幻惑されて〜Dazed & Confused
CHAPTER Dazed 1
(1)
ぼくの名は岡。弱冠二十歳とちょっと越えたプロ棋士で三段。院生だった小学生時代、最初は漠然としたプロになりたいって気持ちがあるだけで、むしろ、院生の中で勝ったり負けたりとか、自分の順位が何位とか、そういうことに気を取られてたと思う。でも、ある日を境にぼくははっきりとプロになりたいって思った。
忘れもしない、北斗杯で塔矢先生が怒涛の闘いを繰り広げ、そしてその直後の若獅子戦で進藤さんと打ったときから。
――そして、ぼくは今、ここにいる。
ぼくを変えた運命の二人が向かい合う王座戦の第一局で。
ぼくは唖然としながら棋譜に目を落とした。王座戦の第一局、序盤から塔矢先生は勇み足なのではないかと思うほど深いところに次々切りこんでいき、それに気押されたのかいつもは華麗な立ち回りを見せている進藤さんがひたすら固い守りに入っている。
「――進藤棋聖、残り時間20分です。」
秒読みの女性の声が緊張の張りつめた室内にうすぼんやりと響いた。
この記録係の仕事はホント、偶然に偶然が重なってまわってきた。ぼくが秒読みや記録を取るのは得意だったからかもしれない。
激しい応戦になって間髪入れずお互い打ち合っていても、それをジッと見て正確に記録をつけていけたし、ぼくの記録は見やすいと評判だった。師匠の芹澤先生は「岡くんは記録取りよりも昇段のほうがんばってほしいなァ」などと笑ったが、目の前で若きタイトルホルダー二人の熱戦が見られるいい機会かもしれないと言った。
進藤さんが防衛すれば三連覇、塔矢先生が奪取すれば新王座の誕生となり、ぼくは密かに興奮していた。
ぼくは今までに一度ずつ、二人と打ったことがある。ぼくが院生だった頃の若獅子戦、一回戦の相手が進藤さんだった。塔矢先生とは、その五年後、ぼくがプロデビューする直前、新初段シリーズで打っている。どちらも完敗だった。
ぼくと5つしか違わないのに、二人とも物凄いオーラを放ち、まったく予想もしないところから魔法のように打ってきて、ぼくはパニックに陥った。
新初段シリーズでボロ負けしたのち、茫然とするぼくに塔矢先生が二コリと笑って「キミの打ち筋って時々、進藤みたいにドキッとするものあるんだよね。」と言ってくれた。
ぼくは院生時代から憧れていた人になぞらえて言われたことも勿論、嬉しかったけど、塔矢先生に笑いかけてもらったことでぼくは舞い上がっていた。塔矢先生はその時、紺色の着物に灰色の袴を着ていて、それで髪はトレードマークのおかっぱ頭で、まるで日本人形みたいだった。塔矢先生は一見すると冷たそうだし、あまりしゃべらないけど実は凄く気を使う人で優しい。それにぼおっとするほどキレイだと思う。男と女が同居しているみたいなところがあって、男らしくて凛々しく感じることもあれば、絶世の美女みたいに感じることもある、不思議な人だと思う。――実を言うと、塔矢先生は男だというのにぼくの初恋みたいなものだった。こんなことは口が裂けても仲のいい庄司には言えない。その庄司はデビュー後、体調のすぐれないままの成澤先生から森下先生が引き受けて、森下門下になった。それで同門の進藤さんともときどき対局しているらしい。ぼくはちょっとそれが羨ましかったけど、院生時代からの師匠である芹澤先生の研究会に時々、進藤さんと塔矢先生が来る。雲の上のような二人がぼくの打った一局を検討してくれたときは本当にドキドキした。
進藤さんは気さくな兄貴分って感じで、よくしゃべる。塔矢先生とは正反対だ。兄弟子の和谷さんや、若手研究会つながりの伊角さんから時々飲み会に誘われるけど、そういう場に来るときの進藤さんはたかが三段のぼくにもちっともエラソーじゃなくて、むしろ、年上の伊角さんや和谷さんのパシリみたいにあれこれ注文をまとめたり、酒を作ったりしてる。おまけに『今度は塔矢も一緒にウチで飲み会やろう』とか言って、あとで伊角さんに聞いたら、塔矢先生と進藤さんはもう何年も同居しているらしかった。結局、二人は棋戦に追われたまま飲み会の話は立ち消えになり――ぼくは男二人で何年も同居しているってなんだか不思議な気がしたけれども、その時はそれぐらい仲がいいのだと解釈していた。
