松明の僅かな明かりでは、夜の街路は見通しなどないに等しい。
前を行くロシュフォールからはぐれないよう走りながら、アトスは密か
に顔を顰めた。トレヴィルを
庇った際に、右腕に傷を負ったのだ。深くは
ないが、流れる血で布地が湿っている。剣を握るぶん
には支障はないが、
ちゃんと振るえるかといえば怪しかった。
突然、ロシュフォールが立ち止まる。
アトスも足を止め、周囲を油断なく見回す。入り組んだ建物に囲まれた
街路は、一つ一つの陰に
何者が潜んでいてもおかしくはない。だがロシュ
フォールは警戒を解いた風でアトスに近よってきた。
「ロシュフォール殿?」
「残念だが見失ったようだ。腕は平気か?」
トレヴィルにさえ気付かれなかった怪我を指摘され、アトスは驚いてそ
の炯眼を見つめた。
「やられているんだろう? 一度戻ろう」
「これくらい大丈夫です。それよりも、一刻も早く犯人達を捕まえないと」
「後は他の銃士に任せよう。はっきりとした足取りを見失った今、2人で
追うのは危険だ。
君は怪我人だしな」
「私のことなら…」
「アトス」
先輩であり、剣の達人との名声も高い彼に諌められ、アトスは口を噤んだ。
悔しさを感じつつも、
怪我のせいでぎこちない動きで剣を鞘に収める。ロシ
ュフォールはにやりと笑うと、切っ先をアト
スへと向けた。
「それでいい、アトス」
「ロシュフォール殿!?」
「大きな声を上げるな」
刃が胸元を突き、それに気圧されるようにアトスはじりじりと壁際へと
追い込まれた。傷ついた
右手が剣へと伸びる。
「おっと、動くなよアトス。最も、その腕では存分に扱えないだろうがな」
「どういうことだ…何を企んでいる?」
「企むとは人聞きの悪い。あの似非坊主に何を吹き込まれたか知らんが、
正しかったのは俺だ
と、将来わかるだろうよ」
「正しいとは何だ。私たちは同じ銃士ではないか」
ロシュフォールはさもおかしそうに唇を歪めると、刃をアトスの首筋へ
と当てた。動けないアトス
に更に顔を寄せ、悪魔のように囁く。
「この国はもうすぐ変わる。大きな波に乗る方が賢明であろう」
「銃士隊を…裏切る気か? それは王への反逆だ」
「くく…細かいことはどうでもいい。俺はお前を誘っているんだ。殺す
には惜しい。お前に釣られて
銃士を見限る者も多いだろう」
「ふざけるな…」
憎々しげに言い放つと、ロシュフォールは意外だとでも言うように眉を
吊り上げた。
「キザなアラミスや馬鹿なポルトスに愛着があるか? 銃士に対する義理
は? ないはずだ、アト
ス。目を見ればわかる…お前にとって、人生とは
惰性なんだろう」
「な、にを言って」
「どうせ無頓着なら、こっちに来い。今のような生温い生活よりは刺激的
だぞ」
鋭い刃が微かに首を滑り、ぴりとした痛みにアトスは身を震わせた。
覗き込んでくる瞳に沸き起こるのは、嫌悪感のみだ。
「断る! 分別は失っていない」
きっぱりと言い放つと、ロシュフォールはやはりおかしそうに笑った。
「愚かな奴だな…残念だが、仕方ない」
そして最期の挨拶だとでもいうように、アトスの後頭部を掴むと唇を重ね
た。驚きに身を竦ませ
るアトスの口内へと、無遠慮に舌が入り込んでくる。
「う、ぐ…ぅ…っ!」
身をよじると、首筋に再び痛みが走った。
ゆっくりと唇を解放され、急に入り込んできた酸素に咳き込む。霞む視界
の中、剣を振りかざ
したロシュフォールの背後に見知った姿が浮かんだ。
その体躯では駆け寄ってくる足音を消せ
ないため、ロシュフォールもまた彼
の出現に気付き素早く剣を下ろした。
「ロシュフォール!」
「おやおや、ポルトスじゃないか。勘だけはいい奴だな」
「アトスに何をした!」
