吸魔2

(6)
ヒカルは、芹澤はそんな事を言うタイプの人だったかなと少し意外に思った。
「本当は元名人にお会いしたかったのだが、なかなか日本に帰って来られないようので…
元名人は、お元気なのかな?」
「はい、おかげさまで…すみません。家族のボクでさえ父の予定が把握できていないものですから」
アキラが芹澤にすまなそうな表情で答える。
父親が海外に行ってしまい、大事な日々の対局相手の一人を失った焦りはアキラも強い。ヒカルも、
機会こそあれば元名人と打ってみたいという強い希望を持っている。
今はより強い相手と一局でも多く打ちたい。そのことばかり考えている。
「三星火災杯に元名人が特別枠で出場されるという噂が日増しに現実味を帯びてきているようだが」
「それもまだはっきりは聞いておりません…ですが、おそらくは…」
三星火災杯と聞くと自然にアキラもヒカルも表情に緊張感が奔る。あらゆる枠組みを超えた、
選び抜かれた本物の強者らの戦いの場。
「まあ、また機会があったら。元名人にくれぐれもよろしくお伝えください。塔矢くんも、
――そして進藤くんも」
そう言ってふいにアキラの後ろに居たヒカルに芹澤が視線を投げかけ、ヒカルは一瞬ドキリとした。
「…2人とも研究会以外にも私の自宅に来て私と打って欲しい」
芹澤はアキラではなく、あからさまにヒカルの方をじっと見つめていた。
「ありがとうございます。…ぜひ」
そんな芹澤の態度に特に気を払うようすもなくアキラが深く頭を下げ、ヒカルも慌てて頭を下げた。
ただ、感情的なものは別にして芹澤のその申し出には血が湧くのを感じた。
芹澤が相手なら申し分ないのだ。今はちっぽけな苦手意識などにかまっていられなかった。

(7)
窓を叩く雨音が激しくなり、その中を碁会所を去ろうとする芹澤にもう少し留まるよう
アキラが勧めたが、「車があるから」と芹澤は断った。
「ただ、駐車場まではダッシュかな」
と呟く芹澤に、すかさずヒカルが
「オレ、送って行きます。塔矢、傘貸して」
と申し入れた。
「進藤くんにしては気が効くわねえ」
市河から傘を手渡されたが、それはヒカル自身、思わず自分がそんな事を口走ってしまった事に
驚いていた。
でも「悪いね、進藤くん」と芹澤に笑顔で言われてしまえば見送らないわけにはいかなかった。

ヒカルと芹澤が碁会所を出ていった後で、それまで言葉少なだった芦原が口を開いた。
「…アキラ、最近芹澤先生のところに行っているのか?」
「ええ、緒方さんも最近忙しくてそういう機会が減ってしまったから…ほんの数回だけ」
「妙だな…」
「え?」
いつもの芦原らしくなく表情を曇らしているのをアキラが怪訝そうに見る。
「妙って、何がですか?芦原さん」
「何だろう…芹澤先生、以前とちょっと雰囲気が変わったような…あんな打ち方をする
人だっただろうかなって思って…」

(8)
ぶつぶつと芦原は芹澤との一局を並び返し始めていた。それをアキラも向かいの席に座って
じっと見つめていたが、特に違和感は感じなかった。
ただ非常に引き込まれる碁ではあった。意図があると分かっていて次の手を打たされてしまう、
誘い手のようなものが多い。そうして自分で自分の首を締めていくような――。
「いや、いいんだ。オレの気のせいだな…そう言えば、最近芹澤九段、婚約したって噂だが」
「婚約…ですか」
唐突な芦原の話の流れにアキラは多少面喰らう。
「アキラも聞いたか?」
「いえ、初耳です」
「だからかな…」
「芦原さん?」
「あ、いや、だからさ、芹澤先生自身、多くの門下生を抱えているはずなんだが、よほど
アキラや進藤のことが気に入ったみたいだなっていうか。何ていうか、最近の芹澤先生はますます
精力的になったという話だし、もしかしたら本気で塔矢門下に取ってかわるつもりが
あるんじゃないかなあ…とか」
アキラが可笑しそうに吹き出す。
「何言っているんですか。大丈夫です。そんなことはボクがさせませんよ」
「でもさ、進藤はどっかの門下生ってわけじゃないだろ?本気で進藤が芹澤先生に
口説かれたりしたらどうする?」
その時、窓の外が一瞬カッと光り、間髪入れずにバリバリと大きな雷音が響いて市河が
悲鳴を上げた。芦原も常連客らもその音に驚いて肩を竦めてたが、アキラだけはその音が
耳に届いてもいないように平然として静かに笑みを称えて答えた。
「…そんなことは、ボクがさせませんよ」

