初めての体験　ヒカル祭り

(1)
　「だからぁ、ここに打っちゃダメなんだってば！」
ヒカルはイライラと言い放った。ヒカルの前に座るその男は、わかっているのかいないのか
「はあ…」
と、気の入っていない答えを返した。
　「チッ」と、ヒカルは顔を俯け、小さく舌打ちをした。『やる気がないなら、来るなよな』と、
内心忌々しく思う。
「あ〜あ…」
聞こえよがしに大きな溜息を吐くと、男の肩がビクリと揺れた。

　「それから、こっちの手だけど…」
ヒカルは碁盤を指さしながら、男の顔に視線を戻した。男の息が荒い。ヒカルはその時初めて
男の様子が尋常ではないことに気が付いた。

(2)
　三月三日桃の節句。女の子のための祝いの宴。そんな日にどういうわけか、地方のイベントに
やってきていた。
　ヒカルはイベントとかお祭りとか、兎に角にぎやかなことが大好きだ。だから、棋院から依頼が来たときも
二つ返事で承知した。
　だが、実際にふたを開けてみると、講師は自分ただ一人。アキラや和谷のように気の置けない
者と一緒になるとは端から思っていなかったが、他の棋士達と交流を深め、自分の腕を
磨くいい機会になるのでは密かに期待していたのだ。しかも…………
「ヤローばっかりかよ………」
参加者はすべて男。女と名の付く生物は一人もいない。年齢に関係なく、女性が一人でもいれば、
それだけで場が華やぐものだが、ヒカルを喜色満面で迎える連中はむさ苦しい男だけであった。
『おばーちゃんでも、赤ちゃんでもいいから女の人はいないのかよ………』
　ヒカルの気分もだんだん暗くなっていく。このイベント…自分が期待したような楽しいことは
何一つ起こらないかもしれない………ヒカルはがっくりとうなだれた。

(3)
　長机の上に碁盤が五つ置かれている。これから、五人を相手に指導碁を打つのだ。彼らが
どの程度の腕前かはわからないがさほど難しいことではないだろう。
　ヒカルが座ると、指導碁を受ける者達も、それぞれ自分の席に着いた。その周りに、他の参加者達が
集まってきた。
「ちくしょーいいなぁ…」
「クジにはずれなければなァ…」
　外野の会話から、ヒカルの指導碁受ける人は、どうやらくじ引きで決められたらしいことがわかった。
『…熱心なんだな…楽しくないなんて思ったりして悪かったな…』
ヒカルは反省した。こんなに自分を待っていてくれたなんて…時間があれば全員と打ってもいいのに…
そう思った。

　「お願いします。」
ヒカルがぺこりと頭を下げると、前に座る五人も同じように頭を下げた。再び顔を上げたとき、
五人の瞳はキラキラと輝いていた。それを見た野次馬からブーイングが発せられた。
「バカヤロー」
「コテンパンにやられてしまえ！」
　そういうわけで、むさ苦しくも熱い戦いが始まった。

(4)
　ヒカルは目の前に座る男を改めてよく見てみた。男は「はっはっ」と、浅い息を繰り返している。
オマケに、どうやら、呼吸が荒いだけではない。目はとろんと潤み、頬も赤い。
『もしかして、風邪ひいてる？それでさっきからヘンなのか？』
それなのに、無理にイベントに参加したりして、大丈夫なのだろうか？ 主催者を呼ぼうと
視線を横に走らせた。
「あれ？」
その男の隣に座っている茶髪の軽そうなヤツも何だか、息が荒く、目が血走っている。
それからその隣も…反対側も…
『集団インフルエンザ！？オレ、ワクチン打ってないのに、うつったらどうしよう…』
ヒカルは、病気を押してまで参加してくれたことを嬉しく思う反面、鬱陶しく思っていた。
病人はおとなしく家で寝ていろ！と、心の中で何度も毒づく。
「ねえねえ！主催者さーん！みんな調子悪そうだよ？」
ヒカルは、大きな声で叫んだ。

(5)
　「どうしました？」
真後ろから、声がした。肩越しに顔を覗き込んでいる若い男に驚いて、ヒカルは「ひゃ」
と、
首をすくめた。
「脅かさないでくれよ。みんな具合悪いんじゃないの？」
胸を撫でながら、ヒカルは五人を順に目で指した。
「もう、やめた方がいいんじゃないかな？」
つーかやめたい！ヒカルはじっと主催者を見つめた。心持ち顔を傾け、目を潤ませる。
こうすると大抵の人間―男女問わず―は、ヒカルの頼みを聞いてくれる。
　主催者はヒカルから目を逸らし、冷たい目で彼らを一瞥すると、「心配いりませんよ。」と
愛想笑いを浮かべた。
「でも………」
「大丈夫ですよ。きっと皆昂奮…いえ、感激しているんですよ。ここにいる連中は皆、
　先生の大ファンですからね…」
ヒカルは釈然としなかったが、本人達も主催者の言葉に頷いていることもあり、無理矢理にでも
納得するしかなかった。