お江戸幻想異聞録・金剛日記
(其の七) 転身
(106)
「光のやつ、あれから一体どうしちまったんでえ。」
鉄はきせるを一吸いすると、ぽんと火鉢のはしに打ち付けました。
「どうしたって…もとどおり勤めに精を出す気になったってところでしょう。
ま、一枚めに返り咲いて手前も一安心ですよ。」
そう云った手前を鉄は疑わしげにじろじろと眺め回しました。
「変わったっていやあ、いすみ、おめえもなんか変わったな。前はなにかにつ
け、光が光がって甘やかして、座敷に出すのも渋ってたおめえが…。」
「座敷に出したくないわけじゃござんせんよ。ただ、金剛のつとめとして乱暴
な客はごめんだってえ話です。」
風変わりな絵師、芹澤一斎さまの家にお伺いしたときのことは鉄にも申して
おりません。ですが、勘のいい鉄のことです、部屋に帰ってくるなり、光が
ばたりと倒れこんで熱を出し、そのまま二日ほど寝込んだのに何かうすうす
に感じたに違いありませぬ。
その後の光はといえば、なんとはなしに手前から離れたがっているようにも思
えてなりません。
(107)
かげまとは時をはかる香でいくらと定められておりますが、おおかたのかげま
は時を稼ぐがため、客と会ってからもあれこれと話を引き伸ばしてことに及ぶ
のを渋るものでございます。ですが、あのあとの光は香をつけるやいなや、甘
い声をあげて旦那にしなだれかかり、はやく抱いてとせがむようになりました。
これにやられない旦那はおりませぬ。
気位が高くなかなか体を許さぬ日高を買っていた旦那衆があっという間に光に
つくようになりました。
「ま、やっと佐為さまからふっきれたってところでしょう。」
「…だといいけどな。さて、もうすぐ昼どきだ。」
そう云って鉄は冷えた茶をすすりあげました。
季節はもう師走、ちかごろは水も手を切る冷たさになり、町はどことなくせわ
しさが募ります。
鉄が腰を浮かせかけたところでいっときぴたりととまりました。
「もし――。」
低いが朗々としたつやのある男の声がいたしました。
「…はい、どなたさまでしょう。」
手前はさっと立ち上がって玄関のたたきに降り、黒い格子戸を開けました。
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男が二人、それぞれ羽織袴姿で立っておりました。一人は年のころ四十かそこ
ら、もう一人はそれより若く、腰に大小を差しております。
お侍さまかと思って二人をためすがめす見ましたが、若い方は身なりからして
おそらくは御家人でございましょう。背格好もよく、目つきも鋭いかなりの色男、
もう一人は侍にしては垢抜けた粋な袴、大小も差しておらず、しかしやわらかい
色の目には若いほう以上の鋭い光を宿しておりました。
「こちらに光之丞という子はおりますか。」
「はい、おりますが…。」
こうしたところへ来る客にしては折り目ただしく、しかも二人で来るのにこんな昼
間というのも珍しゅうございます。
奥では手前の肩越しに鉄が鋭く目を光らせておりました。若いのはそれに気づ
いたのか、丁寧に一礼いたしました。
「突然にお伺いして申し訳ない。それがしは京都禁裏付与力、緒方精十郎と申
すもの、こちらは将軍さまが名人碁所、塔矢行洋さまにございます。」
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禁裏付というのは手前もちらと耳にしたことがございました。将軍さまよりじき
じきに京都の帝のもとへ遣わされ、幕府と帝の取り持ちをするというのは表
向きで、ようは幕府の犬、帝がしゃしゃり出てこないようにするためのお目付
役といったところでしょう。この禁裏付と京都奉行をとりまとめる京都所司代
というのはのちに老中に任ぜられるお役にて旗本の憧れ、その配下の禁裏付と
て任期をまっとうすればむげな扱いはされぬと聞きます。
碁所とは聞きなれぬところながら、わざわざ将軍さまのお抱えであると云うか
らにはお目見え以上なのでありましょうか。
「実は、光之丞を迎えに参った次第でございます。」
「えっ…。」
「藤原佐為さまの件にて、少々お話をさせていただきとうございます。」
手前の後ろでカチリとキセルを置く音がして、長羽織の紐を結びなおした鉄が
出てまいりました。
「ここで立ち話もなんですので…。いすみ、ご案内申し上げろ。」
こうして手前はとるものもとりあえず、道一本へだてた「や奈ぎ」へあがって
いただくことにいたしました。
