天の花
(6)
「明日平常心で打ててこそ、昨日からの苦い二局が意味あるものとなります。
勝ちなさいヒカル。」
…あなたには私がいますから。
「うん、絶対勝ってみせる」
いつの間にか、こんなにきりっとした顔が出来るようになりましたね。
戦う者が持つ覇気が、ヒカルの表情を引き締める。
そしてそれだけではなく。 彼は美しくなった。
柔らかな頬の印象はそのままだが、そこから子どもっぽさは抜けてきた。
かわりにほのかな艶を帯びてきている。
伸びた睫毛が囲む瞳の色の深さに、いつも共にいる佐為でさえ時々はっとしてしまう。
今はまだ、誰もがこの子を「生意気なクソガキ」としか見ていない。それで結構。
彼の魅力は、佐為だけが知っていればいい。
今はまだ恋の意味を理解するには幼すぎるから。ただ黙って見守るのみだ。
でもいつの日かこの想いが彼に届けと願う。
その時彼が佐為を受け入れてくれたなら、今度は嬉し涙を碁盤に落としたい。
やがて時が至ってヒカルがこの世からいなくなってしまっても。
在りし日に、確かに藤原佐為と進藤ヒカルという心通わす二人がいたことを、
その瞬間の歓喜を、この桂の碁盤に残したい。
そして遥かな時の向こうで三人目の子どもに出会ったなら、自分の愛した進藤ヒカルが
どんな子であったかを、涙の染みを懐かしく撫でながら教えてやるのだ。
そうやって佐為はヒカルの証を残していこう。
「泣きそうな顔するなよ。オレ勝つってば」
元気な声が大層心地よく響いた。
(7)
次の対局。ヒカルは落ち着いた碁で危なげなく勝った。だが伊角は復活しない。
和谷も負けた。誰もが厳しい戦いの中にいる。
「伊角さん、どうなるのかな」
「厳しいようですが、ここで踏ん張れないならばそこまでの力だったということです。
心が弱くて、強い碁が打てるわけありません。 …あなたは、もう考えないように」
「…そう…だな。考えても、変わらない…」
本当は、ヒカルに伊角を誘わせるべきなのだろう。
佐為がヒカルを落ち着かせたのと同じ方法で、伊角にもあの一局を終わらせてやればいい。
でも、言わない。
この試験でプロになれなければ、また一年待たねばならないのだ。
ヒカルをプロにしてやりたい。
でも、彼のためだけでなく。
あの者とヒカルが同じ世界に立つ。やっと佐為の悲願であった対局が叶うかもしれない。
碁への思いは、ヒカルへの恋情とは別のところで、佐為の心を独占していた。
薄情の誹りは甘んじて受ける。障壁を自ら増やす行為などヒカルにさせるつもりはない。
棋院の空気が少しざわついている気がした。理由はすぐにわかった。
入り口に目立つ少年が立っている。
特別な人間である証のような存在感。独特の出で立ち。
ヒカルの目指す打ち手。
塔矢アキラが、そこにいた。
(8)
「…さ、佐為、あれ…」
ヒカルも彼に気づいて足を止めた。
「ここに用事でも…、と、いう訳ではないようですね」
アキラもまたヒカルの姿を捉え、目を逸らすことなく、まるで睨み付けるかのように
ヒカルをまっすぐ見てきたのだ。
しばし二人は、少々遠い距離を挟んで向かいあった。
その距離を縮めてきたのはアキラの方だ。
思いつめたような、硬い表情で。一歩一歩に重みが感じられた。
アキラが足を動かす度に、少しずつだが確実に二人は近づいていく。
ヒカルが緊張しているのがよくわかった。
一歩ごとに彼の顔も強張っていく。
佐為は思わずヒカルを後ろから抱きしめた。もちろん何の手ごたえもなかったけれど、
そうせずにはいられなかった。
(9)
(サンキュ、平気だから…)
ヒカルが一つ息を吐くのと、アキラがヒカルとの距離を僅か二歩分にまで縮めたところ
で足を止めるのとは同時。
ヒカルはアキラを見つめ、ただ言葉を待った。
だがアキラは何も言わず、ヒカルの横を通り越してしまった。
「おい、てめえ」
たまらずヒカルが声を上げる。わざわざ無視をしに来たのか。その声に苛立ちが見える。
艶のある髪が揺れて。アキラは少しだけ振り返った。
僅かに覗いた、横顔にもまだ足りないその顔に何故かヒカルの肩が跳ねた。
「……付いて来てくれないか」
「えっ」
返事も待たずにアキラは前へ進みだす。ヒカルは糸で引っ張られているように、
ふらふらとその後を追った。
……何だか胸がざわざわする。酷く嫌な事が起こりそうな。
ヒカルの手を引いて、ここから去りたいと強く思った。
だが佐為の手は何も掴めず、ヒカルも止まらなかった。
(10)
五階にまで上がり、ある部屋の扉に手を掛けて、アキラは振り返らないままに告げた。
「キミと話がしたいんだ」
「……」
「今日は、この部屋を使う予定は無いと知っていたから。勝手にここと決めて、
済まないな」
「あ、え、…うん」
音も無く静かに扉が開いた。
「入って」
いくつかの机と椅子と、テレビがある。
見覚えがある部屋だと思ったら、冬にアキラの新初段戦を見た記者室だった。
あの時は記者やプロ棋士、そしてヒカルたちがいたが、誰もいない今は灰皿に匂いが
残っているだけで、何の気配も無く殺風景だった。
先にヒカルを進ませて、アキラは扉を閉めた。
今度はカチャリと硬質の音がした。
佐為の胸が一段と嫌な疼き方をする。一体何故こんなになるのか自分でも解らない。
ただ、何か良くないことが起ころうとしているのだけは間違いなかった。
「で、何の話がしたいんだよ」
ヒカルは強張った顔でアキラの言葉を待った。
「今日はどうだった」
一瞬何のことか解りかねた。ヒカルも同じだろう。
「………あの、それ、オレの? えっと、試験の結果ってこと?」
アキラは頷く。
「あ…うん、勝った」
「そうか。まだ二敗のままだな。十分に合格を狙える」
「…………あ、どうも…。 話って、これだけ?」
「いや」
アキラは何かを迷うように、視線を彷徨わせたが、それも数秒のことですぐにヒカルに
視線を合わせてきた。
その時初めて気づいたことだが、アキラの顔色は真っ白になっていた。