唱える。
「ぎゃあぁ…!」
その悲鳴もすぐに、喉がなくなって、消えていく。
肉体を引き離していく暗黒の魔術。詠唱が少ない分、死までに長い時間がかかるが、今はその方が良かった。
「心臓が分解する前に、私を殺せば、魔法は止まるぞ?」
静かに微笑んで、悶絶する様子をじっと眺めた。
後を追ってきていた者達は、すでに目を背けている。
皮膚がはがれ、剥き出しになった筋組織も血管も骨格も、ゆっくりとほぐれていく。
眼球も脳髄もびしゃりと床に零れていく。
魔法だから、最後に残った鼓動する心臓が形を失うまで、死んだ方がましだと思える程の痛みがあっても、理性も意識も五感もなくならない。
そうやって、先陣を切って来た者達、数人を惨たらしく殺す。
見せしめのために、恐怖を植えつけるために、そして愉しむために。
ぐしゃりと、先ほどまで人間だった赤い肉塊が床に崩れ、絨毯のように血が広がったのを見て、後を追った者達は顔を背けたまま立ち尽くしていた。
馬鹿なやつらだ。協力すれば、自分を倒せたかもしれないのに。
「さて、まだ残っているな?今度は趣向を変えてみるか」
もう一度、腕を構えて呪文を唱えようとすると、向かってきた者達は、恐れをなして逃げた。
腐臭が充満する前に屍肉も、魔術の黒い炎で燃やしていく。
「シャーレン…」
後ろから、低く震える声が聞こえた。
「ラーク…」
はっと振り向くと、ラークが叫ぶ。
「…あの時からずっと、こうしようと思っていたのか?俺にそいつが好きだと、打ち明けた時から」
いくら彼でも、暗黒神官を裏切った事は、怒っているようだ。帯剣しているその柄に、手がかかっている。
「…そうだ。お前に言った事は嘘だ」
”死ぬ前に、抱けるならそれでいい”…そんな事嘘に決まってる。死なせるわけにはいかない。
「………」
剣は抜かないままだったが、ラークがこちらを睨むようにじっと見た。
「…そんなに、怒ってるのか?」
黙り込んだラークに、聞いた。
「…俺が怒ったら、嫌なのか?」
自分は無意識のうちに、困った顔でもしていたのだろうか。ラークが一瞬不思議そうな表情になる。
「お前、少し変わった」
剣の柄にかけていた手を放し、ため息をついて苦笑する。
「何?」
「俺に嘘をついたのは、俺の事も始末する気なんだって、思ってたんだよ、今」
何か、少しからかわれたような気がした。
「…帰る」
ラークに背を向けて、もう一度かがむ。まだ眠ったままのフィルシスを抱き上げて、門の方に向かった。
「ちょっと待て、他のやつらには何て言うんだよ。まさかイグデュールもやったのか?」
「あいつは多分無事だ。そんなに気になるなら行ってやったらどうだ」
ラークがこんなに言うなら、殺さないでおいて良かったと思ったが、もう今は、そんな事はどうでも良かった。
「神官の部下には実際に見られたから隠し通せないが、暗黒神官が負けたのは事実だからな。
もう戦はないから、その分軍備に金はかからなくなる。街のやつらにはたくさん減税でもしておけばいいさ…
手の空いた神官の部下も、街の警備に回せるから、もっと平和になって、少しは満足するだろう」
さっさと立ち去ろうとする自分に、ラークがため息をついた。
「それにしても、稀代の聖剣使いって言うから、どんな強靭なやつかと思えば…子供じゃないか」
側に来て、まだ幼さの残るフィルシスの寝顔を眺めた。
ああ、そうか…聖剣使いが好きだと洩らしたあの時、ラークが何か言いたそうな顔をしていた事を思い出した。
あの時、ラークには、フィルシスの容姿について全く言っていなかったから、自身と同じような筋骨逞しい騎士の姿を想像していたのだろう。
同じ騎士で、男で、はるかに付き合いの長い自分より、聖騎士を取ったとなれば、それは少しショックだったのかもしれない。
「俺にも一回やらせろよ」
不意にラークが言う。
「なんだ、結局お前も惚れたのか?」
無抵抗に眠るフィルシスの顔は、まだ幼さが残り、誰の目にも可愛らしく見える。
「そんなんじゃねえよ、嫌がらせに決まってるだろ。お前がこんな事しなかったら今晩は祝賀会だったのになあ…」
考えてみれば、暗黒神官が敗れたのだから、きっとラークも負けたのだとわかった。
「いいぞ。ただし、明日な」
そう答えると、聞いてきたくせにラークが驚いた。
「本当かよ。いいのか、お前、こいつを好きなんだろ?」
「比べるものがなかったら、私が一番良いってわからないだろう?」
「そいつに少し、同情するよ」
苦笑と、面白い玩具を見つけた時のような声が混ざる。
「誰のお陰で、故郷が平和になったと思ってるんだ」
ぼそっと呟いて、ぐっすり眠ったままのフィルシスを抱き上げる。
暗黒神の眠る巨大な黒水晶を、そっと振り返って見た。
一瞬だけで、すぐに再び背を向ける。
外に出て、歩き出す。
つい先日までいた、あの美しい世界とは全く違う、灰色の世界。
あんなにも優しいフィルシスが、自分を慕ってきたフィルシスが、心から自分を恨み切れるのだろうか?
きっと自分の事だけで悩んで葛藤してくれる。
振り切れない思い出と、真実の狭間で。
それが哀しみでも憎しみでも、自分一人の事だけでフィルシスの心が満たされる。
別に、今までと変わらずに、接する事だってできた。
後悔しているかもしれない。
クルーヌも先代の団長も、フィルシスも、自分はフィルシスを死なせたくはないと正直に打ち明ければ、分かってくれたかもしれないから。
だけど本当に、本当に愛しているから…
君だけには、偽りの自分を好きでいてくれるより、本当の自分を見て欲しかった。
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