もう一度会いたい

sideザクロ

 いつものようにザクロはミルフィオーレのアジトにいた。
 中庭の芝生は昼寝をするにはもってこいの場所で、暖かい日差しと頬を撫でるそよ風がとても気持ちいい。
 いつものように横になって空を見上げている内に、どうやら眠ってしまっていたようだ。

 そう言えば、桔梗はどうしてるのだろうか。
 たしか、今日は任務がないと言っていたはずだ。これから二人でどこか出かけるのもいいかも知れない。
 そうと決まれば善は急げだ。
 ザクロは大きなあくびを一つすると身体を起こし、大きく伸びをして立ち上がった。

 アジトの廊下を歩いていると、向こうから誰かがやってくるのが見えた。
 すらりと高い長身に、ウエーブがかった長い髪。
 遠目からでもよく分かる。桔梗だ。

『桔梗!』
 ザクロは手を振って桔梗の名を呼んだ。
 だが、どういうわけか、桔梗はこちらに全く気付く気配はない。
『バーロー! 無視すんな! 桔梗ってば! おい、聞いてんのかよ!』
 ザクロは桔梗のすぐ側まで駆け寄ると、大声で叫んだ。
 まさかこれで聞こえていないということはないだろう。こんな近くで叫んだのだから。

 だが、桔梗はこちらを振り向きもせず、何事もなかったかのように通り過ぎて行ってしまった。
 まるでザクロの存在自体に全く気付いていないかのように。
『桔梗……?』
 呆然とするザクロに、向こうから歩いてきたミルフィオーレの隊員が避けることもなくこちらに向かってきた。
『! あぶねーな、バーロー!』
 とっさに避けようとしたザクロだが、避け切れず、相手と正面からぶつかってしまいそうになる。
 だが、ぶつかったと思った瞬間、ザクロの身体は相手にぶつかることなく、何事もなかったかのようにすうっとすり抜けた。
『?!』

『ど、どーなってやがんだ……?』
 突然起こった不測の事態にザクロの頭は混乱に陥った。

 ふと、廊下にある鏡に目が留まる。
 何の気なしに鏡を覗いたザクロは思わず絶句した。
 鏡の中には自分の姿だけがなかったのだ。

『やれやれ……まだ気付いてないようだね』
 パニックになっているザクロの背後から誰かの声がした。
『君は死んだんだよ』
『?!』
 振り返るとそこには見知らぬ一人の男が立っていた。
『だ、誰だ、お前っ!』
 大声で叫ぶザクロに、男は軽い笑みを浮かべて言った。
『君の魂を霊界に連れに来たガイド、とでも言えばいいかな。僕のことは霊界(こっち)のルールで詳しくは教えられないんだけど、まあ、“霊界のマフィア関係者”とでも名乗っておこうか』

 男は気の毒そうな目でザクロを見ると、
『時々いるんだよね、自分が死んだことに気付かない気の毒な魂が』
『それって、俺のことかよ……バーロー』

 男の言う通り、どうやら自分は死んだらしい。
 ということは、今ここにいる自分は肉体を抜け出した魂だけの存在なのだろう。
 それならさっきまでの不可解な現象に説明がつく。
 とにかく、自分が死んだらしいことは分かった。でも一体、いつどうやって?

 疑問を抱えたまま、ザクロは男と共にアジトのホールへと向かった。
 壁をすり抜け、部屋の中へと入る。
 がらんと広い部屋の中には桔梗とデイジーがいて、辺りには静寂が漂っていた。

 ふいに桔梗が口を開く。
「! ザクロ……?」
『!』
 まさか、自分がここにいることに気付いたのだろうか?
『! 桔梗! やっと気付いてくれたんだな! 俺はここにいるぜ!』
 ザクロは大喜びで桔梗に話しかけたが、それは全くの見当違いだった。
 よく見ると、桔梗はザクロがいるのとは全く違う方向に向かって言っていたからだ。
『やっぱり、見えてねーんだな……』
 ザクロはがっくりと肩を落とした。

「……ッ……」
「? どうかしたの? 桔梗?」
 肩を震わせ嗚咽のような声を漏らす桔梗に、部屋の隅で立ち上がったデイジーが心配そうな顔で話しかけている。
 桔梗の両目に涙が溢れ、溢れ落ちた涙が静かに頬を濡らした。

『桔梗……』
 強く美しく気高い桔梗が涙を流している。
 人前では決して泣いたりなんてしないはずなのに。

「ねえ、桔梗、大丈夫……?」
「ええ、大丈夫ですよ。デイジー」
 駆け寄ってきたデイジーに、桔梗は涙でボロボロの顔のまま必死で笑顔を作ろうとしているようだった。
『なんでそんな顔すんだよ……笑えるわけなんて、ないくせに……見てらんねぇんだよ、バーロー……ッ』
 こんな時にまで人に心配をかけまいと気遣う桔梗の律儀さが痛々しくて、ザクロは思わず悪態をついた。
 胸の奥がきゅうっと締め付けられるように苦しくなる。

