吸魔2
(86)
姑くの間沈黙が流れてヒカルの口元から熱く溜め息が大きく一つ漏れた。
「…塔…矢ア…」
何かを訴えるようにヒカルがアキラの耳元で呼びかける。
「…塔矢ア…オレ…」
「…わかってる…ボクもだから…」
アキラがヒカルの手を取って、自分の胸の上に押し付ける。アキラの心音もまた激しく鳴っていた。
どちらともなく腕を伸ばして更に強く抱き締め合い、唇を深く重ね合い、奪い合うように互いを
吸い合った。
芹澤が残した副作用とも言える強い欲求だった。だがそれだけではなくて、ヒカルとアキラは
互いをどれほど“決して失いたくない相手”だと感じていたかを知った。
「…塔矢ア…………欲しい…」
そのヒカルの言葉に後押しされて、アキラは今身につけさせたたばかりのヒカルパジャマを剥ぎ、
自分もも夜着を脱ぎ払ってヒカルの体に自分の体を重ね、衝動のままにヒカルの体内に自分を収めた。
すでにそこは熱く柔らかに脈打ちアキラ自身を滑らかに迎え入れた。
「ハアッ…!塔矢……、塔矢ア…、と…おやア…」
直接肌に触れ、ヒカルは、自分の中に在る存在を求め何度も確かめるように名を呼んだ。
「ハあっ…、うあっ…、とオやア…、とオ…や…ア…あ…」
鼻にかかった、どこまでも甘く香るように響くそのヒカルの声にアキラは目眩すら覚えた。
アキラもヒカルの中に残る悪夢を焼き付くそうとするように深く何度もヒカルの体内に自分を放った。
芹澤から吸い取ったもの全てをヒカルに注ぎ込むように――。
そうしながらアキラは、あれほどまでに芹澤がヒカルに執着したのを理解した。
今だ悪夢の名残りで幻覚作用から抜け切らないヒカルの痴態を前にして、
心の奥そこにある欲望をえぐり出されぬ者など、いない。そう確信できた。
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自分とヒカル、芹澤とヒカル、果たしてどちらが――
「…どちらが、魔物に近いのかな…」
アキラはポツリと呟く。
「え?なアに…?」
「何でもない。…ただ…」
「…ただ…?」
「…君のこんな表情をあの芹澤が先に見たのかと思うと、嫉妬で頭がどうにかなりそうになる…」
「…バカか…、そういう事言うと、噛むぞ」
ヒカルが淡く汗ばんだ腕をアキラの首に巻き付け、その首に強く歯を立てた。
アキラもまた反撃するようにヒカルを押さえ付けて首筋から胸にかけて柔らかな部分を噛んだ。
薄く濃く残る芹澤の痕跡を辿り、その一つ一つに重ねて新たに自分の烙印を焼きつけていった。
まだ新しい傷痕から滲み出るヒカルの血を啜った。
「痛…てエよっ、オレそんなに強くやってねえじゃん…っ」
言葉ではそう言いながら、ヒカルはアキラに向けて一層無防備に体を開き、下肢を突き上げる。
アキラは体の位置を下げてヒカルが最も望む場所からヒカルを吸った。
悲鳴のような声をあげてヒカルが身を震わせた。
このヒカルという存在を独占する為なら自分こそどこまでも冷酷な魔族にも悪魔にもなれると
アキラは思った。
塔矢邸を含む一帯を見渡せる山の手の高台の道路脇に女は車を停めていた。
「恐ろしい子…」
ダッシュボードから新たに煙草の箱を取り出し、封を切って一本口に銜え火を点ける。
「おそらくこれからも私の仲間が“あの子”に引き寄せられるわ…そして“あの子”の傍に居る
“彼”に魔力を吸い取られる…その繰り返しね。そして“あの子”は“吸魔”から力を得てさらに
魔を引き寄せる…ある意味、“吸魔”より性質が悪いわ。……まったく彼等2人は私達にとって
厄介な存在ね」
(88)
次の日の朝こそヒカルは布団の中から動けずアキラの家で過ごしたが、半日もすると
ウソのように体力も気力も回復し、その夜には普段通りに食事をしたりアキラと碁を
打ち合えるようにもなった。
