吸魔2
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そしてヒカルとアキラがこちらを見ている視線に気がつくと、急に怯えたように
「ヒッ」と叫んで両手で体を抱えた。
「…や、やめてくれ…オレが悪かった…もういい…もう…勘弁してくれエエ…」
ヒカルはごくリと息を飲むと、その芹澤と、芹澤を睨み付けているアキラを交互に見遣った。
「…何があったの?塔矢…」
ヒカルは恐る恐る尋ねた。
「ボクの方が彼より“吸い取る力”が強かった、それだけだよ」
アキラはそうとしか答えなかった。そして軽くヒカルの額にキスをして今一度ヒカルの躰を
強く抱き締めた。
「とにかく、早くここから逃げよう」
2人の衣服は部屋の隅のワゴンに畳まれて置かれていた。
まだ上手く体が動かせないヒカルにアキラが服を着させて、肩を抱きかかえるようにして
廊下に出た。
てっきり芹澤の自宅だと思っていたそこは、薄暗い廊下が続くかなり大きな洋館だった。
窓はなく、突き当たりに上に向かう階段があった。
アキラとヒカルは一瞬互いを見てどうしようか迷ったが、とりあえず登って見る事にした。
そして階上に上がった2人は、そこに人の気配を感じて息を顰めた。
黒い服に身を包んだ、長いウェ−ヴのかかった黒髪の背の高い女が1人、玄関に向かう
廊下の途中に立っていたのだ。
薄暗い廊下に立つその女性は年令はわからないが若々しく、美しい人だった。
ただ無言で笑みを浮かべ、アキラとヒカル2人をしげしげと観察するように見つめている。
芹澤とは比べ物にならないくらい、体温を感じさせないは虫類のような無機質な瞳だった。
ヒカルは背筋が凍るようなゾッとした冷気を感じて震え上がり、そんなヒカルを背後に
囲うようにしてアキラは女を睨み返した。
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「…芹澤の仲間か?」
そうアキラが問うと、女は可笑しそうに声を立てて笑った。
「やめてよね、まあ、彼を仲間に引き込もうとしたのは確かだけど、“吸魔”に
手を出そうなんて愚かな事を考える奴には用はないわ。もう少し“使える”男だと
思ってたんだけどねエ…」
「この女の人も、き、きゅ、吸血…」
ヒカルが叫びそうになって、アキラがそのヒカルの口を手で押さえた。
そして周囲に何か武器になりそうな物がないか視線で探った。
透き通るように色が白い頬と対照的な紅い口紅のその女はにっこりと微笑んだ。
「やあね、そんなに怖い顔しないで、私はあなた達に何もしないわ。年下は好みじゃ
ないの。…まあ、芹澤は元々あなた達に並々ならぬ興味を持っていたようだけど」
そして女は黒服のポケットから車のキーを取り出し顎で先を差した。
「いらっしゃい、街まで送ってあげるから」
そうして女はスタスタと先を歩き出した。
「…取りあえず、今は彼女の言葉を信じるしかない…」
そう判断したアキラの上着の背中を、ヒカルがギュッと握りしめる。
アキラが振り返って、不安そうなヒカルに微笑んで声をかけた。
「大丈夫…、ボクが絶対進藤を守る」
古い造りのドアを開いて外へ出てみると、既に暗闇だった。敢えてそうしてあるのか
広い庭らしき場所に街灯もなにもなく、暗くて外観もわからないが森のような木々に
囲まれた屋敷のようだった。
その直ぐ前方に芹澤の黒い高級国産車が、その隣に青いスポーツカーが一台停めてあった。
女に促されてアキラとヒカルは周囲を用心深く伺い他に人が居ないか確認しながら
身を寄せ合い、スポーツカーの後部座席に座った。
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「どこまで送ればいいかしら」
と問われ、すぐさま
「ボクの家まで」
とアキラが答えた。
車が走り出し、アキラは周辺の様子から場所を特定しようとしたが、私有地の山の中らしく
標識のない細い道路が続くだけだった。
後部座席で、ヒカルはただ黙ってアキラの肩に頭を乗せ、全てを預けるようにしていた。
走り出してすぐに何度となく吐き気に襲われ、それに必死に耐えていた。
「そちらの坊や、ずいぶん具合が悪そうね。でも大丈夫、時間が経てば肉体的にも精神的にも
回復するから。すべて消えるわ…」
「…あなた達に関する記憶をなくすという事ですか?」
アキラが聞き返す。
「そう言う事。あなたは経験者だったわね。たぶん、私達の仲間はもう二度とあなた達には