(110)
「色茶屋とはどれほどいかがわしい風情かと思えば、なかなか落ち着いたいい
店でございますな。」
煮茶を前に、緒方と名乗る侍はそう褒めて、かたわらの塔矢さまを見ました。
「で…。藤原佐為さまの件とはどのような?」
鉄が膝を揃えてゆっくり聞きますと、緒方さまは唇の端に笑みを浮かべました。
「佐為殿の消息につき、文をさしあげましたのはそれがしでございます。」
手前ははっとして緒方さまの顔を見つめました。佐為さまがお亡くなりになった
という文の末尾にしるされた名と花押が思い出されます。鉄もそれを思い出した
のか、ちらりと手前と目が合いました。
「ええ、覚えておりますとも。」
「いかにも。それで…まことに遅くなり申したが、こちらの塔矢さまは碁打ちの
総家元、碁所でいらっしゃります。佐為さまとは長きにわたりお付き合いの
ある方にて、佐為さまに代わり光之丞を身請けしたいと、まあ、こんなわけで
ございます。」
「はあ…」
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ようは、佐為さまが亡くなったので、その代わりに身請けするということなの
はわかり申したが、ずいぶんと急な話にございます。
緒方の横にいた塔矢さまがゆっくりと口を開きました。
「実は佐為殿を江戸に呼んだのは私だが、佐為殿からも光之丞のことは伺って
います。かげまながら碁の才もあるのに口惜しい、と。」
たしかに光はそこいらでは負けなしの強さではございましたが、花のお江戸の
碁所さまが目をかけるほどとはにわかに信じがたく、鉄は苦笑いをしておりま
した。
「まァ、たしかにあいつァここいら一帯じゃ負けなしですが…そんなにすごい
んですかねェ。え、どうなんでぇ、いすみ。」
「光は佐為さまと打つときは二子でしたが、負けることのほうが多かったよう
でござんすよ。」
手前がそう云うなり、緒方さまと塔矢さまは目を見開いてほぅ、と声をお上げ
になりました。
「佐為殿を相手に二子とは…。塔矢先生、それでは明殿と互角といったところ
ではありませんか?」
「うむ…。その子は年はいくつですか?」
「十五になったばかりで。」
「ほう――。それはますます面白い。あとでぜひ一局手合わせしたいものだ。」
塔矢さまはそこで初めて、顔をほころばせて笑ったのでございます。
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聞けば、塔矢さまにも光と同じ年の息子がいらっしゃるそうでございました。
塔矢さまは急いた様子にて風呂敷から封をしたままの金をお出しになりました。
佐為さまがお亡くなりになったのち、人づてに緒方さまに託された文と目録が
あり、佐為さまお持ちの蔵にあるものを全て売り払い、光の身請けに当てたし
とあったそうでございます。蔵には古今東西の壷やら茶碗やら、値がつかぬほ
どの品がぎっしりとあったそうで、金に代える手はずは全て京にいる緒方さま
がなさいました。
「いやはや、さすがはお公家の出、蔵にぎっしりあったものを売りましたら、
かなりの金になりまして…。それがし、佐為さまのお言葉どおりその金を持って
江戸に参り、塔矢先生に話しましたら、ぜひにとおっしゃる。」
そう云われる緒方さまの目は好奇に満ち満ちていらっしゃいました。おそらくは
財を投げ打っても惜しくないというほどの子がどのようなものか、見てみたい
のでありましょう。
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鉄は一旦、部屋に帰って前金の証文を持ってくると云うので、手前もいっしょ
に腰をあげて光を呼びに参りました。
手前がなんと光に云おうかああでもないこうでもないと考えるうちに二階の階段
まで来ておりました。
「なぁ、よかったじゃねえか。あいつはこんな色部屋で終わるやつじゃねえ。」
鉄がぽんと手前の肩を叩きました。
「…そうですね。」
階段を登る足取りが重く、ふらふらいたします。光の部屋は一尺ばかり開いた
ままに、光は鏡の前で白粉をつけた刷毛を手にとっておりました。
カラリと戸をあけた手前に光は振り向き、にっこりと笑いました。
「いすみさん…オレね、昨日、夢で佐為に会った。」
「そうか…。」
「なんだかね、佐為がもうすぐ迎えに来る気がする。」
後ろ髪をなでつけ、光は立ちあがって青の色留袖をひるがえしたのでございます――。
《金剛日記・終》