そして日常に戻り、最初の数日のうちは碁会所で会った後もアキラと一緒に過ごす事が多かった。
まだ消えない恐怖と不安をその不安を打ち消そうとするように、碁会所や棋院の帰り道で、
アキラの自宅で、何かに追い立てられるように唇と体を重ね合った。
「いつか、…今回の件に関して全ての記憶をなくしちゃうのって、本当なのかな」
布団の中のアキラの隣で、ぽつりとヒカルは呟いた。
「…多分ね」
「オレ…忘れたくない…」
「進藤?」
「芹澤の件を忘れたら…、塔矢との事も忘れてしまうんだろ?それは…嫌だ」
実際、芹澤はその後病気を理由に長期休養とリーグ戦の一時辞退を棋院に申し入れていた。
見舞いに行った芦原の話では、芹澤はげっそり痩せて一気に老け込んで、復帰には
時間がかかりそうな様子だったという。
「ただ、妙な事にここ2〜3ヶ月くらいの間の記憶をごっそり無くしているらしくて…、芹澤先生、
いったいどんな病気したんだろう」
と芦原はしきりに首を傾げていた。
婚約も解消され、同居していたはずの婚約者の女性も芹澤の元から去ったという。
「ボクも忘れたくはない…。ボクは絶対に忘れない…」
「約束な、塔矢」
その想いをつなぎ止めようとするように2人は何度も唇を重ねた。
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それでも数回、夜中に時折隣で悪夢にうなされるように苦し気にヒカルが呻く声を
アキラは耳にしていた。
「やだ……もう…吸わないで…いや…だ…」
慌てて揺り起こしても姑くは汗だくの全身を強張らせ目尻に涙を滲ませるヒカルを、アキラはただ
優しく抱き締めてやることしか出来なかった。
日々が過ぎるにつれて、ようやくパズルのワンピースが一つずつ消えていくように、
ヒカルの記憶は霧が掛かったようにぼやけ、悪夢に襲われる機会も減っていったようだった。
と同時にヒカルがアキラと2人で会おうとする事もその名を甘く呼ぶ事もなくなっていった。
それに対してアキラは何も言わなかった。
「雨になりそうだな…」
電車のデッキの窓から暗い色の空を見上げながらアキラが呟いた。
「えー、オレ、傘持ってないや」
アキラの横からヒカルも窓の外を覗き込み空を見上げる。
「うちの碁会所で借りられるよ」
いつものようにアキラの父が経営する駅前の碁会所に、ヒカルとアキラは
連れ立ってやって来た。
足を踏み入れた時、アキラは店の奥まった席に黒服に身を包んだ背の高い男がこちらに
背を向けて座っているのに気付き、息を飲んだ。
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思わずアキラはヒカルを自分の背中に押しやり、その相手に立ち向かうように仁王立ちになった。
「あれっ、緒方先生じゃん。すごい久しぶりじゃないか?」
背後でヒカルがそう言い、アキラは改めて相手を見た。
「よお」
こちらに気が付いて、緒方が振り返った。
いつになく黒いスーツの上下を着て、幾分髪も整髪料も多めに整えた緒方だった。
「緒方先生、お葬式か何か…?」
警戒気味な口調でアキラは尋ねた。
「ああ、学生時代の恩師に不幸があってな…なんだ?アキラくん、恐い顔して」
「…いえ」
格好だけを除いて、いつもの緒方だった。直感としか言えないがアキラにはわかった。
「ヘヘえ、なんだか緒方先生じゃないみたいだ」
ヒカルがニコニコしながらアキラの背後から出て緒方の傍に近寄っていく。
思わずアキラはそのヒカルの腕を掴んでしまった。
緒方や、近くに居た市河らも怪訝そうにアキラを見る。
「どうしたっていうんだよ、塔矢」
ヒカルはキョトンとして振り返り、アキラを見つめ、そして笑んだ。
その瞳にはかつて闇のものの影に怯えた翳りは欠片もなかった。
「…何でもない」
アキラは淋し気に微笑んで、ヒカルの腕を離した。
(終わり)