「ほんとに? ……僕チン、心配だよ」
「何がですか?」
「だって、桔梗ずっと寂しそうなんだもん。それって、やっぱり……」
 暗く沈んだ表情で言いかけて、デイジーはあっ、と一瞬驚いたような表情になる。
「ぼばっ……う、ううん、何でもないんだ! ごめんね!」
「あっ、デイジー?」
 デイジーはぬいぐるみを抱えたまま大慌てで走り去っていってしまった。

 デイジーの足音が去り、辺りには再び静寂が訪れる。
「……」
 桔梗は黙ったまま、何かを考え込んでいるようだった。
 やがて、はあ、と息を吐くと、独り言のような呟きを漏らした。
「ハハン……ッ……全く、情けないことですね、私としたことが……」
 自嘲気に笑う桔梗の声が静まり返った部屋に響く。
 俯き目頭を押さえる桔梗の乾いた頬に、新たな涙が溢れ落ちていった。

『……』
 ザクロはどうすることもできず、泣いている桔梗をただ見ていることしかできなかった。

『彼に心残りがあるのかい?』
 ふいに男がザクロに話しかける。
『心残りっつーか……あいつ、人前じゃ泣くようなヤツじゃねーのに……』
 もしかすると、桔梗の涙を見たこと自体、初めてだったかも知れない。
 いつでも気高く美しくて、落ち着いている桔梗。
 そんな彼が泣くところなんて、想像もつかなかった。

『君を亡くしてから、彼はずっとあんな感じみたいだね。君は眠ってたから知らないだろうけど』
『? 眠ってた……?』
『絶命した時のショックで長いことそのまま気を失ってたってこと。こっちの世界で目覚めたのはついさっきのことだろ? それまでずっと眠ってたんだよ』
 言って、男はポケットを探ると一つのリングを取り出した。
『幸いにも君にはまだ少しだけ時間があるようだから、これをあげよう』
 男はザクロにそのリングを手渡す。
『? 何だ、このリングは……』
 ザクロは男に手渡されたリングを見た。
 見慣れないリングだ。今までに自分が見てきたリングのどれとも違う。
『これは魂を実体化させるリング。君は生前マフィアだったようだし、この手のリングを使ったことはあるだろう? 使い方はそれと同じ。思いの強さでリングに炎を点すことで、魂を実態化させることができる』
『! マジかよ、バーロー! そんなら、早速……』
 ザクロはリングを指に嵌めると、生前やっていたように思いを集中させ、リングに炎を点そうとした。
 だが。
『……っクソッ……! 点かねーじゃねーかよ! バーロー!』
 偽物じゃねーのか?! と鼻息も荒く詰め寄るザクロに、男は言う。
『その程度の思いじゃ炎は点かないよ。このリングに炎を点すには、地上にあるリングよりももっと強い思いの力が必要なんだ』
『強い思いだと……?』
 でも、一体どうすればいいのだ。
『うーん、人によって違うから何とも言えないんだけど、地上に遺してきた思いとか、心残りなこととかかな。それを本気で思い出せば、きっとリングに炎が点るはずだよ』
『……』
 ザクロは指のリングを見つめた。
 地上に遺してきた思い、心残りなこと。それはやはり……。

 ふいに男が思い出したかのように口を開く。
『ああ、言い忘れてたけど、君がこっちにいられるのは、地上の時間で今日を入れてあと三日だよ。三日目の真夜中にはここを出なければいけないからね』
『! たったの三日だと?! 短すぎじゃねーのか?!』
『仕方ないよ。だって、死んでから長いこと眠ってたんだから。残り時間があるだけラッキーって思わなくちゃ』
 諭すように言って、男はザクロの肩を叩くと、
『じゃあ、三日目の真夜中にね。健闘を祈るよ』
 男の姿はかき消すように消えてしまった。

+++

 アジトの会議室では、作戦会議が行われていた。
 部下達と共に円卓を囲み、中心となって会議を統率しているのは桔梗だ。
 凛とした雰囲気を漂わせ、真面目な発言をしながらも、時折言葉にダジャレを織り交ぜているのは、ザクロのよく知っているいつもの桔梗だった。

『まったく、だりーぜ……バーロー』
 ザクロは桔梗の仕事振りを横目で見ながら、床に寝転んでダレていた。

 あれから何度もリングに炎を点そうと頑張ってみたものの、結局何の進展も得られず、疲れ果てたザクロはあっさり止めてしまったのだ。いや、正確には“一旦休憩”といったところか。
 大体、強い思いと言ったって一体どの程度必要なのか。
 桔梗に対する思いの強さなら誰にも負けないと自負しているザクロだったが、桔梗のことを思いながら炎を点そうとしてもリングはうんともすんとも言わなかった。
 これはお手上げである。

『あーあ、ヒマだー……』
 ザクロは床に寝転んだまま大あくびをし、桔梗の任務が終るのをひたすら待った。

 夜が来て、任務を終えた桔梗は自室へと帰る。もちろんザクロも一緒だ。
 中世の貴族が住んでいそうなきらびやかな装飾の部屋はいつ来ても落ち着かないが、生前何度もここに来たことがあるザクロには懐かしさを感じさせた。
『ん?』
 ふと、机の上にある見慣れないものにザクロの目が留まる。
 どうやら写真立てのようだ。以前この部屋に来た時には置いていなかったはず……。