「腕の怪我なら俺じゃない。さっさと暗殺者どもを追ったらどうだ?」
「白々しいことを…。お前が首謀者じゃないのか」
「貴様こそ、無礼が過ぎるな。この場で殺されても文句は言えんぞ」
ポルトスへと切っ先が向けられる。
ロシュフォールの意識が逸れたのを狙って、アトスは痛みを堪えながら
鞘から剣を引き抜いた。
それを目の端で捉えたロシュフォールが薄く笑う。
アトスは無言で柄を左手に持ち替えた。
「貴様…」
心配そうな顔をするポルトスとは異なり、ロシュフォールは険しい表情
になった。緊張に沈んだ
空気に、新たな足音が響く。
「ポルトス!」
「こっちだアラミス!」
「ちっ…三銃士、というわけか」
ロシュフォールは舌打ちをした。角から現れたアラミスへと視線を投げ、
更にポルトスとアトス
を見ると、銃士のマントを翻して素早く闇へと消えた。
すぐさま追おうとしたアトスを、ポルトスが
慌てて止める。
「やめろアトス! そんな腕で無茶だ」
「放せ! 無茶じゃない、私は左手でも右と同じように戦える」
「え…じゃあさっきのは伊達じゃなく本気だったのか」
「当たり前だろう! ロシュフォールが嘘に騙されるとでも思ったのか」
ポルトスを殴り出しかねないアトスの剣幕に、アラミスがワケも分からぬ
まま宥めに入った。
「落ち着けよアトス…。君が怪我を負っているのは事実だ。ましてや万全の
状態でも奴相手では
簡単ではない。癪だが奴はもう逃げた、俺達も帰ろう」
「トレヴィル殿には何と言う。ロシュフォールが今回のことに関わっている
のは間違いないんだ。
もっと不穏なことも仄めかしていた。だが証拠がない」
「忌々しいが、証拠がなければ告発もできない。決闘を申し込もうにも、一対
一では我々は殺さ
れるだけだしな…」
「トレヴィル殿に話して、奴を警戒してもらうしかないな。戻ろうぜ、こん
な陰気臭い場所は勘弁だ」
珍しく話をまとめたポルトスに、アトスも渋々と頷いた。
3人は用心深く剣を握ったまま歩き始める。
「それにしても…アラミスの言う通りだったな」
「何がだ?」
「普段大人しい奴は怒らしたら怖いって話さ」
「バッ…! ポルトス、お前何を…!」
「アラミス…それは、私のことか?」
「ちがっ、アトス!」
慌てふためくアラミスに、ポルトスは大声で笑った。
いつも取り澄ましている親友が、こんなに取り乱すのは珍しい。
「アラミスは見てないだろうがな、ロシュフォールを睨むアトスの眼光と
いったら…! なあ、アト
ス? 俺は正直、今夜初めてお前に感情があるん
だと気付いたぞ」
「…あいつは、私を見くびったうえに友を侮辱したんだ。銃士を見限って
こっちに来いなどと…こ
れで怒らなければフランス人ではあるまい」
調子に乗っておどけるポルトスに、憮然とした調子でアトスが答える。
その言葉に込められた思いがけない温かさに、ポルトスとアラミスは目を
瞠った。
「…その、友とは、銃士のことか? それとも…俺達の?」
「どっちもだな。まあ、キザな似非坊主と馬鹿な巨漢に愛着はないだろうな
どと聞かれたが」
「馬鹿な巨漢って俺のことか?」
「アトス…君が道徳的な人物で有難いよ」
酷い暴言だが、つまりはアトスはそれを否定してここに残っているという
ことだ。2人は目を
見合わせると微笑みあった。アトスのことはまだ良く知
らないけれども、この男は信頼できる
と思えた。例え過去に暗いものを背負っ
ていようが、それ故に自分達を遠ざけることがあろう
が、今日ふいに示され
た友情を裏切ってはならない。
「三銃士、か」
「ああ、三銃士だ」
呟きあう2人に、眉間に皺を寄せつつも、アトスは何も言わなかった。
居心地の悪そうな顔に、微かに笑みを浮かべて――。
END?