吸魔2
(11)
アキラは明らかに機嫌を損ねていた。近くの駐車場に行って帰ってきただけのはずだが、確かに
20分近く時が経っていた。
「い、いいよ、自分でやるよっ」
ヒカルはアキラの手からタオルを奪うと自分で頭を擦った。
「…芹澤先生と何か話をしていたのか?」
そうアキラに問われ、何故かヒカルはドキッとした。明日芹澤の家で碁を打つ、自分だけその約束を
した事を、何となくアキラには言い出しにくかった。
「別に。なんにも。それより遅くなっちゃったな。はやく打とうぜ」
肩が濡れた上着のシャツを脱いで椅子の背にかけ、薄い白の半袖Tシャツで頭にタオルを引っ掛けたまま
ヒカルは席についた。アキラもまだ何か言いたげだったが、無言で向かいの席に座った。
――こいつの悪いクセは、何でもかんでもオレのオレの行働を把握しようとするところなんだよな…
もちろんそれには理由があった。時間に余裕があっていつでも集れる和谷達と違って、アキラは多忙だ。
その中で空いた時間をヒカルとの対局に費やしている。ほぼ毎週それなりに互いのスケジュールの確認を
するのが当たり前になっている。
それを疎ましいと思った事はなかった。あの塔矢アキラが、自分とだけは確実に時間を作り、そして
いつもそれを厳守して会ってくれる。自分との対局をとても大切にしてくれている。
それはヒカルにとって何となく嬉しいような、くすぐったいような優越感であった。
院生らの間で塔矢アキラと進藤ヒカルという二者があこがれの的であり、目上からも最も注目されている
若手であるという話もそれなりに耳に入って来る。
もちろんそれで舞い上がるような気構えではないが、――どちらかと言えば、常にどんな対局でも
気が抜けない、常にアキラと比較されるというプレッシャーのほうが大きいのだが、ヒカルにとっても
今の自分とアキラとの関係はとても大切なものだった。
(12)
だが、今日に限って何故かアキラのそういう自分を囲いたがるような態度が鼻につく。
そんな事を考えながらヒカルは盛大なクシャミをした。
「カゼをひいたら大変だ。これを着て」
即座にアキラが自分の薄手のニットのカーディガンを脱いでヒカルに差し出した。
空調が効いているとはいえ、Tシャツから出たヒカルの両腕にはうっすらと鳥肌が立っていた。
「いいよ。いらねー」
「ダメだよ。プロ棋士なら体調維持は絶対だ」
「そんなのはわかってるよ。でもいらねえったらいらねえんだよ!」
「コラッ!!進藤!!若先生の気使いがてめえにはわからんのかあっ!!」
お約束のように常連客の北島がヒカルの態度に怒鳴り声をあげる。だが、それとは逆にアキラは
急に本当に心配気な顔になった。
「進藤…、どうかしたのか?」
そんなアキラにヒカルは一瞬怯んだ。理由はわからない。だけど、どうにもアキラに対する苛立ちが
収まらない。
「別に…どうもしねえよ」
ヒカルはガリガリと頭を掻いた。それを見ていたアキラの視線がある箇所に止まり、ヒカルの
手首を掴んだ。
「どうしたの?進藤、ここ…」
アキラが掴んだヒカルの右手の小指の付け根に、虫に刺されたような小さく赤い点が二つ並び、その周辺が
うっすらと赤紫色になっていた。
(13)
「さあ…?」
特に痛みも痒みもなく、ヒカルは首を傾げた。
だがアキラは暫くその箇所を見つめ、息を飲んだ。
「本当に、何の覚えもないのかい?」
そうヒカルに問いながらアキラも必死に何かを思い出そうとするように考え込んでいた。
だが結局はっきりとした実像に結びつかないようであった。
「…たぶん、ちょっとぶつけただけだよ…」
ヒカルは面倒くさそうにアキラの手を振りほどいた。
「…オレ、帰る…」
タオルをその場に置くと、怪訝そうなアキラの視線から目を反らして碁石をしまい、まだ濡れて冷たい