「ただいま、帰りましたよ」
『? 誰と話してんだ?』
 見ると桔梗は、机の上の写真立てに向かって話しかけていた。
 ザクロは写真立てを覗き込んでみる。
『! これって……』
 写真立てに入っていたのは、ザクロの写真だった。

『桔梗のやつ、いつの間に……』
 ザクロが驚いている間に、桔梗は部屋に備え付けの冷蔵庫からシャンパンとワインを取り出すと、グラス二つと共に抱えて戻ってきた。
 コルク抜きでコルクを抜き、シャンパンとワインをそれぞれ一つずつグラスに注ぐ。
 桔梗は机の前に座ると、自分の前にはシャンパン、ザクロの写真の前にはワインのグラスをそれぞれ置いた。

「ハハン、今日も一日お疲れ様です。乾杯しましょうか、ザクロ」
 まるで目の前に生きている人間がいるかのごとく写真立てに話しかけると、桔梗は写真立ての前に置いたワイングラスに自分のシャンパングラスを軽く打ち合わせた。
『ああ、クソッ……幽霊じゃなけりゃなあ……ワイン飲みてーぜ、バーロー』
 美味しそうにシャンパンを飲む桔梗の側でザクロは、自分の写真立ての前に供えられたワインを羨ましそうに見ていた。
 せめてものと思い、ワイングラスに手を伸ばしてみるが、手はグラスをあっけなくすり抜ける。

「それにしても……あなたが逝ってしまってから、もう一ヶ月以上も経つのですね。早いものです」
『?! えっ、一ヶ月って……俺が死んでからそんなに経ってたのかよ?!』
 ザクロは驚きの声を上げる。
 知らなかった。確かに男は「死んでから長いこと眠っていた」と言ってはいたが、まさか一ヶ月以上も経っていたとは。
「ハハン……私にはまだ、あなたが死んだという実感さえ湧かないというのに……」
 自嘲気に笑うと桔梗はシャンパングラスをあおり、グラスのシャンパンを一気に飲み干した。
 そして、ボトルから新たなシャンパンをグラスに注ぐ。
 その動作が早いピッチで数回繰り返され、桔梗の目は次第にとろんと焦点が曖昧になってきた。
『おい、桔梗! ちょっと飲みすぎなんじゃねぇのか?! バーロー、完全に酔ってんじゃねーか!』
 ザクロの言葉が聞こえるはずもなく、桔梗はとうとうシャンパンボトルを丸々一本空けてしまった。

「ねえ、ザクロ……もう一度、あなたに会いたいと願うことは、おかしいことなのでしょうか……」
 机に突っ伏した桔梗の口から、呟きにも似た声が漏れる。
「私はまだ、あなたが死んだなんて信じられないというのに……」
 桔梗の目から涙が溢れ、頬をすうっと伝った。

『桔梗……っ』
 ザクロはいてもたってもいられず、机に突っ伏している桔梗の背後から両腕を伸ばして抱きしめようとした。
 だが、抱きしめようと腕を伸ばしても、ザクロの腕は桔梗の身体をすり抜けて、決して触れ合うことはない。

 桔梗は机に突っ伏したまま、肩を震わせ、声を殺して泣いている。
『……』
 ザクロはため息をついた。
 今の自分は桔梗に何もしてやることができない。
 抱きしめることも、優しい言葉で慰めてやることもできない。ただ、そばで見守ることしかできない。
『なあ、桔梗……お前は気付かないかも知れねーけど……俺はここにいるんだぜ? ずっと、お前のそばにいるんだからさ』
 だからもう、泣かないで。
 聞こえないと分かっていても、言わずにはいられなかった。
 自分が死んでしまったことよりも、彼の悲しむ姿を見るほうがずっとずっと辛かった。

+++

 夜が明けて二日目の朝が来た。タイムリミットはあと二日。
 時間切れになるまでに、何としてもリングに炎を点さなければならない。
『強い思い、か……俺に足りねーもんって何なんだ?』
 ザクロはかざしたリングを見つめ、呟いた。

 机の前では、身支度を整えた桔梗が写真立てに向かって挨拶をしているところだった。
「それでは行ってきますね、ザクロ」
『おい、待てって、桔梗! 俺も行くっての!』
 ドアを開けて出て行く桔梗の後を追って、ザクロも部屋をすり抜け出て行く。

 今日の任務は書類整理だった。
 相変わらず地味だな……そんなの部下にやらせりゃいいじゃねーか。などと思うザクロの横で、桔梗は黙々と書類の山を片付けていく。
 ザクロは桔梗のテキパキした仕事振りを見ながら、自分は自分でリングに炎を点そうと散々頑張ってみた。
 だが、相変わらず何の変化も得られない。
 すっかり嫌になってしまったザクロは、また“一旦休憩”とばかりに、その場にだらーっと寝転がった。

