吸魔2
(21)
「やっぱり伊角さん、強エや。でも今日はオレの方がイイ感じだったな!」
ヒカルが上機嫌で対戦表に結果を記す。
対戦の結果はヒカルの圧勝であった。
伊角や和谷らは言葉少なに碁盤を囲んで今のヒカルと伊角の一戦を振り返っていた。
特に伊角は所々でのヒカルの巧妙なサバきや足運びにただ驚き感心するしか
ないようだった。
「…進藤、そういえば最近芹澤先生のとこに行っているんだっけ?」
そう伊角に聞かれて少しだけ進藤は動揺した。
「え?あ、う、うん、ちょこっとだけ。最近は行ってないよ」
「そうか…何となく、芹澤先生の打ち方に似ているような気がしたんだが…」
「え…そ、そーかなア」
ヒカルは曖昧に答える。今日芹澤の自宅に一人で行った事は彼等にも言い辛かった。
「だとしたら、やはり塔矢アキラの影響が大きいのかな…」
伊角がその名を口にするとどうしても和谷が不機嫌になる。それでも和谷なりに最近は
塔矢の実力を素直に認めるようにはなってきていた。
悔しそうな表情を浮かべながらも、和谷は本田と共に伊角の言葉に頷く。
――進藤が、また更に強くなっている…いろんなものを吸収して……
それがその場に居合わせた三人の共通した認識だった。
「なあ、次誰が相手?オレもっと打ちてエ!」
いつになく興奮気味な気持ちを抑えられないようにヒカルは伊角らを見回すが、
彼等は既に戦意を消失していた。
「今日はもうお開きにしよう」
和谷が片づけにかかった。
(22)
「えーっ」とヒカルが不満げな声をあげると、
「塔矢に打ってもらえばいいだろう。っつーか、…多分塔矢じゃねえとオレ達じゃ
お前の相手にならねえよ、もう…」
と和谷がヤケ気味に答えた。
「…何だよ、つまんねーの!!お前ら、そんなだからダメダメなんだよ!」
思わずそう口走ってしまいヒカルは自分の口を押さえたが、もう遅かった。
明らかに白けたムードが彼等の表情に浮かんでいた。
気まずいと思う反面、ヒカルの中にも彼等に対する不満や物足りなさが
沸き上がっていた。それが口をついて出そうになる。
「…オレ、帰る…」
デイバッグを取ってヒカルはその部屋から出た。
玄関のドアが閉まった後、和谷らは互いに暫く無言で顔を見合わせていたが、伊角が
心配そうにドア方を見つめながら呟いた。
「進藤の奴…いつもと様子が違ったな…」
それには本田も頷いた。
「別人みたいだったな。打っている時の顔つきとかも、なんていうか――まるで何かに
取り憑かれてるみたいな……」
「まあ、昔からあいつって突然そうなる事あったけどね」
碁盤をしまいながらそう言った後で、和谷はふと何かを思い出すように顔を上げた。
「変わったと言えば、最近の芹澤先生も凄いって森下先生が言ってたな」
「あ、それはオレも聞いた。各リーグ戦で負け無しだってなあ」
「婚約されたって聞いたけど…でも誰もまだその相手の女性の事見ていないらしいね…
やっぱりそういうきっかけって、大きいのかな」
「人によるんじゃないかな…」
そんな会話をしながら三人は顔を見合わせ、誰からともなく溜め息をついた。
(23)
窓の外が足早に夕闇の色に染まるのを気にしながら、アキラは碁会所のいつもの
奥の席で一人で棋譜並べをしていた。
入り口のドアが開く度にそちらを見るのだが、期待した人物ではないとわかると
肩から力が抜けるように碁盤に視線を落とす、そんな繰り返しだった。
「珍しいわね、アキラくんが居るってわかっているはずなのに進藤くんが来ないなんて」
市河が気を利かせて熱い紅茶を運んで来てくれたのを、アキラはすまなそうに受け取る。
「…別に、約束しているわけじゃないから…」
ふいに激しい雨音がして雨粒が窓ガラスを叩き始めた。
「嫌な天気ねえ。これじゃあもう進藤くんも今日は来ないかもね…」
碁会所の中も普段に比べて人が少なかった。
「市河さん、ボク、そろそろ帰ります」
「えっ!?こんな大雨の中?」
