月明星稀
(17)
「あの時、君を抱かなかったのだって、僕はずるかっただけだ。
己自身さえもわからぬほど傷付いていた君に、寒さに震えていた君に、欲情していた。」
馬鹿だな。そんな事言われたって、俺には嬉しいだけだって、わかってないのか?
「君が誰を思っていようと構わずに、君の弱みに付け込んで、君を僕のものにしてしまおうと、何度も思ったよ。
僕はきれいなんかじゃない。ずっと、君を滅茶苦茶にしてやりたいと思ってたよ。」
「してくれよ。」
思わずヒカルが答えてしまうと、アキラは驚きに目を見開き、それから、ぎゅっとヒカルを抱きしめた。
「……君は、馬鹿だ。」
馬鹿だって構わない。だって俺が馬鹿なのはおまえのせいだ。
「違うんだ。僕は臆病だっただけだ。君を抱いてしまって、君を失くしてしまうのが怖かった。
それになにより、」
そこまで言ってアキラは言葉を詰まらせ、ぎゅっとヒカルの身体を抱きしめた。
「綺麗なんかじゃない、僕は……、
僕はどうしようもない臆病者で、そしてとてつもなく強欲なんだ。
時々、自分の欲の深さに、醜さに絶望しそうになる。」
その腕の力を自分への思いの強さのように感じて、自分もまた彼の背に回した手でぎゅっと彼の衣を握り締めながら、ヒカルはアキラの言葉の続きを待った。
「君と共に君の闇に堕ちてしまいたいとさえ思った。とどまったのは僕が強いからじゃない。」
「……それでも理由がなんであれ、おまえは堕ちなかった。ここにとどまった。
そんなおまえをオレは眩しいと思う。」
(18)
「眩しい?僕が?」
「眩しいよ。」
ヒカルは目を細めて彼を見上げた。
おまえは、おまえがどんなに綺麗だか、知らないのか?
例えば、明るい太陽の光のような眩しさでは無いけれど、冴えた月の光のようなおまえが、あの頃の
俺にとってどんなに眩しく見えたのか、おまえは知らないのか?
「眩しいのは君だ。
初めて会ったときから、陽の極まりのような君に、惹かれていた。
明るく、健やかで、眩しい夏の日差しのような君に。
けれど、半ば闇の世界に棲んでいる僕には相応しくないと、思っていた。
だから僕は、」
ふるり、と、ふいの寒さを感じたように、彼の身体が震える。
「もしかして僕は、君が、佐為殿を失った君がその悲しみに闇に堕ちた時でさえ、もしかしたらその事
をどこかで喜んでいたのかもしれない。本来だったら手の届かない、別世界にいた君が、僕の近くに
来たような気がして。」
そう告げる彼の声に怯えと不安が混じる。
「君のためなんかじゃない。
僕が君を好きだったから、ずっと君を見ていたかったから、誰かと共にいる君が耐えられなかったから、
だから君をここに連れて来ただけだ。
ただ、僕は僕のためだけにそうしたんだ。君のためなんかじゃない。」
「賀茂、」
(19)
「俺は、そういうおまえだから好きなんだよ、きっと。
おまえは自分に厳しくて、厳しすぎるくらい厳しくて、そうして自分を責めてしまうのかもしれないけど。
そう。
確か、言ったのはおまえだったろう?ひとは誰もみな愚かな者だって。
おまえが自分を責めてるかもしれないおまえの愚かしさが、俺は好きだよ。」
かつて自分が溺れた甘い香りの夢に、もしかしたら彼も同じく堕ちかけていたのかもしれないと、ふと
思う。妖しく光る黒い瞳は自らの闇を映していただけでなく、彼の内にもあった闇を、垣間見たのかも
知れないと、ヒカルはあの時の記憶を辿りながら思った。
けれど、その事すら愛しいと、ヒカルは思った。
そして溺れかけながらも、それでもやはり堕ちはしなかった彼を、眩しいと、思った。
「多分きっと、そういうおまえだから好きなんだ。
流されそうになっても流されない、引き込まれそうになっても、闇に堕ちていきはしない、おまえのその
強さが好きだ。おまえは違うというかもしれないけれど、でもやっぱりそれはおまえの強さだ。」
あの時揺らいだ瞳が、俺の錯覚ではなく、おまえの中の闇を映していたのだとしても、それでおまえを
嫌いになったりなんかしない。それどころか、どこかそれを嬉しいと思ってしまうのはなぜなんだろう。
「おまえの、温もりが、その熱が好きだ……」
全身の力を抜いて、彼の手に我が身を預ける。
「何も、望むことなんかなかった筈なんだ。
ただ、君がこの世に生きていてくれれば、それだけで僕は幸せだった筈なんだ。
君が……いつまでも永遠にあの人を想っていても、いつまでも、あの人を想ってる君を見ているしか
出来ないとしても、それだけで僕は幸せだった筈なんだ。
それなのに、君が僕を好きだと言うなんて、嘘だ。
そんなこと、あり得ない。」
アキラの身体は小さく震えていた。その震えを抑えるようにキュッと抱きしめられるのをヒカルは感じた。
「賀茂、」
彼の抱擁に答えるように背に回した腕に力をこめる。
「どうしたら、信じてくれるの?どうしたらわかってくれるんだ?
