遠距離

(1)
「ついてへんなあ、大雨やなんて」
清春は残念そうに窓の外を見た。雨粒は容赦なくガラスに当たっている。だが本当に見ていた
のは、雨よりもガラスに映るヒカルの表情だった。
ヒカルはあごを持ち上げ、薄暗い雲を見つめている。
3連休を誘ったのは清春からだった。ヒカルとはメールをたまにしたりする。以前、ヒカルが
USJに行ったことがない、行ってみたいと書いていたので、勇気を出してヒカルにメール
を送信した。
『今度の休み、USJに行かへん? 案内したるで』
不自然にならないように、何気ないように、清春は悩んでこの一文を書いた。
清春はヒカルに対して、他の男友達と同じような思いで接することができなかった。
なぜだかはわからない。ただヒカルをまえにすると、妙に心が浮き立つのはたしかだった。
第一回の北斗杯以来、ヒカルと会えるのは一年にほんの数回だ。
それも自分が東京に行ったり、ヒカルが関西に来るときにわざわざ出向いたりしてだ。

(2)
ヒカルのメールアドレスを聞いた晩は、興奮してなかなか寝付けなかった。
なんて書こうかと、何時間も考えてしまった。
今でもヒカルにメールをするときは、多大な労力を使う。
ヒカルはそんなことはないのだろう。いつもヒカルのメールは自然体だった。
明るくて元気で、ラーメンが好きで、何よりも囲碁にたいして真剣だ。
一度、ある棋譜について何度もメールをやりとりしたことがあった。何時間もメールを
送信しつづけたが、ヒカルが『じれったいな!』と怒ったような返信をしてきた。
そして次の瞬間、携帯が鳴った。ヒカルからだった。
耳にヒカルの声を心地よく感じつつ、清春は電話でヒカルと検討した。
二人をへだてるものなど何もない気がした。
だが携帯を切った瞬間、その距離に清春は切なくなった。
三年近くをかけて、清春はヒカルとの距離を少しずつ縮めていったのだ。
ヒカルと親しくなりたかった。最初は囲碁のライバルとしてだった。今もそうだ。
だが特別な感情がないとは言い切れないのも事実だった。

(3)
清春は頭二つ分近く低いヒカルを見下ろした。引き寄せたい、と衝動的に思った。
ふとヒカルが黒くて大きな瞳をこちらに向けた。
「社って背が高くていいよなあー」
「そ、そうか?」
ヒカルはうなずくと背伸びをしてきた。顔が近付く。清春は薄赤い唇を見やった。
なんでそんなところを見てしまうのだ、と自分にツッコミを入れる。
内心焦っていると、ヒカルはまた窓のほうを向いてため息をついた。
「あーあ、せっかく3連休、仕事入れなかったのになあ……」
本当に楽しみにしていたのを清春は知っている。ゆうべはパンフレットを鼻歌を歌いながら
見ていた。これに乗りたい、これを食べたい、これが欲しい、とはしゃいでいた。
それなのに、台風が来るとは。
「けど、明日は晴れると思うで。明日と明後日を楽しめばええやんか」
清春はつとめて明るい口調で言った。ヒカルのがっかりした顔は見ていたくない。
「その、今日はこんな天気やから、外に出るわけにもいかんけど……」
二人でこの家で過ごすのだ。父も母も休みなので家にいる。
ヒカルに気詰まりな思いをさせてしまうかもしれないと、清春は懸念していた。
くるりとヒカルは清春に背を向けた。清春の心臓はぎゅっと縮んだ。
やはり自分なんかと一緒は嫌なのだろうか。清春はうろたえた。
だがヒカルは部屋の隅に寄せていた碁盤を中央に置くと、清春に向き直った。
「家でもぜんぜんかまわねェよ。社がいるんだから。打とうぜ」

(4)
清春は胸がいっぱいになってしまった。
どうしてヒカル相手に、こんなに幸せな、どこか甘酸っぱいような気分になるのだろうか。
高鳴る心臓の音を身体のなかに感じながら、清春はヒカルのまえに座った。
浮かれた気分もそこまでだった。
ひとたび対局になれば、清春に余裕などなかった。ヒカルは前よりずっと強くなっていた。
清春はいつもヒカルと打つと、得体の知れないものを感じた。
それがヒカルのことが気になる理由の一つかもしれない。
碁盤のまえにいるヒカルは泰然としていて、どこか手の届かないところにいる気がした。
清春はそんなヒカルを見つめた。ヒカルの抱えているものは何なのだろうか。
同じような目でヒカルを見ている少年を清春は知っている。
もやもやとしたものを抱えながら、清春は東京にいるヒカルのことを考えていた。
会えばすっきりすると思った。しかし実際は形にならない感情が増えるだけだった。
検討をしているあいだ、母親が昼食と夕食を運んでくれた。
父も母も以前ほど碁を打つことに対してうるさく言わなくなった。
大学には行ってほしいようだが、大学受験のために勉強していないので無理な相談だ。

(5)
雨がやんでいても気付かないほど、二人は熱中していた。
気付けばいつのまにか日付も変わってしまっている。
「オレ、眠いからこのまま寝る……」
ヒカルはあくびを一つすると、マットレスに横たわって布団を引き寄せた。
目をつぶったかと思うと、すぐに軽い寝息が聞こえてきた。寝つきがものすごく良い。
昨夜の興奮ぶりと、今日の囲碁での集中で疲れきってしまったのだろう。
そのあどけない寝顔を見つめる。
小さな鼻を、閉じたまぶたを、小さく開いた唇を、一つずつ目でたしかめる。
考えての行動ではなかった。
清春は咄嗟に顔を近づけていた。唇が一寸先にある。乗り出せば触れることができる。
かすかな息がかかり、清春は目をぎゅっと閉じた。心のなかで掛け声をかけた。
「……んー……」
小さな声に清春は飛びすさった。ヒカルは眠ったままだ。
自分はなにをしようとしていたのか。清春は驚愕した。
「んな、アホな……進藤に俺なにを……」
つぶやきは壁に虚しく吸い込まれていった。

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