吸魔2
(1)
降りる駅まであと少しというところで雨脚が激しくなった。
「あ〜あ、本降りになっちゃったなあ」
車内と外気の温度差で白く曇った電車のドアの窓を指で擦り、外の景色を覗いて
ヒカルが溜め息をつく。
「どうせキミのことだから、折り畳み傘なんて用意していないんだろう。うちの
碁会所で借りられるよ」
ヒカルと並んでアキラはドアに背を向けて片手でデッキに掴まり、開いた文庫本に
視線を落としたまま答えた。
棋院会館で大手合いがあった後、2人でアキラの父が経営する碁会所に向かうところだった。
碁会所のビルは駅のすぐ目の前にあるのであまり雨に濡れる心配はなかったが、
雨量はこれから翌朝まで増す事はあってもその逆はない事をヒカルはアキラから
教えられていた。
雨雲で夕刻の空は灰色から闇へと足早に変化し、駅に着く頃にはすっかり駅前の広場は
タクシーのヘッドライトや街灯が煌めく夜の顔を見せていた。
改札から吐き出される人の波間をすり抜けてヒカルとアキラはロータリーを挟んで
正面に見える建物に向かう。
駅前のアーケード街を目指してそこまで傘無しで辿り着こうとする人々の流れが出来ていた。
その時、突然アキラが足を止めた。
(2)
「何してんだ、塔矢」
同様に足を止めてヒカルが問うと、アキラは注意深く伺うように周囲をそっと
見回していた。
激しい雨粒がパタパタ音を立てて2人の髪や肩を叩く。
「あ、…いや、…誰かがボクらを見ているような気がしたんだ」
そう言って再び歩き出したものの、アキラの足取りは重かった。
「見てるって、誰がだよ」
「ん…」
歩きながらアキラは必死に何かを思い出そうとするように考え込みながら呟く。
「…黒っぽいスーツを着て、雨の中で傘をさして立ってこちらを見つめる男の人…」
「はあっ?」
「前にも、そんな事があった…そんな気がする。でもそれがいつだったか、本当にそんな事が
あったのかどうかもよくわからない…」
「…塔矢、もしかしてお前…ノイローゼってやつ?」
ヒカルがアキラの顔を指差してそう言うと、アキラはムッとしたようにヒカルを一睨みして
歩を速めた。
「あっ、おい塔矢っ、オレは本気で心配してやってんだよっ」
慌ててアキラの後を追ったヒカルだったが、その時突如ヒカルの脳裏にも“その”映像が浮かんだ。
一瞬だけ鮮明に
――ダーク系のスーツに身を包み、背が高く、その顔の上半分までが傘に隠されて見えない男が
口元に笑みを浮かべてこちらを見ている、という映像――
(3)
思わずヒカルも立ち止まって後ろを振り返って見るがそんな人物は見当たらなかった。
首を傾げ、ヒカルは歩き出す。
「…オレも疲れているのかな」
暑気を洗い流す秋の始まりの雨だった。
何かざらついた感触を抱いて、湿気を含んだ陰鬱な曇天を見上げてヒカルは呟いた。
「嫌な天気だな…」
「進藤くん、いらっしゃい。アキラくん、お客さまが見えているわよ。…あらあら、
2人ともどうしたの?」
碁会所の受付で市河が驚いたように2人を見つめ、直ぐに奥から乾いたタオルを2枚
持って来てくれた。
「お客さま?」
タオルを受け取りながら店の奥の方を見つめるアキラと同じようにヒカルもそちらを見た。
常連客らが集まっているその場所にこちらに背を向けて座っている、黒髪で長身の黒っぽい
スーツ姿が目に入った。
一瞬先刻の映像の男の印象に重なってヒカルはギョッとした。
「芹澤先生…」
驚いたようにアキラが呟き、ヒカルは我に還った。
明らかに周囲を取り巻く年輩の常連客とは違った雰囲気を漂わせ、上質なスーツに身を固め
黒々とした髪をオールバックに撫で付けた芹澤九段が、ピンと背筋を伸ばし、上品な物腰で
碁を打っていた。
(4)
碁会所の奥まったテーブルで、芦原が芹澤の対局の相手をしていた。
「そういえば芦原さん、先日芹澤先生と対戦だったんだ…。いいところまでいったのだけど、
やはり芹澤先生の方が上手だったらしい…」
「特に最近の芹澤先生、凄いって評判だしな…」
そう小声で言葉を交わしながらヒカルやアキラがその場に近付くと自然にギャラリーの
常連客達が2人に場所を譲る。
改めてその芹澤の後ろ姿を見て、さっきまでとは違う意味でヒカルは少しばかり困惑していた。
北斗杯でヒカルが残した棋譜がきっかけで、ヒカルは芹澤に声を掛けられ、数回アキラと共に
彼の研究会に顔を出したことはある。
芹澤は緒方と同世代で、中堅の旗手として緒方と肩を並べ高く評価されている実力派棋士だ。
だが芹澤は緒方やアキラとは全く正反対なタイプの棋士だとヒカルは感じていた。
あの芦原も含めて、塔矢門下一派はなかなか好戦的な打ち手が多い。発送の飛躍や大胆さで
大きな碁を打つ。良い意味で柔軟的で人間臭い打ち筋なのだ。
だが芹澤はあくまで理論的で、計算づくというイメージがある。対局中ほとんど表情が動かない。
ムダな手指の動きや癖も一切なく、血の通わない冷たい人型コンピューターを相手にしているような
感じなのだ。
だがもちろん検討等で門下生らと会話をするぶんには非常に紳士的で穏やかな人柄に思える。
ただ、佐為と意見をぶつけ合ったり森下門下で和谷ら感情的に怒号が飛び交うような研究会を経て来た
ヒカルにとって、芹澤のようなタイプは対戦相手としてもそれ以外においても苦手な部類だった。
結局芹澤の研究会は2〜3度参加しただけで最近は足が遠のいてしまっていた。
(5)
普段ヒカルが年上のどんな相手に対しても物おじしないで入り込んで行く性格なのを
知っているアキラも多少不思議がった。
「相手によって苦手意識を持つ事はできるだけ避けたほうがいいんだが…」
ともっともらしく忠告して来るのだが、アキラに巧く説明出来ない理由がもう一つあった。
それは視線だった。
時折研究会の時にふと気がつくと芹澤がヒカルの方を見ている事があった。
無機質な感情のない、まるで学者が実験台の生物を観察し分析しようとするような目。
それがヒカルは何となく嫌だったのだ。
「ああ、すまない。つい夢中になってしまっていた」
ヒカルとアキラが来ている事に気がついて、芹澤が素早く席を立って軽く頭を下げた。
慌ててアキラとヒカルも頭を下げて挨拶を返した。
芹澤は手早く石をしまうと碁会所内をぐるりと見回す。
「良い処ですね、ここは。明るく居心地が良い。交通の便もいいし、落ち着いて碁が打てる。
常連の方達も皆熱心で…」
「…熱心すぎてうるさいけどネ」
ヒカルが小声でボソッと呟いたのをすかさず常連客の北島に聞き取られてジロリと一睨みされる。
「いったいどうなさったのですか?今日は。」
「近くに用事があったので、塔矢門下生に一局お願い出来ないかと思ってね。まあ、
道場破りといったとこかな」
アキラの問いに冗談とも本気とも思えないような返事をし、芹澤は真っ白に完璧に整った
歯列を見せて笑った。