(2)
けれど、そのしばらく後に偶然、渋谷のコーヒーショップで二人を見かけたとき、ぼくは二人が恋人同士なんだと悟った。
ガラス張りのコーヒーショップの窓際に塔矢先生が座っていて、まぶしいぐらいの光を浴びながらやさしく笑っているのを見た。笑っているというよりも、うっとりとしていて物凄く可愛かった。ぼくはその溶けるような表情にドキドキした。その向かいにいるのは進藤さんで、二人はぼくが遠くからジッと見ているのに気付かないまま、こっそりとテーブルの下で手を握った。それから、席を立ってどこかへ消えてしまった。
ぼくは二人が男同士なのに恋人だということにあまりびっくりしなかった。着ているものから言葉遣いや態度までまるで正反対なのに、二人はこれ以上ないというほど似合っていた。そして、いつもは物静かでどこか冷たい感じのする塔矢先生が進藤さんと一緒にいるときだけは夢見るような表情で笑うのがなぜか嬉しかった。
でも、塔矢先生が王座の挑戦権を勝ち取った直後、ぼくは偶然、不穏な話を聞いてしまった。七段の伊角さんが中心になってやっている研究会に参加しようとして、いつもより早く棋院に着いてしまったぼくは休憩所で缶コーヒーでも飲んでみんなを待とうと思ったが、やはり先に部屋に入って待つことにした。
研究会の行われる部屋に入ろうとして、ぼくは上り口に靴がすでに二つあるのに気付いた。そして、わずかに開いたドアから和谷さんの大きな声が聞こえた。
「あーーーーっ!進藤も何考えてんだかさっぱわかんねぇ!今更、塔矢と別れたってなんだソレ!?」
ぼくはドアの取っ手にかけた手をいったんひっこめた。伊角さんがシーッと和谷を制する声がして、ぼくは耳を澄まして伊角さんが低くぼそぼそと話す声を拾うことに専念した。
「いや、それが別れたわけでもないらしいんだよ。何があったか知らないが、塔矢くんが進藤のところを出て、冷却期間を置くとかなんとか――彼らのことだから、棋戦に影響はしてないとは思うけど…でも、進藤は落ち込んでいるし…またプロやめるとか言いだしやしないか俺は気がかりだな。」
「ああ、そんなんあったなぁ。さすがにそれはないんじゃねえの?だって、今は棋聖だぜ。ガキじゃあんめーし。」
「そうだな。和谷は何か進藤に聞いてないのか?」
「聞いてねーよ!だいたい進藤が塔矢との仲をオレに話すわけねーじゃん。オレ、塔矢苦手だし。まあ、アレじゃね?塔矢の性格の悪さに進藤も愛想つかしたってところなんじゃねーの?」
「塔矢くんは勝負に厳しいだけで、そう性格悪くもないぞ?むしろ、礼儀正しくて気配りもできるし…オレなんか子供みたいな進藤を塔矢くんが支えてるって感じに思ってたけどな。」
二人が沈黙したところで、ぼくはわざと大仰に失礼しまーす、と言ってドアを開け放ち、その話はそれきりになった。
それから二か月後、パチパチと碁石の乾いた音しかしない中、ぼくは冷静に記録を取り続けていたが、あまりに予想外の展開に戸惑っていた。中盤から徐々に塔矢先生の一方的な展開になっていき、結果は進藤さんの中押し負けとなった。
芹沢先生の研究会でも、二人のこんな様子は見たことがなかった。進藤さんと塔矢先生はヨセに入ってもギリギリの攻防をすることも少なくなかったし、劣勢でも進藤さんはそう簡単に投了はしないと思っていた。でも、この日の進藤さんはまるで闘いを避けるかのようにあちこちで妥協し、らしくなく地にこだわりすぎて完璧に自滅していた。
天元挑戦者決定戦で見せたような、負けはしたものの底力のある闘いとはまるで別人だった。
すぐ目の前にいる塔矢先生をちらと窺うと、塔矢先生は紙のように真っ白な顔色をして俯いていた。その向かいで進藤さんは鋭い目つきで盤上を凝視していた。
検討がはじまり、塔矢先生の顔色はますます白く血の気が失せていった。それに気付いた進藤さんが心配そうに塔矢先生を見詰め、「今日は――検討はこれぐらいでいいでしょうか?」と言い、早々に席を立った。