「大丈夫ですよ」
傘を差して霧がかったような街の中に出る。
そうする事で昨日から何か頭の中にもやがかかったような記憶を引き出そうと思った。
だがアキラのそんな努力はその日は報われなかった。
その激しい雨音をヒカルは自宅の自分の部屋のベッドの上に横たわって聞いていた。
“塔矢に打ってもらえばいいだろう”
昨日和谷にそう言われたものの、結局ヒカルの足はアキラの碁会所には向かわなかった。
それよりももう一度芹澤の家に行って、対局の続きが打ちたくなる。
――そんな気持ちになる自分が信じられなくて、結局ヒカルはその日は自分の家から
出られなかった。
(24)
ヒカル本人が芹澤の家を出た後の自分自身に対する違和感を感じていた。
あんなに気分が悪かったのが急に力が全身に湧いて来て、怖いくらい思考が冴えた。
だが時間が経つにつれて今度は頭の芯が痛むようになり、今日は朝から凄まじい疲労感に
襲われている。
それだけではない。
「…んっ…」
今朝から何度となく無意識の内にヒカルはジャージのズボンの中の、下着の内側に
手を差し入れてしきりに自分自身を嬲っていた。
伊角との対局中から既に軽い興奮状態にあったのだが、家に着いた頃から
妙に体の内部が熱を含んだように火照り、下腹部が疼いていた。
「…ハア…ハア…」
そういう年頃でもあり、就寝時に適度に処理する事は今までもあったが、その時は
今まで経験した事がないほどに切ない感覚が次々と押し寄せ、ヒカルを悩ませた。
その熱は一晩ヒカルを責め立て、今も続いている。
「ンンッ…ん…んーっ…!!」
一度吐き出しただけではもの足りず、外部に刺激を与えるだけでは収まらず
自分では触れた事のないその奥の器官に指を差し入れ、内部を届く範囲まで弄る。
「ハアッ…あ…アアッ…ハアアッ!!」
――どうしちゃったンだ、オレ…今まで、こんな事まで…したことなかったのに…
体中から汗が吹き出し、ドクドクと続く長い絶頂間に身を任せる。
何か、もっと違うものを自分の体が激しく求めているのだが、ヒカルにはそれが何なのか
どうすればそれが得られるのかわからなかった。
――いったいどうなっちゃっているんだよオ、オレ…………!!
(25)
体の奥深くから熱を放出し切ると短い時間深い眠りに落ちる。
食欲がなく、夕食もそこそこにその夜は早々と再びベッドに潜り込んだ。
余熱のように体の何箇所かが軽く火照っていたが、気にかけるのも億劫で
着替えもせず風呂にも入らずそのままにしていた。
翌朝、ようやく得体の知れない衝動から開放されたようにいくらか落ち着き、
ベッドから起き上がったヒカルは浴室でシャワーを浴び、洗面台に向かう。
そして鏡に映った自分の顔をぼんやりと見ながら、独り言のように呟いた。
「…芹澤先生のところに行かなくちゃ…」
一週間振りの棋院会館での大手合いの日、アキラは廊下でヒカルの姿を探した。
結局あれ以来ヒカルは一度もアキラの居る碁会所に顔を出さなかった。
月曜日の芹澤の研究会に出れば、そこでヒカルに会えると思ったのだが、その時は
芹澤の都合で休みになると人伝えに知らされた。
越智とは時折越智の自宅で打ち合う事があったので、それとなくヒカルの事を尋ねてみると
院生時代の仲間らと集まっている研究会には普通に来ているという返事だった。
あまり詳しくヒカルの様子を聞こうとすると越智はヘソを曲げてしまうのだが、それでも
言葉を選んで聞き出したところによると、
「とにかく相手を捕まえてはやたらと碁を打ちたがっている」という事だった。しかも
どの対局もヒカルの圧勝でもう誰も同期ではヒカルに敵無しという勢いらしい。
熱意に溢れているのは問題ないのだが、それだけにアキラにはヒカルの自分を
避けるという行為に納得がいかなかった。
打ちたいなら何故ボクのところに来ないのだろう、そうアキラは不審に思った。
そこへひょっこりとヒカルが現われた。