翌日の夕方、ヘイシュは異様な光景を目にした。
昨夜シクロから受け取ったヘリオトロープ。
そこから放たれる視界を蝕むような赤い輝きが、部屋を埋めていた。
「何だこれは…!」
朝も昼もただの宝石だったはずなのに。
ダークエルフには何も感じられなかったのかもしれないが、普通の人間である自分には、とても毒々しく感じられる。
この石は、悪意のある魔力が籠っていたのだ。
一体何者がそうしたのかわからないが、シクロすらも気づかない程、巧妙な細工で。
だが、それに気づくには遅すぎた。
もうすでに、禍々しい石の光が、心の闇を拡げていた。
―自分よりもシクロが気に入った相手がいる
その屈辱的な気持ちは、ほんの僅かしか持っていないはずだった。
それなのに白い紙にたった一滴落ちた朱色が瞬く間に広がっていくように、些細な嫉妬と屈辱が心を禍々しい紅に染めていく。
窓の外、真っ赤な夕日が青空を染め、最後は夜が空を闇で覆っていくように。
心を染めた赤黒い憎悪に操られるように、ヘイシュの足は、シクロの家に向かっていた。
夕方、ルシュヴンが目を覚ますと、シクロは家にいなかった。
また、知り合いにでも会っているのだろう…
そう思った矢先、嫌な気配が来るのを感じた。
こちらにやって来る何者かの血の匂いが、シクロのものではないことにすぐに気づく。
ただ、血の匂いは人間のものなのに、気配だけは一瞬身構えてしまった程とてもおぞましく感じた。
イノベルクの気配に、酷似している。
―有り得ない
そう強く思いながらも、勢いよく開かれた扉の音を聞いて、緊張が走る。
「あいつが連れてきたのはお前か…」
人間の男が立っていた。
黒い髪。平坦な印象の顔立ち。
異国の人相だったが、その顔に明らかな憎悪を浮かべて。
普通の人間のはずなのに、違和感が拭えない。
それが自分にとって、不快であり、脅威だ。
誰だ、と聞く前に男が口を開く。
「鏡に姿が写らない…、か」
男の視線が、室内の一ヶ所に向く。
「何故、シクロがつまらなさそうにしてたか、わかった」
言うなり、男は上着の内ポケットからナイフを素早く取り出すと、襲いかかってきた。
「な……!?」
人間相手に、普通ならすぐに避けられるはずなのに、思わず動きが鈍る。
月光にきらめくそれは、普通の刃ではなく、純銀だ。
「魔物には、コレがよく効くだろう」
不覚にも、傷を許してしまった。
さらに、普通の人間の力とは思えないほど強く、腕を掴まれる。
何故こんなにも強力な力を持っているのかわからない。
「貴様、一体…」
ナイフを持っている男の腕をつかんで、無理矢理引き剥がそうとした。
爪が刺さった個所から、男の血が流れ出す。
力の強さにも驚いたが、何よりも、その血の匂いに驚いた。
「そんな…まさか……!」
その血は正真正銘の人間の血だった、だが、微かに厭な匂いがした。
―イノベルクの魔力
有り得ないと思っていたのに。
心の奥に押し込めていた嫌な記憶が意識をかすめて、反射的に手が震えた。
「お前、何者だ……!」
単に、またイノベルクが操っているのか、それともイノベルクの忠臣がシクロに近づいたのか、
判断し兼ねたが、あの男が関わっていることに変わりはない。
とは言え、一度殺されたり、血を吸われたりしたわけではないようだ。
本気を出せば息の根を止めるのは訳ないが、
真偽の分からぬまま事を荒立てて、シクロの反感を買うつもりは無かった。
別に、反感を買うのが嫌というわけではない、敵にまわられると結構厄介だから…
再びナイフを突き立てようとしてくる男の腕を振りほどき、ルシュヴンは窓から外に出た。
そのまま高く跳んで、隣の建物の屋根に着地する。
地の上で、戸惑い憤る男を見下ろした。
さすがにここまでは、追ってこれないだろう…
気を許した瞬間、ひどく胸騒ぎがした。
―恐怖なのか?