記者たちや見学の棋士たちがぞろぞろと外に出て行き、塔矢先生も立ち上がろうとしたが、袴をつけた立ち姿がぐらりと揺れ、ぼくはあわてて塔矢先生のところへ駆け寄った。
「だ…大丈夫ですか、先生。」
(3)
塔矢先生は片膝を畳についたまま、ハァハァと細かく息をしていた。わずかに残っていたカメラクルーや棋士たちが騒然となったが、塔矢先生は無理に微笑を浮かべた。
「ちょっと眩暈がしただけですから。ご心配をおかけいたしました。」
だが、塔矢先生はちらりと僕の顔を見て、小声で囁いた。
「――岡くん…だったよね?済まないが、ボクのすぐ前を歩いて控え室まで行ってくれないか?視界がぼやけて前がよく見えないんだ。」
ぼくは塔矢先生の言いたいことを瞬時に察知した。他の人たちや記者たちに気取られたくないのだろう。ぼくははい、と頷いてできるだけゆっくり、先生の前を歩いていった。
控え室のドアがしまるやいなや、塔矢先生の身体が前のめりに倒れこんだ。
「せ、先生!」
ぼくはあわてて先生を抱きとめた。先生のまっすぐな髪がぼくの頬をかすめ、小刻みな呼吸がぼくの肩にかかった。
抱きとめた身体は異常なほど熱を持っていて、額にも頬にも脂汗が流れている。
「すごい熱じゃないですか――えっと…誰か呼ばないと…」
「イヤ、駄目だ。」
うろたえるぼくに先生はピシャリと言い、ぼくはとりあえず、傍らにある小さなソファまで先生を抱きかかえるようにしておろし、ミネラルウォーターのボトルを差し出す。
「塔矢先生…本当に誰も呼ばなくていいんですか…?」
目は赤っぽく潤んでいて、ぼくはたちの悪い風邪か何かだと直感した。だが、塔矢先生はそれには答えず、ぼくに小さな声で言った。
「キミにこんなことを頼むのも筋違いだけど…ボクを家まで送ってくれないか?棋院の近くなんだ。」
「は…はい!」
「誰かに聞かれたら、ちょっと貧血起こしたとか言っておいて。」
控え室の外でなにやらざわざわしていて、そっとドアをうすく開けると、天野さんや芹澤先生もいて、心配顔でぼくを見た。ぼくは塔矢先生に言われたとおり、気を張り詰め過ぎてちょっと疲れたのだとかなんとか、適当なことを言い繕った。
それから、もう一度ドアを開けて誰もいないのを確認すると、塔矢先生を支えながらエレベーターでロビーに降り、第一局が行われたホテルの前からタクシーに乗って三番町にあるという塔矢先生の自宅へと向かった。
タクシーの中で、塔矢先生はじっと目を閉じていて、どうやらウトウトしているらしかった。唇から血の気が完全に引いていて、額にはじっとりと汗をかいていた。
ぼくはタクシーが半蔵門通りから旧・日テレ通りに入ったところで塔矢先生に声をかけてみた。先生はうっすらと目を開けると、方向を指し示した。
車が止まった先はレンガ色のマンションで、そこの六階を押すとぼくは先生から預かった鍵を取りだした。ドアに鍵を差し込んで開くと、短い廊下の先に居間らしきものが見えた。
支えるようにしてそこまで行った。居間には小さな丸テーブルと一人がけのソファが二つあるだけで、そこと引き戸だけでつながっている隣の部屋にセミダブルのベッドがあった。
「服――脱がなくちゃな…。」
「あ、ぼく手伝いましょうか?」
「そう…じゃあ、お行儀悪いけれど脱ぎ散らかしたものをどこかにかけておいてくれないか。」
ぼくは先生の着ていた紺色の羽織を脱がせた。
先生は袴の両脇に手を入れて腰のあたりをさぐっていた。パラパラと袴が音を立てて足元に落ちた。
ついで角帯に手をかける。ぼくはなんとなくどきどきして、その姿から目を逸らした。
鮮やかな色の裏地を見せてからげてある単から、グレーの長襦袢の裾が見えた。帯を解いてしまえばかなり身体が楽になるはずだし、あとは襦袢の紐をゆるめてやればいい。
「あの…パジャマとかどこですか?」
「ベッドの下に浴衣が入ってるから、それでいいよ」
煩わしい和服から解放されたせいか、塔矢先生はほうと息をついてベッドの上に座った。ぼくはベッドの下の引き出しをあけると、一番上にあったガーゼ地の寝巻を出して塔矢先生に手渡した。
