パッチワーク アキラ 2004.02

(1)
 このマンションに越してきてもう一年半になった。一階はコンビニ、二階は深夜二時までの和食&
エスニックで女性が一人で食事することができる雰囲気の店。三階から六階がマンションでトイレ・
浴室別の十五畳くらいの台所付き洋間で九室。管理人は住み込みでしかも夜でも一階のコンビニの店
員の内の最低一人は管理会社の正社員。廊下も建物の外から見えないようにしてある等セキュリティ
が良く、二階の店も定期的に換えるなどして回りのマンションより二割くらい家賃が高いのに築十年
で空き室は出たことがないらしい。というのは管理会社の社長をしてる熊田さんからの受け売りだ。
僕はこのマンションの七階に住んでいる。七階にあるのは僕の部屋だけだ。といっても、フロアの半
分は両親の普段着や(和服の類は専門の業者に預けた)棋譜などの蔵書の倉庫になっている。書画骨
董は専門の美術館に、代々伝わる古文書(大福帳の類)は区の郷土史博物館にそれぞれ寄託した。家
で使っていた家具や普段使いの食器は母の実家に置いてある。

 最初の北斗杯の前、父の研究会は実質解散していた。そのせいか緒方さんや芦原さんも碁会所に来
ることはほとんどなくなっていた。父が中国リーグのため深=(シンセン)に行ってしまい。彼も北
斗杯の予選が終わるまで碁会所には来ないと言ったし、僕も碁会所には行かずに家で研究をしたり、
語学教室に通いはじめたりもした。卒業直前の緒方さんとの対局に負け、芹澤先生との対局にも負け
リーグからの陥落が決まったあとも予定は手合いで埋まっていた。トーナメント戦だから気は抜けな
いけれど、リーグ戦と比べると手応えのあるものではなかった。

(2)
 北斗杯のための合宿。あれほど囲碁漬けな日々はあの時が初めてだった。中学時代は囲碁と学校二
足の草鞋をはいていた。学校は囲碁のために休みがちではあったけれど、そのために授業について行
けないのはいやだった。海王ではどの授業も教科書を使わずに先生の作った教材を使っての授業だっ
た。いつも二週間を目安に予習をストックし、わからないところは先生の早めにお訊きしていた。学
校以外に通信添削も五科目受講していた。中学卒業間近になって両親が家を出たあとはこれに家事が
加わった。中学を卒業して今度は囲碁と家事の両立が必要になったと。いっても、洗濯は下着類だけ
であとはクリーニングに出していたし、料理もほとんど出来合のもので済ませていた。問題は掃除で
自分が普段使うところはそれなりにしていたが、それ以外のところは囲碁のための時間を削っている
ような気がしてあまり手を着けなかった。深=に行く前に母が家政婦さんをと言ったとき僕は断った
が、あとから思えばあれは母の布石だったのかもしれない。

 初めて公式戦で彼に負けた若獅子戦の後、台湾から帰ってきた母の提案は自分たち夫婦は基本的に
香港か上海に移り、僕は両親の持っているマンションのどれかに移り、今は誰も住んでいない隣の母
の実家の離れに住み込みの管理人を置いて二軒の管理を任せるというものだった。僕は自分の生活能
力をけなされたように感じて反論したが母の言い分は料理と洗濯については問題ないけれど二軒合わ
せて千坪以上の敷地の庭と二軒の母屋、離れ、茶室これらの管理にかかる時間を作ることが僕にでき
るかと言うことだった、それよりも優先すべきことがあるのではないかとの問いかけに僕は反論でき
なかった。

(3)
 両親が持っているマンションの管理をしているのは何代か前の元は名主だった先祖が作った会社で
最初は書店とかミルクホールをしたり、自分の家の回りに建てた借家(何度か立て替えをしたが、今
でも家の回りにある)の管理させたりしていたらしい。この人の長男の家系が父で、次男の家系が母
の実家になる。戦後、父方の祖父がこの会社を受け継いだが実務は従兄である母方の祖父に任せて自
分は大学の研究室に残った。母方の祖父は戦後の混乱の中で土地の売り買いや貸しビルの運営など不
動産業の規模を広げていったが、家庭的には共同経営者である従弟(父方の祖父)夫妻と最初の妻を
事故で亡くし、その後は妹も交通事故で亡くし二度目に向かえた妻(母方の祖母)とは不仲で別居状
態だった。主婦のいない家の中のことを取り仕切っていたのは戦争未亡人で嫁入り前に行儀見習いで
父方の曾祖母に仕えた熊田さんのお母さんだった。母方の祖父が亡くなったとき残された家族は別居
中の妻である祖母、最初の妻との間の娘である長女(後に病死)、次女の母。それと伯母である曾祖
母(後に死亡)と従弟の忘れ形見である父であった。祖父は最初は父を会社の後継者にしようとした
らしいが父の性格を見てあきらめ、父が棋士になることを許した。祖父の跡を引き継いだ熊田さんは
祖父の遺言通り無借金経営でバブルに踊ることもなくバブル崩壊も切り抜けた。