俺が、俺がこんなにもおまえが好きだってこと。」
(20)
「ずっと、ずっと辛かった。
おまえは誰か想う人がいるんだって、おまえはその誰かのものだから、俺はおまえを欲しいと思っちゃ
いけないんだって、そう言い聞かせても、それでもおまえが欲しくて、俺だけを見て欲しくて、他の誰か
なんて、おまえを見ない他の誰かなんて忘れてしまえって、そう言いたくて、」
そうしてようやく手に入れた熱い身体を、ヒカルは、もう離さない、ときつく抱く。
「好きだ。」
告げるヒカルの声に、アキラの顔が逃げるように動くのを感じながら、ヒカルは彼を抱く腕に力をこめる。
「好きだ。好きなんだ。おまえが、ずっと好きだった。
いつからなんてわからない。わからない。けど、」
顔を上げ、背に回していた腕を解き、彼の顔を両手でとらえ、真っ直ぐに見詰める。
「俺を見て。
好きだって言って。
俺だけだって、他の誰かなんていないって、おまえの好きなのは俺だって、言って。」
「ヒカル……」
そうしてやっと彼らの視線は出会う。
返すべき言葉は一つしかなかった。
「君が、好きだ。ずっと、ずっと好きだった。」
それだけ言うと、アキラは身体全体でヒカルの身体を包み込んだ。
「ああ……」
ため息のような、アキラの声が漏れる。アキラはそのまま動かず、まるでヒカルがそこにいるのを確か
めるように、じっとヒカルの身体を抱いていた。
(21)
どくん、どくん、どくん、と、鼓動の響きだけが全身に響いているように感じる。
ただ寄り添って、肌を触れ合わせているだけなのに、動悸が、激しくなる。身体が次第に熱を帯びてくる。
何もしていないのに、頭が朦朧としてくるような気がする。
「アキラ、」
耐え切れずに彼の名を呼んだ。
と、呼び声に応えるように、背に回された腕に、きゅ、と力がこもる。
それだけでヒカルの身体も、心臓も飛び跳ねた。
「アキラ、」
自分がわからなくて、何が何だかわからなくて泣き出してしまいそうで、頬を擦り付けるようにして、再び
彼の名を呼んだ。
「ヒカル…」
掠れた、声にもならないような声が自分の名を呼んで、それだけでヒカルは全身を震わせた。
「なぜ…泣いているの……?」
答えることもできずに、ぽろぽろと涙を流しながらヒカルは小さく首を振る。
泣かないで、と空気が動いたような気がしてヒカルが涙に濡れた目をそっと開けると、すぐ間近にアキラ
の黒い瞳があった。思わず逃げようとする顔を、そっと押さえ込まれる。
「ヒカル、」
小さく首を傾げて、何か物問いたげにヒカルを見つめるアキラの目を見上げていると、またじわっと涙が
滲んできそうになる。
「ヒカル、」
ついに耐え切れずに彼の顔を引き寄せて唇に触れたのはヒカルの方だった。