お江戸幻想異聞録・神無月夜(かんなづきよ)
(其の壱)
(1)
秋が終わる。
ひよどりが長く声をはりあげている庭先を横に、碁盤をはさんで光と行洋は向
かい合っていた。行洋の眉間は険しく皺が刻まれ、鷹のごとき鋭い眼光は白と
黒の盤上に注がれていた。
「…うむ。」
その声に光はいっとき、身を縮め、そしてそろそろと上目遣いに行洋を見る。
行洋その人に直接、打ってもらうことが多くなった。眉間を鋭く狭めていた行洋
は急にふと、表情をゆるめ、光のほうをじっと見詰めた。
「――強くなったな。」
その言葉に全身から力が抜けるのをおぼえた。思わず、ほっとして大きく息を
吐く。
「本当ですか?先生――。」
「うむ、読みも深くなった。硬軟使い分ける才もじゅうぶんにある。それを大切に
精進しなさい。」
「――はい!」
(2)
光は背筋を正して勢いよく返事をした。行洋はふだんはひどく無口だが、それ
ゆえ褒められたのが嬉しい。
「おまえが力をつけたとあれば、明もうかうかしていられないな。…いや、あれ
はどうも近ごろ、浮ついていていかん。」
珍しく明のことを口にした光はどきりとして行洋の顔色を覗った。
「霜月の御城碁に出すにも心もとない。いっそのこと、おまえに出仕させるべき
だったかもしれぬな。」
行洋はいつになく父親の顔になって、ジッと光を見据える。光はあわてて首を
振り、そんなことはない、とだけ云った。
「あれも年頃だから仕方がないのだろうが…。わたしとて、あれぐらいの年に
は頭の中は女のことでいっぱいだった。」
「…先生が?」
「ああ、そうだ。よく師匠に叱られたものだ。」
そう云うと、行洋は照れたように笑った。
今日の先生は珍しい。たとえ光の前であっても、明を特別に見ているそぶりな
どせぬし、己の過去を語るなどに至っては初めて見る姿だった。
それほどに明の様子が気がかりなのだろう。そう思うと、光は胸のあたりがちく
ちくして、たまらなくなる。
(3)
三日前も裏庭の隅にある蔵で執拗に体を貪られたばかりだ。ひろびろとした
裏庭は表ほど手入れが行き届いておらず、ことに二つある蔵のあたりはくすの
木が生い茂り、昼間でもうすら寒いほどだ。明は蔵の南京錠を開けるための鍵
をどこからか手に入れ、家人の留守時には決まっていちばん隅の蔵へ光を誘
い込むのだ。
そうして、蔵の埃臭い空気の中、光を跪かせると角帯をするりと解いて絞のあ
わせを開き、まだ柔らかい一物を光の鼻先に突き出す。
光は黙ってそれを口に含んで舌を這わせると、明が嬉しげに声を上げた。
そうして細い指が光の髪を梳き、頬を撫で上げる。だが、明が優しいのはこの
刹那だけで、ついぞ明は光の体にそう触れてくることもなかった。ときどき、薄桃
色の乳首を摘みあげたりするだけだ。
明の道具にされているような気がした。口の中に濃い精液を吐き出され、それ
にむせ返って体をくの字に折って咳き込んでいる間に、着物の裾がからげられた。
光は下帯をつけていない。かげまの頃のくせがいまだ抜けず、襦袢だけだから、
裾をからげればするりと滑らかな尻がそのままあらわになってしまう。
そこに舌先でふやかしたふのりをたっぷり塗りつけられ、ろくに解されもせず、
愛撫されることもない。かげまだった頃はそんな客はざらにいた。――まるで戻
りたくはない過去へ戻ったような気がした。だが、どういうわけか明のそれは光に
ぴったりと合っていて、腰を揺すられればすぐに火種が燃え、最後はだらしなく
達してしまうのだ――。
(4)
「どうした、光――。」
やわらかくも低い行洋の声にはっとして顔をあげると、いつもとは違うやさし
い灰色の瞳が心配そうにこちらをうかがっていた。
「疲れたかね。」
「いえ…!」
行洋はふと、うつむき加減になると静かに微笑した。
「このところ、家におまえを帰していないから、平八郎殿も気を揉んでいるだ
ろう。――ふふ、平八郎殿はおまえがかわいくて仕方ないらしい。昨日もばっ
たり町の碁会所でお会いしたのだが、光のことを聞いてこられた。」
「じいちゃんが…そうですか。」
「おまえは素直で、ひたむきだ。平八郎殿もわたしも引き受けてよかったと
思っているのだよ、光。」
光はその言葉に胸がどきどきと震えるのを覚えた。いままで、行洋とこれほど
までに言葉を交わしたことはない。ただ、修行に来なさいと云われたときは、
後先も考えず、鋭くも柔らかい灰色の目に吸い込まれるようにして頷いてし
まったのだ。来てみたら、いままでの世界とはまるで違う厳粛さに押しつぶさ
れそうにもなったし、いつわが身がばれるかと毎日びくびくし通しだったが、
それでも茶屋にいて男たちに体を貪られ、おなじかげまたちから嫉み妬みの目
で見られて針のむしろにいるよりははるかにましだった。それに、忙しくして
いさえすれば、一日千秋の思いも忘れられるし、いつか佐為に逢えるかもしれ
ないのだ。
(5)
「先生…。ありがとうございます。」
光は目をしばたいてふかぶかと頭を下げた。行洋はきまり悪そうに咳払いをす
ると、おもむろに立ち上がった。
「佐為殿の目に狂いはなかったな――。」
「え…。」
「あの佐為殿が惚れこむほどのことはある。」
ほんの一時だけ、大きな手がそっと光の頭に当てられ、そして行洋は静かに座
敷を出て行った。