その街は、住人以外には見えない街だった。
決まった場所で合言葉となる呪文を唱えなければ、入り口が見えない。
白い煉瓦造りの家々に月明かりが薄く反射していた。街灯には橙の明かりが光っている。
歩いている者達の種族がばらばらなのを見ると、ルシュヴンは少しがっかりした。
「この街は何だ」
街を行き交うのはほとんどが亜人種だ。もしくは様々な種族の血の匂いが混じる混血種だった。
「行き場のないやつが集まって適当に作った街さ。だから住人は皆、何がいても驚かない。魔法で覆われているから、太陽の光も届かない」
「人混みは嫌いだ」
人数だけでなく、色々な種族の血の匂いであふれかえって、煩わしい。
「じゃあ入り口で待ってたらいいだろ」
「待たされるのも嫌いだね」
「お前って、ほんと面倒くさいやつ」
一々文句を言うルシュヴンの方はもう見ずに、シクロは歩き始めた。
「こんな所に君の家があるのか?一人旅をしているぐらいだから、もっとひっそりとした所に暮らしているのかと思っていた」
もう日は暮れているのに、街は人に溢れかえっていた。
中には、はっとしたような視線を向けられたり、興味深そうな視線を向けられたりしたが、
よく分からない亜人種が多いだけではなく、魔物のような姿のものや身近ではない動物もいるため、吸血鬼がいても全く目立たない。
「俺だって、たまには群れていたい時はあるさ。お前はないのか?」
「ないよ」
酒場で騒ぐ群衆をぼんやり眺めながら、ルシュヴンは答えた。
吸血鬼になったばかりの時はあったかもしれないが、群れれば群れる程、後で虚しくなるだけだと、いつの時か気づいた。
あのイノベルクのおかげで…
「おい、シクロじゃないか」
ざわめきをかき消すような声に、ルシュヴンは顔を上げた。
この街では珍しく、純粋な人間の血がする。
男は軽装だったが、鍛えた体つきや傷跡の多さを見ると、普通の町人には思えない。
「お前こそ珍しいな、俺と同じぐらい旅に出ているのに」
驚きながらシクロが彼に向かって返事をする。
青年はシクロと会話しながらも、視線はずっと自分を見ていることにルシュヴンは気づいた。
「あんた、人間じゃないだろ」
じろじろ眺められて嫌そうな顔をしているルシュヴンを見て、シクロが面白そうに答える。
「こいつは吸血鬼」
「本当に!初めて見た、触ってもいい?」
「すでに触っているだろう…」
聞く前に勝手に握手している。
ルシュヴンがその手を振り払うと、青年は少し残念そうな顔をした。
だが、懲りずにシクロに話し続ける。
「俺もあちこち行ったつもりだったんだけどな、残念だ、一体どんな旅をしたら吸血鬼と友達になれたんだ?」
「友達じゃねえよ」
「友達じゃない」
二人の声が重なった。だが、彼は構わずに続ける。
「俺も咬んでくれよ、不老不死って最高じゃないか」
「そういう話はまた今度な」
まだ何か話そうとしている彼を置いて、足早にシクロは先に進んだ。
「あいつと真面目に話してたらいつ解放されるか分からん。好奇心が強すぎる。俺が初めてあった時は三日ほど離れなかったな」
「それは迷惑なことだ。で、一体どこに行くんだ」
「依頼品を渡しに行く」
依頼品と聞くと、ルシュヴンは複雑な気分になった。
あの宝石の事は全て忌まわしい過去だから、思い返したくはない。
だが周りの煩雑な音が、過去の記憶を連れてくる。
最後にこんな風に街を歩いたのは、いつだっただろう。昔は無かったものがある。
庶民の家なんて住めたものじゃないと、自分が人間だった頃は思っていたけれど、今はもう少し豊かになっているようだ。
昔はあって今は無くなったものがある。変わっていく世界と、過ぎていく時間を直視しなければならない。
その度に、独り残されていくこの身を実感しなければならない。
―いつか死ぬとしても、永遠に存在するとしても、孤独に変わりはない
吸血鬼の契りを果たした後のあの男の声を思い出す…
人混みにいると苛立つのは、人を見ていると思い出したくないことを思い出すから。
果たして、不老不死は最高なものだっただろうか。
最初は、大切だった人と離れたくないから、群れていたいから、死にたくないと思った。
長く同じ時を過ごせば過ごす程、失うのが恐ろしい。
それがいつか、失くさなかったものに飽きるのが恐ろしくなるのに変わっていく。
失うのが怖いから永遠を求めたはずなのに、いつの日か、永遠が怖くなっていた。
いずれ想いが消えるなら、最初から、何も無かった方が良かったこともある。
しばらくすると、人気が無くなった。街灯の明かりも不十分で薄暗い。
街の反対側まで来たのかもしれない。
