天の花
(1)
秋の空気はひんやり澄んで、吹く風は人を落ち着かせるように
やさしく通りすぎていく。
その風に揺れて、濃い朱色が佐為の視界を掠めた。
「おや」
冬の季節に向かって、日毎暗い陰を帯びてゆくような秋の太陽に良く映える花が
咲いていた。
高く直立した茎の先で、赤い蘂がいくつも伸びて美しい形を作っている。
アスファルトに覆われた街で、わずかに土の残っている場所は、
小さくも貴重な花の住み処だ。
一生懸命に咲く花がいじらしくて、佐為は歩み寄った。
「綺麗ですね。こんなところでもがんばって咲いて、けなげじゃありませんか、
ねえヒカル?」
「綺麗かなあ? オレあんまりこれ好きじゃないんだ」
道端の花を愛でる境地にはまだ至らない少年は、佐為の小さな感動をあっさり否定した。
これを他の子が言ったのなら、無粋なとがっかりしたかもしれない。
こんなことを言われても、可愛いとしか思えないのは相手が他ならぬ彼だからだ。
(2)
「こんなに見事に咲いているのに?」
「だって毒ありそうじゃねえ?色も形も気味悪いし。なんかお墓に生えてそうで
ヤなんだよ。」
「ええ、死を思わせる花ではありますね。実際根に毒も持っていますし。
ですけどね。仏典では、曼珠沙華は天上に咲く花です。よきことの前兆に天から
降ってくるのだと。一目見れば悪業を離れられるとも言いますね。
そんな尊き花の名を戴きながら、一方で死人花と忌まれるのは哀れなこと…」
「これが空からばーっと降ってくんの? かえって怖いよ。
めでたいなら、もうちょっと良いモン降ってくりゃいいじゃん。
バラとかさ、チューリップとかさー。」
「ふふ。確かにヒカルには合わないかもしれませんね。あなたは…そうですね、
たんぽぽのような子ですから。」
「たんぽぽー?それってチビだってこと?」
不満げに、柔らかそうな頬をさらに膨らせて。かわいらしい抗議が返ってきた。
「気に入りません?たんぽぽ、いいと思うんですけど。小さく見えますけどね、
根がとても深く張って、強い風に煽られても、踏みつけられても引き抜く力にも
耐えるのです。強い花ですよ。」
「ふーん。」
大きな瞳が一つ瞬いて。少しだけ機嫌の直った顔は、ことさら子どもっぽくて
愛らしかった。
(3)
いとおしい子。快活で純粋で。意地悪をする時もあるけれど、無邪気で憎めず。
いつだって一つ所にじっとしていない。元気に動き回って、芯からはじける明るい
笑顔は佐為の心を照らす。まだ小さい体に、輝くいのちの力を湛えて。
煌めくあなたは、私のたんぽぽ。お日様の色をもらって、たくましく咲く。
野の花のようなヒカルに、佐為は心惹かれた。
千年の時をさまよって、佐為はたった一つの恋に辿り着いたのだ。
進藤ヒカル。この子が、何よりも好きだった。
吹く風、花の赤、隣にいるヒカル。
佐為の周りの全ては心地よく、今この時に自分が在ることを何よりの幸福に感じた。
それは遠い遠い秋の日。
この日、その明るさをたんぽぽと譬えられた少年が、墓場の花よりも暗い絶望を抱えて
同じ場所に立つのは――、2年の時を経てのこと。
(4)
かつて恋人たちは、叶わぬ逢瀬に悩み悶え、ようやく手にした二人の夜は風のように
疾く過ぎ去り、無慈悲な朝日ばかりか鶏の声まで恨んだものだ。
そしてまた愛しい相手と離れたる時の長さを、袖を濡らして耐え忍ぶ。
恋とは苦しみと同義だった。
だから佐為には今の自分の至福が後ろめたくもある。
佐為の恋い慕う相手は常に、風が吹けば髪が触れ合うような位置にいるのだ。
正確には佐為がヒカルの心の中にいるのだから、物理的な距離すら存在しない。
想う人と、文字通り片時も離れず一日を、一月を、一生を共に過ごせる佐為をもし、
かの時代の悩める貴族たちが見たならば、それは許されざる贅沢と映ったろうか。
佐為の短かった人生は、ひどく幸薄かった。
ただ碁のみが心を熱くし、従って恋の味も知ることなく。
なのに、その限りなく愛した碁まで奪われた。誇りも人格も無残に蹂躙され、
ひとりぼっちで命を絶たねばならなかったのだ。
何もかもを佐為から取り上げてしまった埋め合わせに、神はヒカルを与えてくれたの
かもしれない。
ならば、佐為はかつての苦渋を忘れて神に感謝をささげてもいい。
この恋はかけがえのない宝物だ。
(5)
二十八人がぶつかり合う厳しいプロ試験をヒカルは一敗の好成績で戦っていた。
……昨日までの話だが。
伊角との納得できない一局はヒカルを揺さぶって翌日まで影響し、せっかく苦さを
こらえて得た一勝を意味なきものにしてしまった。
ヒカルは自分でわかっている。まだまだ弱い心を。そして恥じていた。
一人だったら、崩れかけた精神力を立て直すのに時間を要したに違いない。
だが自分がいる限り、彼を一人で藻掻かせることはしない。
「私が伊角さんの代わりに打ちます。」
「…佐為」
「そうして心に決着をつけ明日へと踏み出しましょう。」
ヒカルの目に力が戻った。
強くなる。口先だけではない確かな決意を持って、ヒカルは中断されたままだった
対局を再開した。
この目なら大丈夫。
彼の用意していた手で、逆転して佐為に勝つことは出来なかったけれど、それでも相手
が自分でなかったらあるいは、と思わせる、深い手だった。
出会った頃を思い出す。
黒白どちらが先番かも知らなかった子どもは、あの時の彼よりもずっと幼い時から
プロを目指して研鑚してきた碁打ち達を打ち負かす腕の持ち主となった。
彼をそこまで導いたのは佐為。
それが誇らしく、だから一層、努力を惜しまずここまできたヒカルをいじらしく思うのだった。