(9)
ヒカルが目が眩むような雷鳴と耳を劈くようなごう音の衝撃を受けたのは、雨の中ビルの谷間の
手狭な駐車場で芹澤の車を前にした時だった。
一瞬視界が真っ白になって、ヒカルの意識が途切れた。

「大丈夫かい!?進藤くん!?」
「…えっ…?」
ぼおっとしたまま声のする方に顔を向けようとすると、激しい耳鳴りと目眩が再度ヒカルを襲い、
足元がふらついた。そのヒカルの肩を芹澤が抱きとめた。
「凄い雷だったね。近くに落ちたのかな」
辺りの様子を伺うようにしながら芹澤はヒカルを雨に濡らさないよう自分のほうに抱き寄せる。
しばらくヒカルはぼんやりと芹澤のスーツの胸にもたれ掛かるようにして上半身を預けていた。
そしてさしていた傘が開いたまま地面に転がっているのが視界に入って、ようやく自分の状況を
把握して慌てて離れた。
「す、すみません!!オレッ…!…??」
芹澤は地面から傘を拾うとヒカルに手渡し、にっこり笑った。
「私も子供の頃は雷は苦手だったよ」
カアッとヒカルは赤くなった。雷を怖いと思った事はなかったが、今の大きな雷鳴に一瞬気を
失いそうになったのは事実だったからだ。もちろん、今まではそんな事は一度もなかったのだが。
芹澤は自分が差していた傘も閉じてヒカルに渡した。雨は幾分小振りになっていた。
「助かったよ。どうもありがとう」
そうして車に乗り込んでキーを回すと、ヒカルが立っている助手席側の窓を開けた。
「さっきの話だが…、特に進藤くん、私は君の打つ碁に非常に興味を持っているんだ。明日、
君だけでも私の家に来てくれないか。時間はいつでも構わない」

(10)
「えっ、でも…」
さすがに唐突な申し入れにヒカルは戸惑う。明日は和谷のアパートでの研究会がある。
ただ、厳密に全員参加というわけではなく、特に大きな対局の検討をする場合以外は
時間がある者らで適当に集まる程度であった。
「都合が悪ければいいんだ。無理を言って済まない」
「いえっ、行きます」
思わずヒカルはそう返事していた。なんだか断ったらとても自分が芹澤九段に対して
失礼な気がしたのだ。芹澤は嬉しそうににっこり笑うと、右手を軽く挙げて控えめに
低くエンジン音を響かせて車を滑り出させた。
黒塗りで丁寧にワックスがかけられた大型高級国産車の芹澤の車は、ネオンも薄暗い雑多な裏通りを
路上駐車の合間を器用にすり抜けて消えて行った。
芹澤の姿が視界から消えたとたん、ヒカルの体から力が抜けた。やはり緊張する相手ではあるのだ。
「…“行きます”って言っちゃったよ…」
ハア−と溜め息をつくと、まだ少し目が回るような感覚を振払おうとしきりに首を左右に振ったり
捻ったりしながらヒカルは碁会所へ引き返した。
碁会所に着くと、まずヒカルの目に入ったのは奥のいつものテーブルでムスッとした表情で
腕組みをして目を閉じているアキラの姿だった。芦原の姿はもうなかった。
「あら、進藤くん、またずいぶんと濡れちゃったわねえ」
市河が新たに乾いたタオルを出して来てくれた。
「えっ、そお?」
言われたヒカルが驚いて自分の髪を手でかきあげると雫がポタリと床に落ちた。
「…ずいぶん時間がかかったんだな」
奥の席にいたはずのアキラがすぐ目の前に来ていて、市河からタオルを受け取るとそれでヒカルの頭を
ゴシゴシ乱暴に擦り出した。

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