シクロが霧に覆われた渓谷や真っ暗な森を抜け切った頃には、もう日は暮れていた。
「さて、行くか」
「次は何をさせようと言うんだ。先程のような事だったら、そろそろ君の人生を終わらせてあげるよ」
気味の悪いものや、汚らしいものを触るなんて、もう金輪際ご免だった。
「言っとくけど、俺はまだ、にんにく持ってるからな」
シクロがそう言うと、ルシュヴンは不機嫌そうに睨んだ。
少し面白そうに笑って、シクロは話を続けた。
「でも、今度は一旦家に帰る」
「…君の家?」
不覚にも少しだけ、期待してしまった。声に出てしまったかもしれない。
ダークエルフの集落にでも行くのだとしたら、女の血が吸えるかもしれない。
「まあ、楽しみにしてるんだな。じゃあ…」
シクロがルシュヴンに説明しようとした時、背後から突然、呼ぶ声が聞こえた。
「…シクロ!」
二人は驚いて声のした方を見た。
月の光が人影を照らす。
振り返った先に、馬に跨った青年と、側を走る猟犬が見えた。
どんどん駆け寄って来る。
「シクロ……」
馬から降りて、青年は呟いた。
顔立ちが良く、男にしてはやや大きめの栗色の目と、同じ色の髪が、柔らかな印象を与えた。
彼の血は、半分は人間の匂いがする。
しかし、もう半分は光エルフのものだった。
だから、若く見えるが、彼の実際の年齢は分からない。
「リダリス……!」
シクロがぽつんと呟いた。
驚いた様子だったが、その表情には今までの緊張や不安は一切なかった。
「こんな所まで何しに来たんだよ、よく分かったな」
口調も普段よりも随分柔らかだ。
と言うより、嬉しそうだった。そんな顔は初めて見る。今まで決して見せなかった表情。
「君の方こそ、何をしてるんだ……」
シクロとは反対に、リダリスと呼ばれた男の方は、どこか不機嫌そうだった。
震える声で、シクロに話し続ける。
「知らないとでも思ってる?
あの時、やっと帰って来てくれたと思ったら、すぐにどこか行って…
どこに行ったんだろうって、みんなと心配していたら、いつの間にか賞金首になってるし!
だから、保安局に聞いたら、君が向かった大体の方角は分かったし、その後はロブが臭いを辿ってくれた。
昔、君にもらったものが、まだ色々家に残っているからね」
馬の横に立っている優秀な猟犬を見ながら、リダリスが話を続ける。
シクロは、まさかリダリスが自分を捕えに来たのかと思うと、内心どきりとした。
「俺以外は誰も知らないけど」
追いかけてきた理由は別であるかのように、リダリスはそう付け加えた。
「でも、賞金首になったのを聞いた時はまだ我慢していた。本当はすぐに君の所へ行こうと思っていたけど…」
彼の怒った口調はまだ続いた。
「でも、つい先日、もう一度情報を聞いたら…!まさか、そんな吸血鬼と一緒だなんて……!今度だけは見過ごせない!」
そう言って、リダリスがルシュヴンを鋭く睨む。
「一緒だなんて言い方しないでもらえないか、別にいたくているわけじゃない」
「魔物の言うことなんて信じるもんか!」
そう言うと、リダリスは純銀の十字架をルシュヴンに向けた。
「そうか、そちらがその気なら、僕も容赦はしない」
魔物と言われると、少し苛っとした。
赤い瞳を煌めかせて、リダリスを睨む。
「…う…っ」
シクロと違って、半分人間の血の混じる彼は、それだけで僅かな陶酔を感じた。
十字架を握りしめて、聖なる輝きを感じていなければ、たちまちその官能に吸い寄せられてしまいそうだ。
「ちょっと待てよ、お前ら!勝手に何始めようとしてるんだ」
ルシュヴンを突き飛ばしてシクロはリダリスの方に駆け寄った。
「先に仕掛けてきたのはそっちじゃないか」
「おい、大丈夫か」
怒るルシュヴンの言葉を無視して、シクロがリダリスに言う。
「だって…そんな吸血鬼と一緒にいて、追われるより危ないじゃないか…
何考えてるのか知らないけど、悪事なんかして欲しくないけど…
別に、自首してくれなんて、言わないからさ…
もういいじゃないか、追われながらそんな危険な事しなくても、俺の所で一緒に働いて、平穏に暮らそう…」
我に返ったリダリスは、寂しそうに肩をすぼめた。
余程ショックなのか、彼の言っている事はやや支離滅裂だった。
だが、その口調からは気遣いが伺える。
「仕方ないだろ、俺だって色々あるんだ」
俯いたリダリスに向かって、シクロが困惑したような表情で、慰めるように語り掛けた。
それも初めて見せる表情だ。
「じゃあ、俺も一緒に行く」
再び鋭い視線に戻り、ルシュヴンを睨みながらリダリスが強く言った。
だが、シクロは視線を遮るように、リダリスのなで肩に手をかけた。
「ダメだ、お前にはお前の家族がいるだろ」
「………」
その言葉を聞いて、リダリスが黙りこくる。
「わかった、じゃあ今度からは月に一度は寄る」
小さなため息をつくと、シクロは再び慰めるように言った。
「前もそう言って、全然来てないじゃないか!」
再びリダリスが声を荒げる。
「そうだったな」
「もう、君ってやつは…」
悪く思っているような素振りも見せず、あっさり認めたシクロに、リダリスは何か言いたげだったが、すぐに語尾を濁した。
あきらめたように、純銀の十字架をシクロに渡す。
「分かったよ…じゃあ、これを持っていてくれ」
「ありがとう」
シクロは笑顔でそれを受け取った。