 ふと、ドアをノックする音と共に、ドアの外から誰かの声がした。
「桔梗ー」
 どうやら誰か来たようだ。この声は……デイジーか。

 桔梗は書類整理をする手を止めると、ドアの方へと向かった。
「はい。何かご用ですか?」
「白蘭様がね、桔梗のお手伝いしなさいって」
「ハハン、そうですか。それはありがたいことです。手伝ってくれますか? デイジー」
「うん! 僕チン、がんばる!」

 ほどなくしてデイジーと二人で部屋に戻ってきた桔梗は、再び書類の山と格闘し始めた。
 静かな空間にバサバサと紙の束を分ける音だけが響く。

 ふいにデイジーの手が止まった。
「桔梗ー、これは?」
「? どうかしたのですか?」
「裏に何か書いてあるよ。ほら」
 デイジーは書類を裏返し、桔梗に見せる。
 そこには何やら走り書きのような汚い字が羅列されていた。

『! げっ、それは……』
 紙を見たザクロの顔色が変わる。
 この紙には見覚えがあった。まさかこんなところに紛れていたとは。

「……ちょっと渡してもらえますか」
 桔梗はデイジーから書類を受け取ると、裏に書かれている汚い走り書きに目を落とした。
「……」
 字を読んだ桔梗の表情がみるみる変わっていく。

「? どうしたの? 桔梗?」
「……」
 肩を震わせ、泣きそうな表情になっている桔梗に、デイジーが心配そうに声をかける。
「ハハン……ッ……本当に仕方のない人ですね……あなたは……」
「え?」
 泣き笑いの顔で呟く桔梗に、デイジーは一体何のことか分からない様子で目をぱちくりさせた。

 ザクロは桔梗の手元を覗き込んだ。
 書類の裏に書かれていたのは……そう、忘れもしない、自分が桔梗に初めて送ったラブレターと同じ文面の文だった。

 桔梗は溢れた涙の滴を指先で拭き取ると、
「ザクロから初めてもらった手紙と同じ文章が書かれていたのですよ。おそらく書類の裏を下書きに使ったのでしょう」

 走り書きの文面には、面と向かっては恥ずかしくて言えないような気障な言葉や、至るところに“好きだ”だの“愛してる”だのの言葉が恥ずかしげもなく散りばめられている。
 惚れた勢いで書いた文章とは言え、今改めて見ると転げまわりたくなるような恥ずかしさだ。
『っ、バーロー! 桔梗! その紙早くしまえ!』
 ザクロは顔から火を吹きそうになりながら桔梗に叫んだ。

「どうやら書類を片付ける際に紛れ込んでいたようですね。これは私が預かっておきましょう」
 桔梗は書類を折りたたむと、隊服のポケットに大切そうにしまった。

「ごめんね、桔梗。思い出させちゃって」
「いいんですよ、デイジー。そんな気を遣わなくても。私ならもう平気ですから」
 桔梗は穏やかな笑みを浮かべると、しょげた様子のデイジーを慰めた。
 二人は作業を再開させながら、雑談を始める。
「デイジーはどう思います? ザクロのこと」
「うーん、意地悪で怖いところもあったけど、いいとこもあったと思うよ。でも、大人なのに子供みたいだなって思った」
「ハハン……ザクロは見た目はオッサンですけど、精神年齢がお子様でしたからねえ。もしかするとデイジーやブルーベルより下かも知れませんよ?」
「ぼばっ、そ、そうなの? あ、でも、言われてみたら、そう……かも」
『バーロー、桔梗! 誰が子供だ! デイジーも納得してんじゃねぇぞ!』
 猛然と突っかかるザクロだが、二人にはその姿が見えているはずもない。

「ハハン……でも、私は彼のそんなところが大好きでしたよ。可愛くて」
「ぼばっ……か、かわいいの? ザクロが?」
「ええ」
 桔梗は笑顔で頷く。デイジーは桔梗の発言に心底驚いているようだった。
『……』

 ふと思い出したようにデイジーが言う。
「そうだ。ねえ、僕チン、前から思ってたんだけどさあ、桔梗ってお母さんみたいだよね。一緒にいると安心できるっていうか……」
「そうですか?」
「だから、ザクロも桔梗に甘えたりしたのかなあって……なんだか想像できないけど」
「ハハン、そうですね……私と二人っきりの時はそういうこともありましたよ」
『! 桔梗!』
「ぼばっ……ほ、ホントに?」
 さらりと答える桔梗に、デイジーは信じられないといった驚愕の表情になっていた。
『おいコラ、マセガキ! くだらねえこと訊いてんじゃねぇぞ、バーロー! 桔梗もまともに答えんじゃねえっ!』
 ザクロは真っ赤になりながら、デイジーと桔梗に突っかかる。

 だが、楽しそうに笑う桔梗を見るのは、決して悪い気はしなかった。
『桔梗、久しぶりに笑ったな……』
 ここに戻ってきてから見た桔梗はいつも泣いていた。
 もうあんな悲しい顔はさせたくない。彼には笑顔でいてほしい。

+++

 昨日の夜と同じように、自室に帰った桔梗は写真立てのザクロに話しかけながらシャンパンを飲んでいた。
「ねえ、ザクロ。今日、書類整理をしていたら、あなたが書いた手紙の下書きが出てきましたよ」
 桔梗は机の上に書類の裏側を広げる。
「ハハン……相変わらず汚い字ですね、本当に」
『バーロー、ほっとけ。いいだろ、下書きなんだからよ』
 笑みを浮かべながら言う桔梗に、ザクロはそっぽを向いた。

