雨宿り

(46)
急にヒカルの様子がおかしくなった気がする。
碁会所で打っていても、いつもどこか追い立てられているような、怒ったような、荒んだ空気
をまとわせている。アキラが聞いても何も言わない。
ついこのあいだまでは北斗杯の選手に選ばれて、覇気のある顔をしていたというのに。いや、
今でも相変わらず覇気はある。だがその質が変わってしまったのだ。
碁を打つとそれが伝わってくる。
いったい何があったのか、わからない。アキラは苛立ちを覚える。どうしてわからないのか。
ヒカルのことは何でも知っておきたいのに。
アキラは自分のなかのヒカルに対する執着心を自覚し、それを苦く思っていた。
(けどしかたがない。ボクはどうしても進藤を意識せずにはいられないんだ……)
だがヒカルは、自分ほど意識してはくれない。ヒカルは自分を好きだと口にする。だがそれは
嘘であることをアキラは知っている。ヒカルは自分に対してそんな感情など抱いていない。
碁に関しても、ヒカルが誰よりも気にしているのは自分ではない。
アキラの知らない、何者かだ。いつもヒカルには見えない影の存在を感じる。
そのことを考えると、アキラは憂鬱になり、同時に腹がたってくる。
まるで自分の一方通行みたいではないか。
「……進藤、もう遅いからやめないか」
アキラは持っていた碁石を碁笥に戻した。ヒカルは顔をあげた。鋭い双眸が向けられる。碁盤
をこんな目で睨んでいたのか。
「そうだな」
ヒカルは棋譜を置くと、大きく伸びをした。その様子を見ていた市河がお茶とお菓子を運んで
くれた。ヒカルは礼を言うと、それを一口飲んだ。目が大きく見開かれた。
「…………市河さん、このお茶、いつもと違う?」
「あら、よく気付いたわね。それアキラくんが持ってきてくれたのよ」
「塔矢が?」
ヒカルは驚いたように自分を見る。アキラ不思議に思いながらうなずいた。
「このあいだ無くなったみたいだから持ってきたんだ。このお茶は父が好きなんだが、最近は
家にいないから余っていたんだ」
「塔矢、先生のお茶……」

(47)
ヒカルの目が遠くを見るように細められた。
あごをつかみ、無理やりアキラを見つめさせたい衝動が湧く。自分だけを見ろと叫びたい。
これは今回だけではない。今までも何度かそう思った。しかしだんだん強くなってきている。
(進藤に引きずられている。しっかりしなくては……)
自分を叱咤するが、身体の中心が熱くなるのは止められない。
二人で碁会所を出る。アキラは唾を飲み込むと、先を歩くヒカルに呼びかけた。
「なんだよ塔矢」
「これから時間ないか?」
「ない」
すげなく返された。ヒカルがまた歩き出そうとするのをアキラは肩をつかんで止めた。嫌そう
な顔でヒカルは振り向いた。アキラの指の力が弱まる。
「なんだよ」
「もう何日もしていない。キミはいいのか?」
自分が欲しくならないのか、と言外に含んでいた。ここ数日していない。ヒカルはマンション
に来なかった。自分から誘うのは負けたような気がしてできなかった。だがアキラの若い性は
我慢も限界だと訴えていた。
「いいって、オレが?」
瞳の奥が奇妙に揺れている気がした。嗤うのがはっきりとわかった。
「別に。オレもう帰るから」
後ろ姿を見た瞬間、ヒカルを引き倒してめちゃくちゃにしてやりたくなった。泣き叫ぶヒカル
を組み敷き、何もかもをぶちまけてしまいたかった。許しを懇願させてやりたい。
その爆発的な感情がアキラの身体中を駆けまわっていく。
「進藤!」
アキラは叫ぶと、手を伸ばしてヒカルを引き寄せた。腕のなかが温かくなった。慣れた匂いが
胸のなかに満ちていく。不思議な感覚の波が襲ってきた。それに抵抗できなかった。アキラは
こらえきれずにうめくと、ヒカルを突き飛ばした。顔が赤くなっていた。
「塔矢!?」
ヒカルの呼ぶ声が聞こえた。だがアキラは全速力で走っていた。猛烈に恥ずかしかった。
アキラの下着のなかは濡れていた。

(48)
たったあれだけで、達してしまった自分が信じられない。
そういうものなのだろうか。それとも自分がおかしいのだろうか。聞きたいが、そんなことを
聞ける相手などいない。アキラはマンションに駆け込むと風呂場に直行した。
汚らわしい。早くすべてを洗い流してしまいたい。
まだ温かくなっていないシャワーを頭から浴びる。身体が熱いのがわかる。
全部ヒカルのせいだ。ヒカルがあの雨の日、あんなことをしなければ、こうならなかった。
シャワーを浴びていると、まるで雨の中にいる気分になってしまう。
アキラは荒々しく戸を開けると浴室から出た。身体はすっきりしたが気分は最悪だった。
置いておいた服を着て、ため息をつく。吐き出してしまいたいものが多すぎる。落ち着こうと
アキラは書籍のある部屋に入った。数冊読めば、雑念などなくなるだろう。どうせ今夜も家で
一人なのだ。急いで帰らなくてもいい。
まだ読んでいないのは下のあたりのものだ。アキラは適当に本をとって中身をめくってみた。
古いもので、気をつけなければ簡単にページが破けてしまいそうだ。それを膝の上に乗せて、
もう一冊本を手に取った。そのとき本の奥に封筒があるのに気付いた。
まるで隠されているかのようなそれに、アキラはしばし迷った。だが結局は手に取っていた。
「写真、と記事? 進藤とお父さん……」
緊張した面持ちのヒカルと泰然とした父親が棋院のまえで写っている。それは新初段シリーズ
のときのものであろうと推察できた。
他にもヒカルだけのもの、行洋だけのものがあった。
十枚にも満たない写真が、どうしてこんなところに押し込められていたのだろう。
不可解で、嫌な気分がした。そう思うのは自分のせいなのだが。
「どこを見ているんだろう……」
ヒカルが自分の後ろを向いている。まるでそこに誰かがいるかのように。そういえば今までも
こんなふうにしているヒカルを見たことがある。
「進藤……キミは誰を見ているんだ?」
我知らず写真のヒカルに問いかけていた。