その十字架を見て、無表情のままでいたルシュヴンは少し嫌そうな顔をした。
「もしも彼に何かあったら、ちゃんとプロのヴァンパイアハンターに頼んでやるからな!」
ルシュヴンを睨みながらリダリスはそう叫ぶと、馬の鞍に乗った。
「じゃあな、気をつけろよ」
去っていく後姿をシクロは、その場でずっと見送っていた。
「そんなにずっと見ているなら、連れて行けば良かったじゃないか」
それがルシュヴンにとってはあまりにも長く感じたため、思わずそう言ってしまった。
「あいつは危険な目にあわせたくない、汚い事をさせたくない」
珍しく、真剣にシクロが答える。
ルシュヴンは、何故か僅かに苛立ちのようなものを感じたことに気づいた。
「ま、連れて行けば君の最期を見ることになって、気の毒だけど」
「何だよお前、その前にこれで突き刺すぞ」
シクロがようやく、いつも通りの少し乱暴な口調で、先程受け取った十字架を向ける。
そんな彼が、先程穏やかに微笑んでいたのを初めて見た。
まるで別人のように思えた。
その様子を見ていると、胸が少し痛くなった。
思えば、最後に誰かと誰かが楽しそうにしている様子を見たのは幾年も昔だから。
遠い昔が、重なり合うと締め付けられるような気がする。
今まで誰かの血を吸った時は、こんなにも長い時間一緒にいたことはなかった。
相手の事を知る暇も、必要もない。
今まで長い間、人間の世界から離れて襲う者に変わり、彼らに恐れられ憎まれ、とうに失えたと思っていた幾つもの感情が浮かんでくる。
思い出したくないから、失ってしまおうと思ったのに。
これ以上、戻ってきて欲しくはない。
やはりもう、暇潰しなんて止めて、今度こそは全部血を吸って、以前のように好きに生きよう…
もしも、シクロがいなくなったら、さっきの男はどれだけ悲しむだろうか。


「はあー……」
馬を走らせて、リダリスは一人、来た道を戻っていた。
もう随分昔になるが、あの日、何者かに襲撃を受けて、何人か連れさられて行った友人達。
シクロもその内の一人だった。帰って来たのは彼だけだった。
再会できた時は本当に嬉しかったのに。
また、すぐに行ってしまった。
何も教えてくれずに。
彼が連れ去られていた間の事は何も知らないけれど、何か問題を抱えていたのなら、支えてあげたかった。
友達として。
そんなに自分は頼りないのだろうか。
あんな吸血鬼なんかと一緒にいて…
吸血鬼……
……
「…アイツ、まさか血を吸ったんじゃないだろうな!」
激昂のあまり、つい声に出してしまった。
もし、本当に吸ったなら…
本物の吸血鬼を見たのは今日初めてだったから、詳しいことは知らないが、聞く所によると、ものすごく気持ち良いらしい…
あの真紅の瞳に睨まれただけで、微かだが濃密なエクスタシーを感じたのだから…
本当にシクロの血を吸っていたら…
「何考えてるんだ、俺は…っ」
なんだか浅ましい事をしているような気がして、一人、顔を赤らめた。
今は歯がゆくても、シクロを信じるしかない。家族と共に。
でも、とりあえず、みんなに元気そうだと伝えれば、喜んでくれるだろうな…。
そう考えていると、リダリスは、自然と馬の足を速めていた。
大分戻って来たけれど、今日はもう、夜も遅いから、一旦宿に泊まることになりそうだ。
だが、そこで不意に目の前を、黒い影が覆った。
「吸ってみたいかい?好きな人の血を」
低く冷たいその声が聞こえなければ、何事か判断しかねた。
夕闇よりも、暗い闇にしか思えなかったから。
「……!また吸血鬼…!」
この世のものではないものに恐れをなして、馬が硬直したように止まり、犬も小さく情けない鳴き声を出して、地に伏せた。
「何も怖がる事はない。ただ、問うただけ」
白い顔に、そっと微笑みを浮かべる。
目の前の吸血鬼は、さっきの吸血鬼よりも、もっとおぞましく思えた。
まるで冷たい空気の塊だけが、そこに存在しているようだった。
「え……」
それなのに、こちらを静かに眺め続ける赤い目を見ていると、まるで夢を見ているようだった。
周りの景色が急速に、現実感を失くしてゆくのが分かる。
「肩を抱き寄せて、肌に唇を寄せて、貪るんだ。好きなひとの血は……」
別世界に誘う深紅の目。この世の者ではない声。
その語りを聞くだけで同時に、想像というには鮮やか過ぎるイメージが浮かび上がる。
胸が熱く脈打つ。
先程の冷たさも忘れて。
「味わってみたいと思わないか?他の者に奪われたままでいいのか?」
赤い瞳から逃れられない。
自分の拙い想像では得られなかった、官能的なイメージ…
もう、周りに愛馬や大事な飼い犬や、夜の景色があったことも忘れて、赤い瞳の中の熱っぽさしか見えなかった。
「デュイ、彼も仲間になりたいようだよ」
人形のように動かなくなったリダリスを、同じように止まったままの馬から下ろしながら、イノベルクが囁いた。
闇に紛れていたデュイが、すぐに姿を現す。
「ご主人様…今度は……」
遠慮がちに言うが、その表情は曇っていた。
「咬んで、彼に血を飲ませてあげなさい」
デュイの小さな呟きを無視して、イノベルクは有無を言わさない冷たい微笑を見せた。



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