(4)
すると、塔矢先生が襦袢を解き、白くて細い脚が剥き出しになった。ふつうは襦袢の下にステテコみたいなものを履くんだけど、ぼくが襦袢だと思っていたのは男用の腰巻で、だから先生はあっというまに下着一枚になっていった。ぼくはどこに視点を合わせていいのかわからなくて、足元にある袴や単を必死でかき集めた。
「これ、畳んでおきますから…。」
「…できる?」
ぼくは手際よくかき集めた和服を床の上に伸した。
「ぼくの実家って、呉服屋なんですよ。」
「そうなんだ――じゃ、ちょっと寝るから…キミも帰っていいよ。どうもありがとう。」
ぼくははっとして床の上の袴から顔をあげた。
「だ、だめですよ!あの…お医者さん呼びましょうか?近所のお医者さんとか・・薬も買ってきますから…何か食べたいものとか飲みたいものも…。」
そうは言ったものの、塔矢先生からは返事もなくて、白いまぶたを閉じてスースーと呼吸していた。
たぶん、意識が朦朧としているんだろう。額に触れるとものすごく熱くて、ぼくは先生から預かった鍵をにぎりしめると急いでドアを出た。
外に出てみたものの、ぼくはこの辺に何があるかなんてあまり思いつかなかった。たしかに棋院にはものすごく近いけど、棋院前の坂を登り切った公園から先なんて、あまり行ったことがなかった。仕方がないのでとにかく大通りに出て薬局を探し、薬剤師に聞いて解熱作用のある風邪薬を買った。次はコンビニにでも行って何か胃の中に入れるものを買ってこよう。
――でも、ぼくは塔矢先生が何を食べたいのかなんて皆目見当がつかない。ぼくはちょっと立ち止まって、スーツのポケットから携帯を取り出した。
塔矢先生は誰にも言うなと言ったけれども、さすがにそうもいかない。伊角さんに相談すればぼくよりも適任の人を教えてくれるかもしれない。伊角さんに電話してみる。
だが、伊角さんはどこか携帯の繋がらないところにいるらしく、無味乾燥なメッセージが延々と流れた。
――どうしよう。
ぼくはアドレス帳を次々と見て行った。そして、コンビニに入ると一番仲のいいライバル、庄司に電話をかけた。
「もしもしぃ?」
庄司の間延びした声が聞こえた。
「――岡だけど。」
「あー!王座の第一局、終わったんだよな?オレ、いままで指導碁でさぁ。進藤さんが中押し負けしたって?」
ぼくは早口で次々しゃべりだす庄司を遮った。
「その話はまたあとで…あ、あのさ、庄司さ、進藤さんの電話番号なんて知ってる?」
「あー知ってるよお!なんで?」
「い、いや理由はいま説明してる暇ないんだ!至急、進藤さんと連絡取りたいんだよ!あっ…えっ…えーと、ぼく今書くものないから、メールで送るか、進藤さんにぼくの番号伝えておいてくれる?」
「え…ウンいいけど…。で、なんでおまえが進藤さんと?」
ぼくは一瞬、庄司に話そうかどうしようか迷った。でも、ここは話して緊急性の高さをわかってもらうほうがいいと思った。
「――庄司さ、あの…これ、誰にも言わないで欲しいんだけど…約束してくれるか?」
「なんだよ。いいよ、約束するよ。」
庄司は苛々したように答えた。ぼくは誰が聞いているわけでもないのに、コンビニの中、腕に青い買い物カゴの取っ手をひっかけ、声をひそめた。
「塔矢先生が対局直後に倒れたんだ。で、ぼくが部屋の鍵預かってるんだけど、もーどうしたらいいかわかんなくって…。進藤さんならなんとかなるかなって・…。」
「え?マジで?…わかった、すぐ言っとくから。」
ガチャリと電話が切れ、ぼくは飲み物が入っているガラス張りの冷蔵庫を開けた。まずは飲み物。ポカリスエットを薄めたものが風邪にはいいとか聞いたことがあるから、ポカリスエットの1.5リットルボトル。それから、果物。ぼくならプリンが食べたくなるところだけど、塔矢先生がプリン食べてるのなんて想像つかないから却下。ほかにサラダとかもあったほうがいいかもしれないって思って、どのサラダがいいか悩んだところで、手に持ってる携帯が勢いよく鳴った。
(5)
「もしもし、岡です。」
「あ、岡?オレ、進藤だけど。」
