吸魔2

(16)
「…えっ?」
聞き取った言葉の意味がわからなくてヒカルは問い返すように視線を上げた。
「聞く所によると、君は特定の師匠に指事してはいないようだが…他の研究会に参加
するなとは言わない。ただじっくり腰を据えて学ぶ気はないかい?」
「あ…、え、ええ…まあ…」
ヒカルは曖昧な笑い方をした。悪い話ではない。
でもヒカルの中ではやはり唯一の師匠は、自分の中に棲む彼しかいないのだ。
「…すみません、オレ、特定の師匠につくつもりは…今さらっていうか」
答える半分、次の一手を考える半分でヒカルは意識を盤面に戻しかけた。
「…私だけのものになって欲しい」
「……!」
芹澤のその言い方にはさすがにヒカルは違和感を感じた。
戸惑いながらヒカルが前髪の間から相手の表情を伺うように見上げると、
芹澤は鋭い目でヒカルの顔を見つめている。
それはついさっきまでの穏やかな温かみがあるものではなく、得体の知れない冷たさと
威圧感を持っていた。
ゴクリとヒカルは息を飲んだ。
射すくめられたようにヒカルの指先も黒石を持ったまま停止してしまった。
「…芹澤先生…、だから…オレ…そういうつもりは…」
断わりのニュアンスを何とか伝えようとすると同時に息苦しさを感じた。
芹澤に従わなければいけないような強い強迫観念が襲って来た。

(17)
自分の意志とは関係なく自分の口が「はい」と勝手に動きそうになる。
扇子を握る手に力を込めて、唇を噛み締めてヒカルは必死に踏み止まった。
――なんだ…?なんでこんなに…苦しいんだ?…
動悸がする。自分では普通に正座しているつもりだったのが、次の瞬間ぐるりと部屋の
床と天井が入れ代わるように一回転するような感覚がした。
その後の事は何もわからなくなった。

視界が真っ白になり、目は開けているが何も見えず思考がまとまらないでただどこかに
ふわふわ浮いているような気がした。
体のどこか奥に鈍い痛みを感じる。
「――う…」
ヒカルは声を出そうとしたが、喉の奥が詰まったような相変わらず強い息苦しさで
わずかに吐息が漏れた程度だった。
痛みは体の何ケ所かを移動し、時折鋭い衝撃を伴う。
「…や…っ」
痛みから逃れようとしてヒカルは体を動かそうとした。だが自分の体は自分の意志では
どうにもならなかった。
ドクドクと脈拍が速められていった。
「…ハッ…ア…、…ん…っ」
痛みを感じた場所から熱くなり、次に体全体が熱くなり、さらに呼吸が乱れた。
そして突然何か熱いものが自分の体の中心を駆け抜けるような気がした。
「う…あっ…あ…ア…ッ!!」
思わずヒカルが悲鳴をあげようとした時、強い力で肩を掴まれて揺さぶられた。

(18)
「進藤くん…、進藤くん!?」

呼び掛けられ肩を軽く揺さぶられてヒカルは意識を取り戻した。
ぼんやりと目蓋を開けると、心配そうにこちらを覗き込む芹澤の顔があった。
「芹澤先生…?」
碁盤のある部屋の片隅で、ヒカルは体を横たえられ毛布が掛けられ、額に
冷たいタオルが乗せられていた。
「…オレ…いったい…?」
「対局中に突然倒れたんだよ。熱が出ていて、体調が悪かったみたいだね。昨日雨に
濡れたせいかもしれないね…」
「熱なんて…出てたっけ…」
ヒカルは自分で自分の額に手を当ててみたが、熱っぽいような気もするしそうでも
ないような気もした。それよりもまだ何か床がぐるぐる回るような目眩がした。
「…気持ち悪い…」
反射的に口に手を当て、ヒカルはうつ伏せになった。
「いかんな。病院へ行くかい?」
芹澤は医者が子供を診察するようにヒカルの耳の下から首にかけての辺りを
手の平で探ってきた。
芹澤の手はひんやりと冷たく、ヒカルはゾクリとした。
慌ててヒカルは体を起こして身を引き、両手を開いて左右に振った。
「いえ、いいです!すみません、御迷惑おかけして…!本当にゴメンなさい!
…今日はオレ、帰ります」

(19)
車で自宅まで送ろうという芹澤の申し出を必死に断って、ヒカルは逃げるように
芹澤宅を出た。玄関先で、芹澤はいつまでも心配そうにヒカルを見送っていた。
歩を速め、そこから離れるにしたがって次第にヒカルの気分は回復した。
圧迫感から解放されて一息つく。
「…なんか、芹澤先生ってあんな強引な人だったかな…」
芹澤に触れられた首の辺りがまだ何かザワザワして、手でゴシゴシ擦った。
自分に対する視線や言葉を思い返すと、ヒカルの背中に更にゾゾッと鳥肌が立った。
「…実はちょっとアブない人かもしれない…」
先までの体調の悪さがウソのように頭はすっきりして、体が軽く感じた。
吐き気が消えると急に強い空腹感が起こり、表通りに出たところで
ファーストフード店を見つけ、たらふく遅めの昼食を済ますと、ヒカルは
ちょっと考え、和谷のアパートに向かった。
何だかとにかく無性に碁が打ちたかったのだ。
そのヒカルの左耳の直ぐ下辺りの首筋には新たに赤く小さな斑点が二つ遺されていたが、
ヒカル自身はその事に気付いていなかった。

「あれ?進藤、今日はもう来ないと思ったよ」
ドアを開けた和谷はヒカルの顔を見て少し驚いた顔をした。
「悪イな。ちょこっと用事があったんだ。まだ誰か居る?」
「本田と伊角さん。さっきまで越智も来ていたんだけど、午後から知り合いの指導碁を
頼まれているって帰った」
そう会話を交わしながら中に入ると、それまで対局をしていて検討に入ったところらしい
本田と伊角がヒカルの方に顔を上げた。

(20)
「やあ、進藤」
部屋の中に居た本田と伊角はにこやかにヒカルに声を掛けた。
「伊角さん、久しぶりにオレと碁を打ってよ」
ヒカルは強引に本田のいる側に座って伊角と向き合った。
伊角がちょっと気にかけるように本田の顔を見ると
「ああ、いいよ。オレもお前らの対局をぜひ見たい」
と本田は手早く碁石を片付けヒカルに場所を譲った。
「妙にヤル気満々だなあ、進藤」
和谷が半分呆れたように言ったがヒカルの耳には入っていないようだった。
それでも和谷と本田はヒカルに腹を立てるわけではなく、むしろある種の畏怖の念を
抱いて接していた。それくらい予選から通して北斗杯で見せつけられたヒカルの実力に
圧倒されていたのだ。
和谷の部屋でこれまでもこのメンバーで何度か打ち合って来て、まずヒカルは負ける事は
ほとんどなかった。信じられないくらいの大差で勝ち続けた。
だが対伊角に限っては勝率が五分五分だった。
伊角ほどプロになってから化けた棋士はいないと言われている。
おっとりした優しい人柄は変わらないが、勝負に向き合う時の気迫や存在感は様変わりした。
“眠れる獅子がようやく目覚めた”と院生時代から彼を知っている棋院の師範代らは
大いに喜んでいた。
「お願いします」と互いに頭を下げて始まった2人の対局を本田と和谷は息を飲んで見守る。
黒を持つ事になったヒカルもそれに対する伊角も、初手から互いに厳しい横顔で
遥か先まで戦局の行方を追い頭の中でシュミレーションを始める。
序盤から激しい攻め合いとなった。

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