お江戸幻想異聞録・五月雨(さみだれ)
(其の壱)
(1)
「じゃァ、お母さま、行ってきまーす!」
元気よくそう云う光に明子はほほ笑みかけた。ここでは弟子たちはみな、明子
を「お母さま」と呼ぶ不文律がある。誰が云いだしたのかはわからないが、
「奥様」でもなく、「おかみ様」でもなく、「お母さま」と呼ぶ。
唯一の例外は「母上」と呼ぶ息子の明之丞のみだ。
勝手口の土間に立っている光は藍色小紋の小袖に黒い長羽織を羽織っている。
ひざほどまである羽織は小柄な体には少々もてあまし気味のはずが、どういう
わけか光が着ると似合うのが不思議だった。
思えば、光は初めてこの家に来たときからどこか垢抜けていた。少々驚いたこ
とは、吉原の女のように衿を大きく抜く癖があったことで、明子はそれを見つけて
は前のあわせをひっぱってなおしてやっていたことを思い出す。
さすがに近ごろでは衿を抜きすぎることはなくなったものの、時おり、女顔負けの
妖艶な仕草――首の傾け方や、手の差し出し方――が垣間見えて、明子ははて、
この子はいったいどこでそんなことを覚えたのだろうと不思議がった。
主人の行洋は光が色町の近くで育ったために、知らず知らずのうちに覚えたの
だろうと笑ったが。
(2)
この家には何人もの若い弟子が寝食を共にしている。光の家は両国にある
この家からさほど遠くない墨田の川の向うで、剣指南をしている進藤平八郎
という隠居と共に暮らしているゆえ、通いの弟子ということになるのだが、泊りがけ
になることも珍しくなかった。
それというのも、明子の一人息子、明之丞――周りは明と呼び捨てるが――が
なかなか光を帰したがらず、夜ふけまで碁を打つことが多いからだ。とはいえ、
いれば賑やか華やかで、その上生まれたばかりの雛よろしくちょろちょろと明子
のあとをついてまわる光が可愛くて、帰したくない気持ちは明子も同じであった。
幼き頃に両親と死に別れたというから、甘え足りないのだろう。
一人息子の明ではこういうことはなかった。幼子の頃より手を煩わせたことも
なく、気難しい年頃になっても親や周りと諍いなどしたためしがない。聞き分け
のよい子といえばそうだが、男の子とはもう少しやんちゃであってもよいと思って
いた明子は、まるで柳のような息子が少々心配ではあった。
(3)
だから光が来てからというもの、毎日のように光と激しく言い争うさまを見て、
心底おどろき、またなぜだかほっとしたものだ。
だが、子どものような喧嘩をしているくせに光の好きな菓子も菜もことごとく
暗記していて、小遣いでうさぎ饅頭を買ってきては縁側でならんで食べる。
夕餉のときにはなんだかんだと理由をつけて光の好きな菜をくれてやろうとし、
それでまた「いらない」「やる」の口喧嘩になる。おそらくは明なりの仲直りの
つもりなのだろう、しまいには喧嘩なのか犬っころがじゃれあっているのか
わからない様子に周囲でくすくす笑いが起きるのが常だった。
ようやく友達らしいものができたらしい。どこで見つけたのか知らぬが、光を
連れてきた緒方に手を合わせて感謝したい心持であった。
光が勝手口を出ようとしたその刹那、うしろの廊下からドタドタと荒々しい足音
が響いた。
光が実家へ帰ろうとするにつけ繰り返される。
「進藤!もう帰るのか?」
明は裸足のまま土間に飛び降りた。
「まぁ…!明殿」
(4)
いつもの息子からは想像だにつかない様子に、明子は口を手に当て声をあげた。
だが、その息子は母の驚愕など目もくれず、べたべたと土間を歩いていって、
光の肩をつかんだ。
「なんだよー、さっきお前と一局、打ってやったじゃねえか。オレ、早くじいちゃんの
処へ帰りたいんだよ…。」
眉を寄せて云う光に、明はあわてて両手を振った。
「そうじゃない。これ…これ、おじいさまの処に持って行け。」
「へ…?なにこれ。」
胸の前に押し付けられた包みと明の顔を交互に見る。
「新茶と饅頭。」
いきなり高価な茶をおしつけられて、光は当惑しながらもそっと手に受けた。
「あ…ありがと…。でも、じいちゃん、こんな高いもんもらったらまた騒ぎ出
すぜ。」
「いつ戻るんだ?」
光の呟きなどまるで無視したまま、明はぐっとにじり寄った。
(5)
「え…そりゃ…あさってには戻るけど…。そうだ、おまえ、明日は稽古もない
し、今からうちに来ればいいじゃねえか。じいちゃんも会いたがってるし。」
「えっ…。いいのか?」
たじろいだ明に、母がたたみかけた。
「そうですわね。明殿、ここから光之丞の家は近いのだし、行ってらっしゃい
な。父上だってそれぐらいうるさくは云わないでしょう。」
明はすこし首を傾けて思案していたが、小さくうなづいた。
こうして明は光に急かされながら身支度を整え、二人いっしょに急ぎ足で墨田
川を目指した。
光はすたすたと吾妻橋のほうをめざして歩き、そのあとを明がついていく。
卯月とあって、さすがにこの季節に、薄手とはいえ、長羽織を着たのは間違い
だったと光は気づいた。
暑苦しくて額に汗が吹き出る。今年は春でも冷えることが多く、外に出るとき
は羽織がくせになってしまっていたのだ。