そのような感情が人間には存在することを思い出す。
眼下の男の、血を吸われた訳でもないのに、狂人のような様子…
その瞳に一瞬ちらつくように見えた赤黒い光…
―強い既視感
それを解った時、背筋が凍った。
「久しぶりだね」
低く暗いのに、はっきり届く声、忘れられない。
こちらを見据える、漆黒の吸血鬼が、いつの間にかいた。
暗闇の中から、棘のように突き刺さる視線。
薔薇の花のように血色の瞳。
「久しぶりだね」
もう一度響く言葉。
蔦のように冷たく絡みつく。
「イノベルク……」
それ以上、何も言葉が出てこない。
背後に立っているの彼の眷族は、デュイだけではない。
しばらく、微動だにできなかった。
怯えを悟られたくはなかったが、きっと努力しても無駄だろうと思った。
「何故、その男を吸血鬼にしたんだ……」
リダリス…
シクロの友人だ。
屈託のない明るい笑顔を見せていた彼が、歪んだ微笑を浮かべている。
その唇から除く、白い牙。
穏やかだった瞳が、今は冷たく輝く。
「何故って、君のためだよ。
君は心配していたじゃないか、あのダークエルフの血を吸ってを殺したら、このお友達は悲しむかもしれないと。
だから、要らぬ心配をせぬように、先に彼を消してあげたんだ」
そう説明するイノベルクの表情を直視できない。
「言っている意味が分からない…」
うつむいたまま答えた。
きっとそんな自分を見て、この男は楽しむだろうとわかっているが、顔を上げられない。
「そうだね。ダークエルフを殺す気なんてないだろうね。
彼を気に入っているというなら、今度は君が代わりに親しいお友達になれる好機じゃないか」
「気に入ってなんかいない」
「では、早く血を吸いきってしまえ」
穏やかな口調から、突然冷たい調子になる。
思わず顔を上げて、身構えた。
瞳の奥に底が見えない。
真っ赤な血の色なのに、その眼差しは闇そのものだった。
「随分哀しい顔をするのだね。あの日以来だ」
たくさんの人間を殺せるようになったから、強くなったつもりだった。
目の前の男が怖くなくなるように、強くなりたかった。
数多の命を躊躇なく奪ってきた君が。昼の生き物からあんなにも恐れられている存在が。
人間がするような表情をまだ残していたのだね」
からかい、この男の前ではいつも無力だ。
「辛いと思うなら、何故存在し続けるんだ?
あの眩しい太陽に当たれば、全て終ったはずなのに。ただあるのは一瞬の痛みだけ」
彼の言う通り、生きてるのでも、死んでいるのでもない、
この時間を終わらせることはいつでもできる。
しかし…
「最も君が太陽に当たろうなんて真似をしても、すぐに私が救いに来てあげよう」
彼が自分にこんなに固執理由もよくわからない。
「それとも、風化した記憶がそんなに惜しいかい?」
彼はいつも全部知っている。
この心の内を。一体何を見透かされているのだろう。
記憶は本当は風化などしていなかった。
ただ、思い出すのが痛かった。
断片的な映像が脳裏に浮かぶ。
大切だった人との思い出―
一緒にいると楽しくて、言葉や表情や仕草の一つ一つが気になって…
そんな今となっては信じられないような人間としての温かい日々が、自分にも確かにあった。
だが、ある日突然彼女は笑わなくなった。
「私…いつか老いていくのね…」
そんなことばかり、言うようになった。
「閉じ込めておかないと、刃物を振り回して侍女達に襲いかかるんだ、血を寄越せって」
そう聞いた日から、彼女に会えなくなった。
毎日、様子を聞いても、彼女は同じ言葉を繰り返したまま、衰弱していく一方だった。
「私…いつか老いていくのね…」
どうすれば良いのだろう…
苦悶の日々が続く…
それから…忘れもしないあの恐ろしい満月の夜が来た。
“彼女をあの悩みから救ってやりたいか?“
自分にだけ聞こえる声が囁いた。
後に知った、父が、六人の子息を生け贄に喚び寄せた非凡の力。
数多の不幸を創り出す魔物。
“老いることも死ぬこともないものになりたいか、彼女と二人で“
頷くのにはきっと一秒もかかっていなかったと思う。
そして―
自分は、あのおぞましい契りを交わした。
夜を支配する者達だけの契約。
全てイノベルクの策略だったと悟ったのは、血塗られた誓いの後だった。
「私には、できない」
突然正気を取り戻した彼女の言葉は、いつまでこの胸をえぐり続けていくだろう?
彼女が胸の前で組んだ手が、震える。
「自分が生き続けるために、無関係な誰かの命を奪えない。
あなたもあの男と同じになってゆくの?」
そんなことはないと、あのイノベルクとは絶対に違うと、必死に否定した。
でも今は…
「誰かの命を奪っていく貴方も、見ていられない。
貴方が心まで、あの魔物のようになる前に、この手で葬ります…」
向かい来るたくさんの非難。
もう、人の世界にはいられない。
そんな断片的な記憶。
少しずつしか、思い出したくない。
全部一度になんて、思い返したくない。
願っても戻れないから。
「たくさんの人間の血を味わうと良い。そうすれば、彼女の死は辛くなくなる」
今まで聞こえていた声が、自分にしか聞こえない囁きではなくなった時、抗うことはできなかった。
後ろに続くのは、いつも屍だけだったのに。
どうしてそこまでして、この世界に留まりたかったのか。
生きたいわけではなかったのに。
むしろ、無くなってしまうか、彼女の命を奪ったように、たくさんの命を奪って、全てを捨ててしまいたかった。
だから、本当は忘れたくなかったこと自体を、忘れようとしていた。
それなのに、あの男がいる限り、忘れられはしない。
イノベルクは心を狂わせていく。
先程襲いかかってきた男も、リダリスも、デュイも、この自分も、そして彼女を―
禍々しい紅い憎悪を心に植えて、育てていく。
「君は、どこまで抗う気かな」
試すようにこちらを見ながら、リダリスの頬にそっと触れる。
抵抗しない、従順な僕。もう手遅れか…
「一体、何の用だ…」
低く響く魔の声に、ルシュヴンは覚悟を決めた。
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