上着を肩にひっ掛けてヒカルは碁会所を飛び出した。
アキラもまた、椅子に座ったまま額に手を当て考え込んでいたが、やはり何も浮かばないといった様子で
首を振って呟いた。
「…以前にもこんなことがあったような…でも………、…気のせい…?」
雨の中、結局傘を持たずにヒカルは駆け続けていた。そうしなければいけないような気がした。
頭の奥で何かが命令するのだ。
――今後は塔矢アキラの傍に居てはいけない…できるだけ塔矢アキラから離れないといけない…
できるだけ…できるだけ…
誰にいつそう命じられたのかわからぬ言葉を、ヒカルは無意識に繰り返し呟いていた。
(14)
芹澤の自宅は都内でありながら緑の多い山の手で閑静な住宅街の一角にあった。
研究会は多くは棋院会館内で行われていて、自宅でのものにヒカルがアキラと一緒に参加
したのは一度だけだった。その時の記憶を頼りにヒカルは芹澤宅を訪ねた。
玄関脇には二台分の広い駐車上があり、昨日の黒塗りの国産車が停めてあった。
大きな造りの家ではあったが、他に家族は居ないのかあまり生活感は感じられない。
玄関のインターホンを押すと、直ぐにドアが開いた。
「やあ、進藤くん、よく来てくれたね」
髪型こそトレードマークのように完璧にオールバックに整えられていたが、休日らしく
白いシャツの上にベージュのカーディガンをはおったラフな格好の芹澤がニコニコしながら
出迎えてくれた。
「お邪魔します」
奥の八畳の和室には既に中央に碁盤が用意してあった。前に来た時は十人程人が集まって
いたので、今日はやけに広く感じた。
来て早々にヒカルは1人で来た事を後悔し始めていた。
朝目を覚ました時点からここに来る事にためらいがあったのだが、相手が相手だけに急に
キャンセルするわけにもいかない。
何となく夕べ寝つけられなくて頭が重かったせいもある。
天気も相変わらず悪い。いつ雨が降り出してもおかしくない暗い雲が空を覆っていた。
アキラに対する負い目もあった。出し抜こうというつもりはなかったが、やはり彼に黙って
ここに来た事は気分が良くなかった。
一度だけだ。芹澤と一局交えたらそれでいい、とヒカルは自分を説得した。
(15)
「そんなに固くならないでいいよ。無理につき合わせてしまってすまないが、時々は
タイトル戦の事は抜きに、いつもとは全然違う相手と思いっきり打ってみたいと
思う時があるものなんだよ」
まるでこちらの気持ちがすっかり見抜かれているようでヒカルは苦笑いをした。
「わかります。お願いします」
「お願いします」
互いに頭を下げる。
ヒカルが先番で黒石を盤上にまず置いた。当然打つ以上勝ちたい。
お守り代わりのようにいつも持ち歩いている扇子を取り出し左手で強く握った。
森下との対局や北斗杯で、実戦経験豊かな相手と戦う事の難しさを嫌と言う程味わったのだ。
目の色を変えて向き合って来たヒカルを芹澤は嬉しそうに眺めた。
布石の段階ではお互い慎重に相手の出方を伺う。
徹底的に仕掛けていくか、最低限の足場を固めるか最初の葛藤が起こる。
見た所芹澤は消極的とも言えるくらい手堅く進め、冷静にこちらの力量を量ろうとしている。
それに応えるようにヒカルは一気に攻めに転じた。
それに対して芹澤は、どんなヒカルの手に対しても幾度もシュミレーションを繰り返して
来たかのように短い時間で的確に反撃して来る。しかも確実に次の有効な手立てに繋げながら。
森下の時以上に早くもヒカルは強いプレッシャーを感じた。
上には上がいる、もっと早くここに通うべきだったかもしれない、と思った。
その時だった。
「…今からでも遅くはない」
芹澤が盤面に視線を落としたまま静かにヒカルに話し掛けて来た。
「…私のところに来ないか」