(49)
ふとした瞬間、アキラは何度も父の写真を思い出すようになった。
どうしてあんなところにしまわれていたのか不思議でならない。父はあの写真をどんな思いで
見ていたのだろうか。そう考えるといつも何かが引っ掛かる。
「進藤くん、今日も来ないみたいね。またケンカでもしたの?」
市河の言葉にアキラは苦笑する。そんなにしょっちゅう言い合っているように見えるのか。
このあいだからヒカルは来ていないが、むしろありがたかった。ヒカルの顔を動揺せずに見る
自信がアキラにはなかった。
「してませんよ。彼も忙しいんでしょう」
「ならいいんだけど」
カップを置かれた。今日は紅茶だ。このあいだの緑茶のとき、ヒカルの様子が少し妙だった。
ヒカルには気になることが多すぎる。それは碁だけではない。アキラはヒカルと一緒にいて、
疑問がいつも増えていくのを感じていた。
(……あの雨の日、お茶を淹れようとしたボクを、進藤は止めたんだっけ……)
毛布を引っ張るヒカルの目は、真剣だった。だから油断した。いや、誰だって思わないだろう。
まさかあんなことをするとは。今だってアキラは信じられない気がしてしまうのに。
「オレとしない?」―――――ヒカルは自分にそう言った。そしてそのまま……。
アキラは大きな音をたてて、カップをテーブルに戻した。今まで考えたこともなかったことに
思い当たった。背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(進藤は、初めてじゃ、なかった……?)
初めてのはずはない。でなければ、初めての自分をあんなふうに導けない。
どうして気付かなかったのだろう。ヒカルは自分以外の者と、そういう関係があったことに。
いったい誰と? どうしてそうなったのだろうか。そしてその人物となぜ離れたのだろう。
(saiか……?)
そうとしか考えられない。ヒカルとsaiとのつながりを思えば。
胸のなかにうずまくこの感情はなんだろう。考えたくない。だが答えは出ている。
(ボクは嫉妬してるんだ……)
それは凄まじい敗北感だった。ヒカルなど、碁が無ければどうでもいい存在のはずなのに。
アキラは見えない糸で囚われている気がした。

(50)
ヒカルを抱いたことがあるのは自分だけではない。
だがそれが何だというのだ? 今は自分だけだ。自分だけのはずだ。
そう思ってみるが、すぐに別の考えが浮かぶ。果たしてそう言い切れるだろうか? ヒカルは
最近していない。だがそれはアキラとはしていないだけなのかもしれない。
(他の誰かと? そんな、進藤としたいと思うやつなんて……)
いないと断言などできない。他ならぬ自分こそが、こんな状態でいるのに。怒りで身体の血液
が沸騰しそうだ。どうして振りまわされなければならないのだ。もうたくさんだ。
「……好きにすればいい。ボクはもう絶対にしない」
「アキラくん、なにか言ったー?」
「いえ、何でもありません」
アキラは穏やかにほほえんだ。だがすぐにそれは掻き消えた。
「あ、塔矢ー」
能天気に思える声が聞こえ、その声の持ち主が手をあげていた。
「なにをしにきたんだ」
冷たい声にヒカルはひるむことはない。断わりもせずにアキラの前に座った。
「北斗杯のまえにみんなで集まろうって言ってたじゃん? オレおまえんち知らないからさ、
教えといてもらおうと思って」
そういえば自分の家の場所を言っていなかった。
「迎えに行こうか?」
「いいよ、別に。地図でも書いてくれれば、社連れて行くから」
聞きなれぬ名にアキラは眉を少しひそめたが、すぐにメンバーの一人だったなとうなずいた。
市河に紙とペンをもらうと、アキラは書きはじめた。ヒカルが顔を寄せてきて落ち着かない。
「今日、してもいいぜ」
何を、などとアキラは聞かなかった。ヒカルは完璧に自分が主導権を握っている気のようだ。
書き終わった紙を押し付けると、アキラは冷たく言い放った。
「ボクは忙しいんだ。キミの相手をしているヒマなどない」
ヒカルは怒らなかった。それどころかニヤリと嫌な笑みを浮かべた。
「そう言うと思った。じゃあ合宿でな」
飛びついて殴り倒してやりたいと、アキラは本気で考えた。

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