暗い路地へ続く道の前で、シクロが立ち止まった。
「さっきみたいにべたべた触られたくないなら、ここで待ってた方がいいと思うんだがな、どっちも嫌いなお前はどうする」
「それは待ってる方が良い」
大体予想できていた返事を聞いて、シクロは狭い路地を通っていった。
知っている者だけに分かる暗号が、一応書かれている汚い看板の店に入る。
中はいつ見ても整理されておらず、床やテーブルのあちこちに本や骨董品、そしてがらくたが積まれていた。
開いた扉の音を聞いて、店の奥から人が来る気配する。
「また会えたな、シクロ」
にやっと笑って店の中の男が言った。
濃い黒色の髪と瞳で、この国にいる人間の中で比べると、少し特徴的な顔の造りをしている。
人間の世界で見ると、東の方にある異国の出身だ。
「嫌な言い方をするな、ご苦労とかねぎらいの言葉があるだろ、ヘイシュ」
ただし、その名前は正しいのかどうかは分からない。
人間の間でも、国によってはかなり発音しにくい名前らしく、自分の聞こえるように適当に発音しているだけだ。
「で、頼まれたものは取ってこれたのか?」
薄笑いを浮かべているヘイシュに、シクロは無言で血星石と黒い魔石をカウンターの上に置いた。
一瞬驚いたように目を見開いた彼が眼鏡をかけ直し、両方の宝石を手にとって、まじまじと眺める。
「すごいな…正直今回はお前でも無理かもって思ってた。これだけあれば、普通の人間は半生は遊んで暮らせそうだ」
「それは良かった。あいつらは元気か」
優しい声音でシクロは聞いた。ヘイシュの方も顔を上げて、同じように穏やかな笑顔で答える。
「ああ、もうこんな夜遅いから、みんな寝てるけど。そうだ、お前が旅してる間に、ジュンとノニカは無事に仕事先も決まった」
「じゃあ、そろそろ荒稼ぎする必要、なくなるかな」
帰ってくるたびに誰かが働けるようになっている、それは喜ばしい反面、今まで自分が信じてきた存在理由もなくなることを意味していた。
「そうだな、これだけ金が入れば。でも、お前はどうするんだ」
ヘイシュが心配そうに苦笑しながら、尋ねた。
「さあ、考えてない」
リダリスの所に行ってみるけれど。きっとずっとは一緒にいられない。
「この街で暮らさないのかい?あいつらが喜ぶだろ」
「駄目だな、あいつらが大きくなって、この街から出られるようになった時、賞金首の俺と関わりがあったと分かったら、まともな職に就けないかもしれない」
それだけ言うと、シクロはさっさと背を向けた。
「もう行くのか」
扉に向かおうとすると、声をかけられる。
「夜に来て、何もせずに帰るなんて珍しい」
「したいのか?」
苦笑するとシクロは立ち止まって、もう一度店の中を向いた。
「いつもの事だ、別に構わないだろ?」
「娼館と違って、金払わずに済むからだろ」
カウンターを出て近づいてくるヘイシュと身長はそれ程変わらない。
立ったまま下着を降ろされて、腰を押し付けられる。
今までに、何度かした行為。
でも、互いに好きだからするわけじゃない。
お互いに、ただ自分を満足させるためだけの渇いた行動だった。
一応ローションで丁寧に慣らして、ゆっくり挿入される。痛くないように。
なのに、全然良くない。妙に冷めている自分がいる。
あいつの方が良かった…
そう思ってしまった自分に少しぞっとする。
今までは、誰でも入れられて出すだけで、体は満足できていたのに。
後ろを突かれていても、疼き始めるのは咬まれた場所。
あのたった一咬みにも負けているような気がする。
こんなにも毒牙に蝕まれていた…
そんなことを思っていると、後ろからため息混じりの声がした。
「何か別のこと、考えてるだろ」
息をはずませながら、ヘイシュがぼそっと呟く。
「…そうだな」
ごまかしようもなく、ため息交じりにそう返事する。
「上手いやつでもいたのか?」
屈辱で苦笑しながら、残念そうに訪ねてきた。
誰か別の相手に負けたことを悟ると、ヘイシュが体を離して着衣を整える。
「……あんたが下手になったわけじゃないから安心しな」
ヘイシュから離れると、シクロも乱れた服を整えた。
「今度は昼に来るよ」
そう言い残すと、もう一度扉に向かった。
「ああ、そうしてくれ」
二人の背後で、月明かりに照らされたヘリオトロープが美しくとも禍々しくとも思える輝きを放っていた。
鮮やかな血飛沫があがっているかのように。
「誰彼構わず相手をするんだね」
シクロが戻った時のルシュヴンの第一声だった。
「盗み聞きかよ、悪趣味だな」
「聞こえるんだ、君だって遠くの音が聴けるだろう、それより」