「……なんて。こんなこと言ったら、あなたのことですから、きっと拗ねてそっぽ向いてるんでしょうね」
 言って、桔梗は可笑しそうに小さく笑った。
『……』
 全く持って図星だ。さすがは桔梗である。
「嬉しかったんですよ、本当は。あなたが生きたという証を少しでも見つけられて」
 桔梗は、ザクロの字で“Io ti amo(愛してる)”と書かれている箇所を指先でそっとなぞる。

「ザクロ。あなたは本当に真っ直ぐに、純粋に、私のことを思っていてくれましたね……素朴で、飾りっ気がなくて……ハハン、まるで少年のように」
 言って、桔梗は写真立てのザクロを穏やかな眼差しで見つめた。
「私もそんなあなたが大好きでしたよ。今も変わらずにずっと」
『桔梗。俺も桔梗のこと大好きだぜ』
 ザクロは机に座る桔梗の背後から抱きしめるように両腕を伸ばす。
 伸ばした腕は桔梗の身体をすり抜けて、決して触れ合うことはない。
 ザクロは切なさを感じながらも、お互いがお互いをひたむきに思い合う温かさと、桔梗への強い愛しさが胸にこみ上げるのを感じていた。

「Io ti amo. Che che(愛しています。誰よりも)」
 桔梗は写真立てを手に取ると、写真のザクロにそっと口付けた。

+++

 とうとう三日目の朝が来た。今日はザクロが地上にいられる最後の日だ。
 結局、リングには未だ炎を点せずじまいだった。
 今日こそは何とかしなければ。

 私服に着替えた桔梗はどこかへ出かけるようだった。
 どうやら今日の任務は休みらしい。

 階下へ降りる桔梗に着いていくと、エントランスホールの大階段の踊り場に見慣れた人影があるのが見えた。
 デイジーだ。

 デイジーもこちらに気付いたらしく、踊り場の上から桔梗に声をかけてきた。
「桔梗! どっか出かけるの?」
「ええ。ちょっと街へ散歩に出かけようかと。デイジーも一緒に来ますか?」
「うん! 僕チンも行く!」
 デイジーは桔梗の言葉に目を輝かせながら階段を駆け下りてきた。

「ハハン、そんなに走ると転びますよ。そんなに急がなくても、ちゃんと待ってますから」
「だって僕チン、桔梗と出かけるなんて久しぶりで嬉しいんだもん!」
「ハハン、そう言えばそうですね。このところ、デイジーと一緒には出かけてませんでしたし」
『……』
 連れ立って歩いていく二人にザクロも続く。

 街は変わらず賑やかで明るく、活気に満ちていた。
「ねえねえ、桔梗! あっちの店見てみてもいいかなあ?」
「いいですよ。行きましょう」
 嬉しそうにはしゃぐデイジーに、桔梗は優しい笑みを浮かべる。
 普段は大人しく人見知りしがちなデイジーも、桔梗の前では無邪気な子供の表情を覗かせていた。
「やったあ! ね、早く早く!」
 桔梗の腕を引っ張りながらデイジーは小走りに駆けていく。
『……』
 楽しそうな二人の様子を、ザクロは遠巻きに一人眺めていた。

 ザクロにとって休暇といえば、桔梗と二人でいるのがいつもの過ごし方だった。
 今日みたいに街に出かけたり、アジトの部屋で過ごしたり。
 それは本当に何気ない当たり前の時間だったが、振り返ってみれば、当たり前と思えたことは当たり前なんかではなく、奇跡みたいな、キラキラしたかけがえのない大切な時間だった。今なら分かる。
 自分が死んでしまった今、あの頃にはもう二度と戻れないのだから。

『桔梗……』
 人ごみが行き交う雑踏の中、ザクロは崩れ折れるようにその場にしゃがみこんだ。
 行き交う人々は誰一人として孤独な幽霊の姿に気付く者はいない。

 どのくらい時間が経っただろう。
「ぼばっ……桔梗、いっぱい買ったね」
「ハハン、いつものことですよ」
 通りに出てきた桔梗の腕には、見覚えのある店の大きな包みが抱えられていた。

『おい、またあの店行ってきたのかよ、バーロー……ホントに好きだな』
 ザクロは呆れたように呟く。
 あの店というのは、桔梗のお気に入りの例の化粧品の店だ。
 いつものように女ばかりの空間の中で、自分の気に入った化粧品を熱心に選んできたのだろう。

『……そう言えば、お前の買い物にも何回も付き合ったな。あん時はホント参ったぜ』
 あの頃のことを思い出して、ザクロは苦笑いした。
 女しかいない空間で、熱心に化粧品を品定めしている男と、その連れの男。
 桔梗は美しいからまだいいとはいえ、どう見てもオッサンなザクロは店から浮きまくりだった。
 でも、そんなことさえも、今となっては全てが懐かしい。

