お江戸幻想異聞録・金剛日記
(其の壱)
(1)
時は江戸、安永の世でございます。
さきの将軍、吉宗公が倹約倹約と口やかましく言う吝嗇な時から大火事を経て
時は老中・田沼意次公のご時世、ようやく多少の贅沢もでき、遊女たちのいる
吉原や深川は大賑わいでした。
そして、湯島や日本橋芳町などでは大小さまざまな陰間茶屋が軒を並べて昼
となく夜となく大繁盛しておりました。
陰間茶屋というのは、女あそびの吉原とはちがい、おもに十三、四から二十ほど
の少年――陰間または若衆と呼ばれます――と同衾できるお座敷を供する茶屋
や料亭を言います。
客は若衆遊びがお好きな旦那や女犯禁制のお坊さまが主でして、かの平賀源内
さまなどは女などには目もくれず陰間遊びに明け暮れたご様子で。
また、旦那衆だけでなく御殿女中や金をもてあました未亡人もいらっしゃいまして、
旦那の相手をするのは主に十代のかげま、おなごの相手はかげまを引退した
はたち過ぎの野郎にございます。
(2)
さて、かげまを抱きたいとなれば、まず陰間細見など見ながら好みの子を選び、
茶屋の遣り手に伝えますると、子ども部屋または若衆部屋なるところより若衆
が参ります。格下の子であれば小袖の裾をそそと絡げて茶屋へ参りますし、
格の高い子となると、「金剛」という若衆の世話人をともない、ちりめん友禅の
襦袢の上に粋な振袖姿であらわれます。そうした子ども部屋の中でも商売上々、
売れっ子を多く抱えるのが「加賀屋」で、主人の加賀屋鉄之介、通称・鉄はまだ
若いながらも商才に長け、江戸っ子らしくきっぷもよく、躾けは厳しゅうございま
したが、それぞれの子たちの気性をよく知ってものを言うので慕われておりました。
手前は陰間の身の回りの世話をする金剛、いすみと申します。芳町でもいちばん
の器量よしと言われる売れっ子、光之丞――通称・光に付いておりました。
光之丞とはまたけったいな名でありますが、前の髪がそこだけ光が当たったよう
に金色に明るく、また大きな瞳がきらきらと光るさまを見て主人の鉄が決めたもの
でございます。京都から連れて来られる陰間が多い中にあって、光は珍しい江戸
生まれ江戸育ちでございました。
(3)
本来、江戸育ちは雅な京育ちと違って品がなく売れないものです。ましてや光は
いくらひっぱたいてもべらんめえ言葉を頑としてなおさぬ強情、また相手がえらい
お坊さまだろうがお武家さまだろうがずけずけと物を言うので、はじめは主人の鉄
ともども冷や汗をかいたものですが、むしろかわいらしい姿形に似合わず肝が据
わり、また京言葉よりなじみのある江戸ことばも愛嬌があってよろしい、と好まれる
お客様が多うございました。中には光に罵詈雑言を言われたくて通い詰める客ま
でいる始末です。人形のように愛くるしい姿かたちをしながら、豪胆かつ奔放な
気性の差がたまらぬといったところでしょう。
その上、ひとたび抱けば十年に一人いるかいないかという上もの、滑らかな肌は
いい香りがし、いつまでたっても毛が生え揃わぬ一物はあけびの実のよう、また
菊門は色艶がいいだけでなく絶妙な締め付け具合であまたの旦那をとりこにした
ようでございます。
光がはじめて客をとったのは数えで十三の年、これはごく普通ともいえますが、
小さな体と顔のつくり、とりわけ大きな目が年より下に見えて年若が好みの旦那衆
には当初から引く手あまたでございましたか。
初めて客の前にお目見えする前は「いすみさん、おれ、やだよこわいよ」と手前の
袖にとりついたものでございます。
(4)
そんな光もお城で碁を指南なさる藤原佐為さまがお見えのときだけは晴れ晴れ
と笑うようになりました。
陰間あそびは吉原より金がかかるゆえ、お客さまも位の高いお坊さまや大店の
旦那、お武家さま、まぐわうだけの阿呆な子では客はつきません。ゆえに陰間と
して客を取る前、六つ七つの禿(かむろ)の頃よりあまたの芸事にくわえて書や
和歌、囲碁将棋を仕込むわけですが、光は書や和歌は苦手なものの、碁は
玄人はだしでめっぽう強く、その噂を聞きつけた佐為さまがいらっしゃるように
なったのでございます。
(5)
佐為さまは碁の才を買われて京の都よりいらした方でございます。お城碁入り
も何度となくすすめられ、出れば名人は疑いなしと言われつつもついにお城碁
にはお出になりませんでした。
碁打ちの流派あらそいのみにくさに耐えかねたとも、お城碁で上位になると剃髪
せねばならず、長く美しい黒髪をバッサリやってしまうのを嫌がったからとも言わ
れます。
その代わり、碁を打ちたきは町人でもお武家さまでもわけへだてなくお教えになり、
その教えの上手がついには大老や老中の耳にまで届くようになったといいます。
うわさでは将軍さまにも碁指南をなすっていたそうですが、ご本人はまこと謙虚な
もので、真偽をたしかめるとやわらかに笑ってお答えにならないとか。
また、京の出とあって立ち居振る舞いも雅な上にたいそうな美男子でもございました。
(6)
佐為さまは光をそれは大事になさいました。はじめは光と碁を打つのみが、
いつしか光と契りを交わし、相惚れになったようでございます。
光が陰間としてお目見えして約一年のことでございました。