お江戸幻想異聞録・五月雨(さみだれ)
(6)
「進藤――きみ汗びっしょりじゃないか。もう少しゆっくり…」
「おまえ、遅いんだよー!」
去年の師走からおよそ半年、はじめは一町歩くのも難儀に感じた光だったが、
今では両国から実家のある川向うまで走って帰るのも珍しくなくなった。
「あっ…。」
光の背後で、明が小さく声をあげ、振り返ってみると、明は染め抜き小紋の背
中を見せてうずくまっていた。
「どうした?」
かけよってみると、明は黒足袋の足から鼻緒の切れた草履を抜いていた。
「あ…。」
光はあわててあたりをぐるぐる見回すと、下駄草履のなおし屋がいないものか
と探した。江戸の町はあちこちに様々ななおし屋がいる。瀬戸物、桶、傘、履き
物、着物、店を構えていることもあるが、多くは道端で商いをしている。
光はしばらく目をすがめてきょろきょろとしていたが、急に明の手から草履を
ひったくった。
(7)
「あそこに履き物屋があるから、そこでなおしてもらってくる!おまえ、ここ
で待ってろ。」
「えっ…進藤…。」
明は草履を片一方だけ履いたまま取り残された。
待っていろと言われても、腰を落ち着ける場所もなく、でくの坊のように突っ
立っているのもきまりが悪い。溜息をついて顔をあげると、目の前の小間物や
で店番をしていたおかみと目があった。
「まあ、ここで少し休んだらどうかね。」
おかみはにこにこと笑いながら、鉄瓶の湯を茶碗に注いで出し、明は店先まで
よろよろと歩み寄ると上がりかまちに腰掛けた。
「ああ…どうもすみません。草履の鼻緒が切れてしまって…。」
「さっきの子は兄弟かい?あんたに似てきれいな子だねえ。」
「えっ…。」
はたから見れば同じような年恰好、背丈は光のほうが少々小さいが、色の白さ
や体の細さが兄弟のように見えるのかもしれず、そして目が大きくて愛らしい
光と兄弟に間違われたのがなんとはなしに嬉しかった。
「はじめは長羽織を着た深川あたりのおきゃんとその恋人かと思ったわ。」
そう云っておかみはアハハと笑った。深川のおきゃんとは、男装風の格好をし
た深川芸者のことである。絢爛豪華な吉原と違って、深川の芸者は男のように
長羽織に粋な小袖、半幅帯をピリッと後ろで結い、切れのいい男言葉を使う。
人情に厚く芸に長け、簡単に体を売らないとも云われる。なるほど、云われて
みれば光はそうしたいなせなお転婆娘に見えぬこともなかった。
(8)
「あんたたち、どこぞの大店の若旦那かい?」
「いえ…。碁打ちです…。」
「へえ、兄弟そろって碁打ちなのかい。」
またも兄弟と云われて明は気恥ずかしくなった。この時分には珍しい一人息子
で兄弟姉妹などない明には、たしかに光が弟のようなのかもしれない。とはい
え、年は光のほうが三月ほど上だからこちらが弟か。
そういえば、光も親兄弟を大火で亡くして祖父の平八郎がひきとったと聞いて
いる。同じように兄弟がいない身だが、祖父が凄腕の与力だったというのに仕
官せず、今頃になって碁打ちを目指すとは、なんとも不思議だった。
思えば光は謎だらけだった。二歳のころより父・行洋の薫陶を受けていた自分
が時に追い詰められるほどの高い棋力を持つとは、よほどの天賦があったと見
える。
(9)
だが、あれほどの力はそれこそ父に並ぶほどの者が教えなければつかないは
ずで、祖父・平八郎かとも思ったが平八郎は素人にしては強い程度だ。
それに、ふっくらとした白い肌といい、時おり見せる艶めいた仕草といい、とても
武家の出とは思えない。近づくとなぜか甘いいい匂いがするし、小間物やへ行
くと香袋や飾り櫛ばかりながめている。そうした時の光はどことなく色っぽくて、
一度ならずどきりとさせられたものだ。
「明ぁ、おまえこんなところにいたのかよー。ほら、なおしてもらったぞ。」
はじけるような声に顔をあげると、はぁはぁと息をつく光が立っていた。どうやら
走ってきたらしい。
「あ…ありがとう…。」
薄桃色に上気した頬と額ににじむ汗を見ながら、喉に何か詰まったような、体の
奥底でなにかがざわめくような気がした。
「ふぅ…やっぱり長羽織は暑いや。」
光はそう云ってふわりと黒の羽織を脱ぎ、ほのかな桜の香が舞った。