 ふと、桔梗がデイジーに尋ねる。
「デイジー、おなか空きませんか? そろそろお昼にしましょう」
「うん。僕チン、もうおなかペコペコ〜」
「私もですよ。美味しいパスタランチのお店があるんですけど、どうですか?」
「ぼばっ、僕チン、パスタ大好きー!」
「ハハン、では行きましょう」
 桔梗とデイジーは連れ立って、通りの一角にあるオープンテラスが出ているカフェに入っていった。
 ザクロもその後に続く。

 この店には桔梗と二人で何度か来たことがあった。
 桔梗がお気に入りの川沿いのオープンテラスがある店だ。

「わわ……すごーい、桔梗、川が見えるんだね」
「ええ。素敵でしょう」
 川沿いのオープンテラス席に座ったデイジーは川を見ながらはしゃいでいる。
 桔梗はそんなデイジーの様子を笑顔で見ていた。
 やがてウエイターがやってきて、二人にオーダーを尋ねる。
『……』
 ザクロは二人のいるテーブルから少し離れたところに立って、二人の様子を眺めていた。
 明るい日差しの中、川の水面が光に反射してキラキラ輝いている。

 あの頃と変わらない、穏やかな時間が過ぎていく。
 ただ、違うのは、桔梗の側に自分がいないということ。

 運ばれてきたランチをつつきながら、桔梗とデイジーの二人は楽しそうに談笑しているようだ。
 デイジーの言葉に桔梗は笑って頷いている。何か楽しい話をしているのだろう。
 ザクロはそこに入っていけない寂しさを感じながらも、桔梗が笑顔でいてくれてよかったと思った。
 死んでしまった自分のことを思い詰めて涙を流すよりは、他の誰かと楽しく笑っていてくれた方がいい。
 桔梗には幸せでいてほしいから。

 太陽が西に傾き、街に夕陽が差す頃、桔梗とデイジーの二人は帰路に着いていた。
「桔梗、楽しかったね!」
「ハハン、そうですね。……こんなに楽しかったのは、私も久しぶりですよ。デイジーにはお礼を言わないといけませんね」
 隣で無邪気にはしゃぐデイジーに、桔梗は穏やかな笑みを浮かべた。
 静かな石畳の小道に二人の笑い声が響く。

「……」
 ふいに黙り込んだデイジーの表情が緊張したような真面目な面持ちに変わる。
 隣を歩く桔梗を見上げ、デイジーは再び口を開いた。
「ねえ、桔梗……手、つないでもいい?」
 デイジーの言葉に桔梗の歩みが一瞬止まる。

『……っ』
 聞き覚えのある台詞にザクロの歩みも一瞬止まった。
 ああ、そうだ。今日みたいに、桔梗と二人で街に出かけた帰り道だった。
“手……つなごうぜ”
 帰りたくなくて、もっとずっと一緒にいたくて……ドキドキしながら言ったんだっけ。今でもリアルに思い出せる。

 桔梗は一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに穏やかな笑顔になると、
「ええ。いいですよ」
 あの日、ザクロに応えたのと同じように、デイジーの手を取った。

『……』
 きっと桔梗にしてみれば、デイジーの言葉は子供の可愛いおねだりに過ぎないのだろう。
 デイジーに対する桔梗の気持ちは、ザクロに対する気持ちとは種類が違う。そんなことぐらい分かっている。
 それでも、今は桔梗に優しく応えてもらえるデイジーがただ羨ましかった。
 どんなに手を伸ばしても、願っても、死んでしまった人間は、生きている人間には触れることすら叶わない。
 手をつないで楽しそうに並んで歩く二人を見ながら、ザクロは一人やるせない寂しさを抱えていた。

 ふいに、突然立ち止まったデイジーが桔梗をぎゅっと抱きしめた。
 抱きしめるというよりは、一方的に抱きつくという格好だったが。
「? デイジー……?」
「ねえ、桔梗、僕チンじゃダメ? 僕チンなら、桔梗にそんな顔させたりしないのに……」
 上目遣いに切なくも真剣な表情で桔梗を見上げるデイジーに、桔梗は驚いたような戸惑いの表情を見せた。

『!? なっ……』
 突然目の前で起こった予想外の展開にザクロは言葉を失った。
 そんな、まさかの出来事だ。

「ありがとうございます。デイジーは優しい子ですね」
 桔梗はいつもの穏やかな笑顔になると、デイジーの頭を優しく撫でた。
「でも、私にはザクロがいますから、その気持ちだけ頂いておきます」
「ぼばっ……そ、そーだよね。ごめんね、桔梗」
「いえ、いいのですよ」
 赤くなってしょげ返るデイジーに、桔梗は優しい笑みを見せた。

『そっ、そーだよなっ! さっすが桔梗!』
 大喜びで言ったものの、ザクロの胸に複雑な思いが去来する。

 死んだ人間の時は止まる。
 だが、生きている人間の時間は確実に進んでいくのだ。

 死んだザクロの時間は止まってしまったが、生きている桔梗の時間は確実に進んでいく。
 彼のこれからの幸せを思うと、ザクロ以外の誰も好きにならず、一人で生きていくというのは孤独なことだろう。
 桔梗のことが大好きだから、幸せになってほしい。でも、自分のことも思っていてほしい。
 ザクロは複雑な気持ちだった。