いきなり顎を掴んで、眺めた。
「物足りなさそうな顔をしているじゃないか」
「お前には関係ないだろ」
上機嫌そうなルシュヴンの手を荒っぽく払うと、シクロは来た道を戻った。
「どこに行くんだ」
薄い反応がつまらなさそうにルシュヴンが聞く。
「俺の家」
家も街はずれにあり、すぐに着いた。
広くはないが、マンションの多いその街ではあまり見かけない一軒家だ。
それでも、ルシュヴンにとっては小さく見えた。
「狭い家だな」
「仕方ないだろ、世間知らず。俺は今日はここで寝るからな」
シクロはベッドの前で立ち止まった。
「お前は床」
「何を言ってるんだ、君が床だ」
ルシュヴンが怒っている隙にシクロは、貰った銀の十字架を素早く出した。
「……!」
月明かりに照らされたその輝きに、ルシュヴンは一瞬怯んだ。
その間にシクロがベッドに押し倒す。
「物足りなさそうって分かるなら、身体、貸してくれるな?」
「乗りかかるのを止めてくれたらね」
勝手に下着を降ろし始めているシクロを、ルシュヴンは引き剥がそうとしたが、彼の後孔に自分のものをあてがわれると一瞬力が抜けた。
「お前の都合なんか知らん」
裂ける痛みでシクロは少し眉をひそめた。
だが、流れる血で滑りが徐々に良くなっていくと、お互いの呼吸が荒くなり始める。
「ただでさせるなんて御免だ…!」
押し倒された上に、圧し掛かられたままなのは癪で退かそうとしたが、シクロが後孔を締めると、その刺激にルシュヴンは思わず黙りこんだ。
しばらくお互い無言のまま、濡れた音だけが響いていた。
ただ、奥まで挿入せずに、先の方だけを締め付けるように、腰をゆっくり動かされる。
その動きがじれったくて、シーツの上にあったルシュヴンの手は、無意識のうちにシクロの腰を掴んだ。
「今、突こうとしただろ」
そんな様子を見て、すぐさまシクロが笑みを浮かべる。
「してない」
誘いに乗ってしまったように思えて悔しく、そっぽを向いて呟いた。
「じゃあ、手、離せよ」
ルシュヴンは無言でシクロの腰を手放すと、腕を組んだ。
唇を固く結んで、平静でいるように努めた。
緩い刺激が長く続いて、もどかしい。
だが、相手も同じように辛いのは、見ればすぐにわかった。
「僕にかかるんだけど」
「いいじゃないか、似合うかもよ」
全く退ける気配のない様子にいらっと来て、ルシュヴンは一瞬霧のように消えた。
「君の方が似合うよ」
舌打ちしているシクロの後ろに現れて、腰を抱き寄せる。
「やっぱお前だってやりたいんじゃないか…!」
先程までは浅く挿入していたところを、奥まで入れるとシクロの声が掠れた。
「君が勝手に乗りかかって来たんだから、何をしようと僕の勝手だ」
以前に咬んだ首筋の傷に息がかかると、体がびくっと震えた。
本当は疼いているのを我慢しているんだ。
とても想像できないが、今まで咬んできた獲物のと同じようにシクロも、
咬んで欲しくて、苦しみの後に狂っていって、最期だけは至上の快楽の中で、幸福に満ち足りた表情で絶命していくだろうか。
今度は手でそっと鎖骨付近の咬み跡をなぞった。服の上からでも反応するのが分かる。
「さっきから…関係ないとこ、触るな……!」
「でも、ここも気持ち良いんだろう?」
少しだけ、熱い体を感じていたくなった。
いつかこの腕に抱く彼は、きっと屍だから。
窓から夜明け前の薄暗い空が見え始める中、無言で後始末をした。
お互いに、腰をそっと動かしたり止めたりして焦らしあっていると、いつの間にかかなり時間が経過していた。
ルシュヴンは手についた白い体液を舐めた。
「やっぱり血の方が良いな」
ダークエルフのものなら何でも良かったが、血以外は味も香りも何もしない。
「お前も途中から勝手にしたんだから血はやらない」
シクロは壁にもたれて、不機嫌そうに答えた。
「いいよ、別に。待つのは嫌いだけどこれだけは待つさ。凛とした女性も勇敢な男も、結局最後は陥落した」
勝手に蛇口やタオルを使って汚れを拭いながら言われると、余計に苛つく。
それなのに、待たれてもちっとも嬉しくないことなのに、何故か安堵に似た気になった。
「君はどうかな」
その言葉だけ小声で呟くとルシュヴンがベッドの上に寝転んで背を向けた。
「…っていうか、俺のベッドで勝手に寝るな!」
我が儘でプライドが高くてむかつくが、今の自分には他の誰よりも合っている気がした。
リダリスやヘイシュのように、守る必要も、すがりついてしまいそうになる事も、絶対にないから。
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