すごく早い。ぼくはすこしほっとしてサラダのあるところからちょっと離れた。
「塔矢が倒れたんだってな?」
「は、ハイ――。とりあえず、自宅まで送って、風邪薬買って戻るところで…。」
「先生とか塔矢のオフクロさんはいねーの?」
「は…?先生って…」
「塔矢行洋先生だよ!塔矢のオヤジ!アイツ、実家にいるんだろ?」
ぼくは何を言われているのかよくわからなかった。行洋先生のことはもちろん知っているけど、あの1LDK程度の部屋に家族がいるとは到底思えなかった。
「い、いえ…棋院近くのマンション…ですけど…。」
「棋院近くのマンションだぁ?聞いてねーよそんなん!」
進藤さんは高い声でぼくに問い詰めた。
「え…知らなかったんですか、進藤さん…塔矢先生は誰にも知らせるなって言ったんだけど、なんか熱出てるし…だから、今、薬と飲み物買って塔矢先生んちに戻ろうかと…。」
ぼくが言い終わらないうちに進藤さんはきつい声で言った。
「バカかよアイツ!なんで誰にも知らせねーんだよ!…わかった、すぐ行く。――あ、食い物とかあんの?」
ぼくは冷蔵庫の中は確認しなかったからよく知らない。でも、リビングから見える台所は閑散としていて、どっかのモデルルームみたいで、使った形跡なんてあんまりなかった。
「たぶん…あんまりないんじゃないかと…ぼく、今コンビニで飲み物とか果物は買っていくつもりなんですけど。」
「わかった。わりーんだけどさ、岡、2時間ぐらい塔矢んちにいれる?」
ぼくは即座にはいと答え、進藤さんは礼を言ってあわただしく電話を切った。
結局、飲み物と果物、それから雑誌コーナーで新聞と週刊誌を買って、ぼくは塔矢先生の自宅に戻った。
そうっとドアを開け、足音を忍ばせていくと、塔矢先生はベッドで仰向けになってすぅすぅ寝息を立てていた。さっきより、少しだけ顔色がよくなっている気がした。それでも、額には玉の汗が浮き出ていて、黒髪も汗でよれている。
「塔矢先生?なんか飲みますか?」
そう呼びかけてみたけどやっぱり返事はなくて、ぼくはとりあえず買ってきたものを冷蔵庫に入れたり、ソファのところのテーブルに置いたりしながら塔矢先生をちらちら窺った。
薬を飲ませたほうがいい気がしたけど、わざわざ起こして飲ませるのも不憫で、だからぼくはコンビニで自分用に買った烏龍茶を飲みながら、ソファの上で雑誌をぱらぱらめくっていた。
どうして塔矢先生はあまり親しくもないぼくに自宅まで送るよう頼んできたんだろうって思った。先生から見たらぼくなんてたかが三段のペーペーで、同じ門下でもなければ研究会で特別親しいわけでもない。
成り行きっていうものだとは思うけど、でも、そうだとしたらぼくはすごくラッキーだって気がした。
なにしろ、憧れの――そして初恋の人が同じ部屋にいるんだから。ぼくは倒れた塔矢先生には申し訳ないけど、その寝顔がとてもかわいくて、今それをぼくは一人で見ているっていうコトに幸せとときめきを感じてた。
「ん…。」
塔矢先生が呻いて寝がえりを打った。きれいな顔がぼくの真正面に向いて、髪が頬に貼り付いてた。ぼくは布団を掛け直した方がいいかもしれないってベッドまで行った。
塔矢先生は真っ赤な唇を開き加減にして息苦しそうにしていた。頬もものすごく熱いみたいで赤い糸みたいな血管がたくさん浮き出ていた。
「先生――なんか飲みますか?」
塔矢先生は一瞬、虚ろな目を少しだけ開いて、小さく頷いた。ぼくはあわてて冷蔵庫からポカリスエットを出してそのへんにあったコップにつぐと、ベッドに戻った。
先生は布団の中でもぞもぞしていたが、ぼくが背中に手をまわして抱き起こすと、ぼくの肩に体重を預けてきた。
「どうぞ。」
コップを差し出すと、朦朧とした目のまま、コップを受け取り飲み始める。白い喉仏が動いて、そこでぼくはやっぱり塔矢先生って男だったんだ、とかバカみたいなことを考えていた。ガーゼの浴衣はすでにべたべたと湿気を帯びていた。
「塔矢先生、着替えますか?――えと…身体も拭いたほうがいい…かな?」
ぼくは先生が首を横に振るか、いつもの静かな声でいや、いいよ、とか言うんじゃないかと思ってた。