+++

 明かりの消えた部屋の中、ベッドで横になっている桔梗の寝顔を見ながら、ザクロは一人考え込んでいた。
 この地上でザクロが桔梗の側にいられるのは、あとほんの数時間だ。真夜中にはここを去らなくてはならない。
 実を言うと、ザクロは未だに一度もリングに炎を点すことができていなかった。
 机に置かれた時計の針は音を立てながら静かに、確実に進んでいく。こうしている間にも時間は容赦なく過ぎていくのだ。

『……っ』
 ザクロはこの三日間で幾度となく試みてきたように、リングに炎を点そうと精神を集中させた。
 だが、何度やってみても結果は今までと変わらず、何の変化も起こらない。

『クソッ……これで出来なきゃ、俺は……』
 ザクロはリングを嵌めた手を強く握り締めた。
 このまま桔梗に会えないまま、気付かれないまま離れ離れになってしまうのか。
 刻一刻と過ぎていく時間の中で、ザクロは焦りを感じていた。
『桔梗が好きだって気持ちなら、誰にも負けねーのに、それだけじゃダメだなんて……ああ、もうっ……どーすりゃいいんだよ!』
 どうにもならない追い詰められた状況で、ザクロは頭を抱え、悲痛な叫び声を上げた。

「……ッ……」
 ふいに、目を閉じ眠っていたはずの桔梗の顔が歪み、喉から押し殺した嗚咽のような声が漏れでた。
『?!』
 ザクロは思わず目を見張った。
 桔梗の頬にすうっと涙が流れていく。嗚咽の中、桔梗の口から掠れた声が聞こえた。
「……っ……ザクロ……ッ……」

『!』
 瞬間、ザクロの中で思いもしなかった記憶が稲妻のように閃いた。
 脳裏に断片的に展開される映像、音、そして、あの声……。

 ああ、そうだ。あの瞬間、彼の声が聞こえた。
 声を枯らし、自分の名前を大声で絶叫する彼の声、桔梗の声が。
 会いたい。もう一度会いたい。会ってもう一度、彼を、桔梗を強く抱きしめたい。
『桔梗ーーっ!』
 ザクロは声の限り叫んだ。あの最期の瞬間、彼が自分の名を叫んだように。
 その瞬間、音を立ててリングに炎が点り、まばゆいほどの光がザクロを包んだ。

 光が消え、部屋は再び元の状態に戻る。
 ザクロは指のリングを見た。リングには炎が点り、炎は静かな暗がりの中で揺らめいている。
 他には何か変わったのだろうか? 見たところ、何の変化もないようだが……。
 しかし、変化は確実に起こっていた。
『?!』
 何の気なしに辺りを見回してみたザクロは、思わず息を飲んだ。
 鏡の中には自分の姿がちゃんと映っていたのだ。
 リングをくれた男が言っていた通り、どうやらザクロはリングの力で実体化することに成功したらしい。

 ザクロは桔梗の肩に手を置いた。手はすり抜けず、触れることができるようになっている。
「……」
 つい先ほどまで大声で号泣していた桔梗は、静かになってベッドに突っ伏したまま動かない。
 泣き疲れて眠ってしまったのだろうか。

 ふいに、桔梗の目が開き、驚いたようにこちらを見た。
 どうやら、ザクロの存在に気付いたらしい。
「え……?」
 一体何が起こったのか分からない様子の桔梗に、ザクロはいつもの調子で軽口を叩く。
『ったく、いつまでもメソメソ泣いてんじゃねーよ。バーロー』
「?! ザクロ?!」
 桔梗は驚き叫んで飛び起きた。その視線は真っ直ぐに目の前のザクロに注がれている。
「ザクロ、あなた……」
 信じられない、といった表情で言いかけて、桔梗は口をつぐんだ。

「……どうして……」
 桔梗はザクロを見つめ、戸惑いの表情を見せながら掠れる声で呟いた。
『桔梗、俺を呼んだだろ? だから、会いにきてやったんだ』
 こともなげに言って軽い笑みを浮かべると、ザクロは桔梗の頬に手を伸ばした。
 泣きじゃくったからだろうか。桔梗の頬は涙の跡で少しざらついている。
 桔梗の手がザクロの手にそっと重ねられた。温かい。
『あーあ、ひっでー顔。せっかくの美人が台無しだな』
 涙でボロボロになった桔梗の顔を見ながら、ザクロは軽口を叩き、悪戯っぽい少年のような笑みを浮かべた。

「……ッ……」
 瞬間、桔梗の目から大粒の涙がとめどなく溢れ落ちる。
『おいおい、ちょっと泣きすぎなんじゃねーのか、バーロー。お前、さっきから泣いてばっかじゃねーか……』
「だれの……誰のせいだと思ってるんだ?!」
 呆れながら言うザクロの言葉をさえぎって、桔梗の強い声が響いた。
『桔梗?』
 泣きそうな顔でこちらを睨み付ける桔梗に、ザクロは胸の奥を突かれるようだった。
 桔梗の悲痛な叫びが、静かな暗がりの中に響く。
「ザクロがいなくなってから、毎日、ずっと辛くて、悲しくて……何をしても、どこにいても、忘れることなんてできなかった……!」