近付かないわ。多分ね」
「芹澤先生はどうなるんですか?」
「彼もしばらくしたら元に戻るでしょう、何もかも忘れて…。でも残念だわ、本当に彼には
長い時間をかけて、少しずつ支配していったのに…でも、あなた達からちょっと強い“力”を
もらい過ぎて、彼の中の心の闇の部分が暴走しちゃったみたいね…。普段私達はもっと控えめに
選び抜いた人間から少しずつ血を吸い取るだけ…」
「どうしてもそうしないと生きていけないんですか?」
「残念ながらね。でもその為の仲間は選ぶわ。手当りしだいに人間を襲っても自滅するだけだもの」
ヒカルはぼんやりと、この得体の知れない者とアキラが普通に会話を交わすのを不思議な
感覚で聞いていた。やがて対向車のライトが窓の外を横切るようになり、車は街の中に出た。
アキラの家の近くの大通りで2人は車から降りた。
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ほとんどまだヒカルは足腰に力が入らないようだった。そのヒカルの肩を抱きかかえて
近隣の住人に見つからないよう用心しながらアキラは家の中に入った。
そんな2人の様子を車の中から見守るようにしていた女は、しばらくして意味ありげに
目を閉じて大きく溜め息をつくと車を発進させた。
アキラの家からヒカルはどうにか自宅に電話を入れ、碁の研究会の続きをしていたとなんとか
言い繕ってその夜はアキラの家に泊まる事になった。アキラの両親は留守だったし、
アキラにそうするよう指示されたからだった。
「傷を見なくちゃ…」
アキラはヒカルを浴室に連れていって、服を脱がせ、自分も裸になってヒカルの体を洗った。
「塔矢は…疲れていないの?」
あれだけの目に合いながら、自分とは違っていつものように、いや、それ以上にきびきびと
動くアキラをヒカルは不思議に思った。
「まあね…」
その時はアキラは言葉を濁した。
「それより、進藤、向こうむいて…」
シャワーでアキラは丁寧にヒカルの背中を流した。そうされながらヒカルは自分の体を見た。
多くの紅い刻印が痛々しく残されている。それらはアキラの方がずっと多かった。もちろん、
お互いそれ以外にも擦り傷や打撲の痕もあちこちにあった。
芹澤にされた行為が蘇って一瞬ヒカルはゾクリと体を震わせた。
「…ひでえ姿だよな、オレたち…」
ヒカルがそう呟いて無理に笑おうとしたが、すぐに俯いて、唇を噛み締めた。
「…オレも芹澤先生と同じだ…。碁が強くなりたい、塔矢を出し抜いてやりたいって、そればっか
考えていて…強くなれるんなら何してもいいって気持ちがどっかにあったんだ。だからあんなふうに
芹澤につけ込まれていったんだ…」
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ようやく悪夢から解放されたという実感が湧いて来たと同時に張り詰めて居た精神が弛んだかのように
ヒカルの唇から後悔の言葉と低く小さな嗚咽が漏れ、何粒もの涙が頬を流れ落ちた。
アキラは黙ったままバスタオルを取り、ヒカルの身体を包んだ。
「プロ棋士なら誰だってそうだよ。ボクだってそうだ」
風呂場から出ると、疲れきっているヒカルのためにアキラが自分の部屋に布団を二つ並べて敷き、
自分のパジャマを着せて、横にならせた。何か食べるか尋ねたがヒカルは首を横に振るだけだった。
電気を消すと直ぐにヒカルがアキラの手を強く握り、アキラの体に自分の体をすり寄せて来た。
「…塔矢、…あのさ」
「ん?」
「…お前、あいつらが怖くないのか?」
「怖いよ。でも、言いなりになるのは嫌だった。…絶対に。許せなかった。進藤をあんな目に
あわせる奴が…」
「コワイもの知らずな奴なんだな…まるであいつらの仲間みたいに会話とかしているし…」
「ボクの事が怖い?」
ヒカルは首を横に振って、ますますアキラの肩と首の間に顔を埋ずめた。
「んなわけねーだろ…塔矢のおかげで助かったんだし…」
そう応えながら、ヒカルはほおっと大きく溜め息をついた。
「助けてくれて…ありがとオ…塔矢…」
そのヒカルの頭をアキラは抱えるように抱いて、優しく髪を梳いた。
アキラは、腕に接しているヒカルの胸がドクドクと激しく心音を響かせているのを感じた。
ヒカルの熱い吐息が強く首元に降り掛かる。
それまで耐えて居たものが押さえ切れぬようにアキラはヒカルの方に体を向けると、
力一杯ヒカルの躰を抱き締めた。