 母から相談された熊田さんが上げた候補からここを選んだのは新宿三丁目まで出れば地下鉄で棋院
のある市ヶ谷まで乗り換えなしで行けるからだった。こんな風に思い出に浸ってしまうのは昨夜から
の熱がひかないせいだろうか?だけど、明日の芦原さんとの手合は休むわけにはゆかない。相手が父
の門下でなければ不戦敗も考えたかもしれない。多分この状態であっても芦原さんには負けない、い
や父や芦原さんの名誉のためにも負けるわけには行かない。

(4)
 寝る前に飲んだ風邪薬が効いたのか家を出る前に熱を計ったら37.5度と前の晩より大分下がってい
た。頭の一部に靄がかかって考えることが億劫になっている。地下鉄で行くことはあきらめてタクシ
ーを呼んだ。帰りのことを考えればハイヤーの方が良いかとも思ったけれどハイヤーを一日棋院の傍
で待たせておくことは躊躇せざるを得なかった。手合いはかろうじて僕が勝った。三ヶ月前に碁会所
で打ったときは大体十手先くらいまでは読めていたから公式戦では五手、出来れば七手くらい先が見
えればとおもったけれど、風邪のせいか三手くらいしか先読みできなかった。感想戦も終わって。帰
ろうとしたら出版部の古瀬村さんに呼び止められてインタビューなのか世間話なのかわからない形で
高永夏について訊かれた。まとまらない頭で応えようとしたとき彼が現れて僕を外へ連れだしてくれ
た。彼は相手が昼前に投了してしまって昼には姿を見かけなかったからもう帰宅したのかと思ってい
た。エレベータに乗って一息ついたとき彼が怒ったような声で「今朝、何度だったんだ。」意味がつ
かめなくて彼の顔を見た。「熱だしてるだろ。病院行ったのか?」対局していた芦原さんも気付いて
いなかったのに。「もう、熱下がったから。」「薬で下げただけだろ。」「寝てればなおる。」一階
に着いたらタクシーを呼ぼうと思っていたのに彼につられて表に出てしまった。棋院の前の道には迎
車と表示されたタクシーが停まっている。誰が呼んだんだろう譲ってくれないかな。タクシーを呼ぶ
ために携帯を出したいのに足を進める彼に腕を取られて立ち止まれない。誰が呼んだかわからないタ
クシーのドアを彼が叩いて名前を告げると後部ドアが開いた。「新宿御苑ですね。」運転手は確認す
るように彼の方を見るとタクシーを発進させた。

(5)
 マンションに着くと彼にもう沸かしてあるから一時間はお風呂に入っているようにと言われた。お
風呂場へ行くといつもの半分くらいしかお湯が張っていなかった。浴槽の脇にはスポーツドリンクの
ミニペットボトルが十数本と父が昔出した詰碁集の新品、それと彼の腕時計が置いてあった。「五分
おきに水分補給。忘れるなよ。」時計とにらめっこしながら時の進むのを待っていた、彼の時計は僕
のと趣きが全く違う。僕が使っているのは祖父が使っていたというSEIKOのシンプルな時計だけれど、
彼のは竜頭が幾つもついていて針が何種類も回っていていくつもの時計を重ねたみたいだ。詰め碁を
解いたりもしていたけれどいつの間にか眠ってしまったみたいでアラームの音で目が覚めた。お風呂
から出ると彼が二階から届いた出前を食卓に並べているところだった。「スポーツドリンク全部飲ん
だか」「ううん、途中で眠ってしまったから」「汗かいたんだから、食事の前に全部飲め」口の中に
残る甘さに辟易しながら、僕は言いつけられたとおりスポーツドリンクを全部飲んだ。

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