 声を殺し、涙を流す桔梗の姿がザクロの脳裏に蘇る。
 人前では決して涙を見せることのない彼が、何度となく悲しみの涙を流し、泣いていた。
 それは他ならぬ自分のためだったのだ。

『ああ、知ってるぜ……お前、毎晩泣いてたもんな。俺の名前呼びながら』
「!?」
 ザクロの言葉に桔梗の顔が驚きの色に染まる。その声は震えていた。
「どうして、それを……」
『俺、ずっと側にいたんだぜ。泣いてるお前を見てることしかできなかったけど』

 もう泣くなよ。俺はここにいるんだぜ。お前のそばに、ずっと……。
 どれほどそう言って抱きしめたかったことだろう。
 触れたくても触れられないもどかしさ、そばにいるのに気付いてもらえない切なさが、ザクロの胸の内に蘇る。

「ザクロ……」
 桔梗はうな垂れ、黙り込んだ。俯いた頬に涙が伝っていく。
 ザクロは両腕を伸ばし、桔梗を包み込むように強く、抱きしめた。
 そして、涙で頬を濡らす彼の耳元でそっと優しく囁く。
『……ごめんな』
「そんな、私の方こそ……」
 掠れた桔梗の声が応える。抱きしめた桔梗は温かく、いい香りがした。
 まるで懐かしいあの頃に戻ったような気がして、ザクロは胸の奥が優しく温かい思いで満たされていくのを感じていた。

『ずっとこうしたかった。もう一度、桔梗とこんなふうに……』
 ザクロの胸の内からとめどなく溢れ出す思いが、口を突いて言葉となって溢れ出る。
 彼を、桔梗を抱きしめることをどれほど願って望んでいただろう。
 生きていた頃にはごく当たり前だったことのはずなのに、今はこうして触れ合えることすらも奇跡のように思える。
「私もです……ザクロ」
 桔梗の温かい腕がザクロを強く優しく抱きしめ返す。
 二人は強く抱き合ったまま、夢中で何度も口付けを交わした。

 どれほど、そうしていただろう。
 ふと、ザクロは指に嵌めたリングの炎がゆっくりと弱まりつつあることに気付いた。
 残された時間はもう、そんなに長くはないのだ。
 本当はいつまでもこうしていたい。だけど、それは叶えられないことだ。
『……』
 ザクロはためらいながらも、桔梗を抱きしめる腕をゆっくりと緩めると、後ろ髪を引かれる思いで桔梗から離れた。
 戸惑いを隠せない表情の桔梗に、ザクロは静かな声で告げる。
『……桔梗。俺、そろそろ行くな』
 ザクロの言葉に桔梗は無言で頷いた。

 静まり返った暗がりの中、別離の切なさを払いのけるように、ザクロの明るい声が響く。
『なあ、桔梗。お前がいつかこっちに来る時がきたら、そのときは俺が迎えに来て、川の向こうで待っててやるよ。まあ、桔梗にはまだだいぶ先の話だろうけどな』
 言って、ザクロは屈託のない少年のような笑みを浮かべた。
 桔梗の視線は瞬きもせず、切ないほど真っ直ぐにザクロへと注がれている。

 きっとこれが彼に伝えることのできる最後の言葉になるだろう。
 ザクロは桔梗を真っ直ぐに見つめると、ありったけの思いを込めて言った。

『Io ti amo(愛してる)』

「Io ti amo, anche(私もあなたを愛しています)」
 桔梗も言葉を返す。その顔には穏やかな微笑が浮かんでいた。

+++

 静かな暗がりの中、穏やかな寝息が聞こえてくる。
 ザクロは眠っている桔梗の頬にそっと手を伸ばした。
 手はすうっとすり抜けて、もう触れることはない。
『……じゃあな、桔梗。またな』
 ザクロは桔梗に別れを告げると、部屋をすりぬけて外へ出た。

『お疲れ様。どうだった?』
 アジトの建物を見下ろす空の上で男はザクロを待っていた。
 漆黒の空に煌めく星々が美しい。
『ああ、何とか……』
『その様子だと上手くいったみたいだね。よかったじゃん』
 照れたように口ごもるザクロに、男は明るい笑みを見せた。

 どこかで真夜中を告げる鐘が鳴る。
『さあ、行こう。時間だ』
 出発を促す男の声を聞きながら、ザクロは今までのことを思い返していた。

 思えば、自分は幸せだったのだろう。
 思い返せば色々あった人生だったが、桔梗と出会えたこと、彼とかけがえのない時間を過ごせたことは、ザクロにとって何物にも優る幸福だった。
 桔梗と出会って過ごした日々は、ザクロの生きてきた時間の中で一番キラキラと輝いていて、何物にも変えがたい大切な宝物だったのだから。

 アジトにある桔梗の部屋を振り返りながら、ザクロはそっと呟いた。
『Buona notte. Ci vediamo(おやすみ。またな)』
 いつか、遠い未来でまた会える日まで。

【END】2010/02/13UP

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