きみと出会えた幸せに
1
スーツ姿の桔梗は、とぼとぼと暗い夜道を歩いていた。
明日からはあの地獄のような会社に行くこともなくなる。もう二度と。
上司からの暴力的な酷いパワーハラスメントにひたすら耐え続けてきた結末は、突然のリストラだった。
桔梗の上司は自己中心的で感情の起伏が激しい気分屋な男だった。
少しでも気に入らないと、それがごく些細なことでも酷い罵詈雑言を浴びせ、時には暴力に訴えることも少なくはなかった。
『またヘマしやがったのか! お前は本当に使えないダメなクズだな!』
『申し訳ありません!』
ほんの少しのミスでも口汚く罵られて殴られ蹴られ、何度土下座して謝ったか分からない。
仕事自体は好きなはずだった。憧れて入った、自分の希望の仕事ができる会社だったのだから。
だから桔梗は、上司から虐待と思えるほどの人間以下の酷い扱いを受けても、感情を殺し、プライドを捨てて、仕事をすることだけを考えながらひたすら耐えた。
どんな酷い目に遭わされても、自分の方から逃げること……仕事を辞めることだけはしたくない。
愚かなことかも知れないが、それが会社や上司に対する桔梗の唯一のプライドだった。
でも、もうそれも今日で終ったこと。
差し当たって考えなければならないのは、次の就職先のことだが……今の桔梗にはそこまで考える気力はもはや残されてはいなかった。心がすっかり疲れ果てていたのだ。
このまま真っ直ぐ部屋に帰る気もせず、桔梗は道の脇にある公園にふらふらと入っていった。
何も考えず、ただぼうっとしていたい。そんな気分だった。
+++
誰もいない公園はシーンと静まり返っていた。
ベンチに座ってぼうっと空を見上げていると、思いの外、星が多いことに驚く。こんな街の中なのに。
そう言えば、今日は満月だ。
晴れた夜空はきらめく星達をたたえ、ぽっかりと浮かんだ満月は澄んだ光を降り注いでいる。
こうして夜空を見上げたのは、一体いつ以来のことだろう。
地上を照らすかすかな月明かりの中、桔梗はまるで世界中にたった一人で取り残されたような気持ちになっていた。
浮かんでくる感情は、怒りとも悲しみとも寂しさともつかない……いや、もしかすると、それらが混ざり合ったような複雑な感情なのかも知れない。自分ではよく分からないのだが。
上司からのパワハラを受けて感情を押し殺す内、桔梗はいつしか自分の今感じている感情が一体何なのか分からなくなってしまっていたのだ。
「?」
ふと、近くの植え込みでがさりと何かが動く音がして、桔梗は振り返った。
動物か何かか……?
そう思って見ていると、植え込みの中から何か人影らしきものが立ち上がるのが見えた。
「誰か、いるんですか?」
まさか、幽霊ということはあるまい。桔梗は思わず人影に向かって話しかけた。
桔梗の声が聞こえたのか、人影は植え込みをかきわけ出て、こちらへと近づいてきた。
電灯の灯りが人影を映し出す。
灯りの下に立っていたのは、若い赤毛の男だった。
「? あんた、こんなとこで何やってんだ?」
不躾に尋ねる男に桔梗は内心少しムッとした。
「それはこっちの台詞です。あなたこそ、こんなところで何をしてるんですか?」
「俺? 俺はここに住んでんの」
「えっ……?」
こともなげにさらりと答える男に、桔梗は驚きで目を丸くした。
公園に住んでいる……ということは、いわゆるホームレスというやつか。
男は見たところ、桔梗とさほど変わらない歳のようだ。
こんな若いのにホームレスとは、よっぽどの事情があってのことだろう。
会社にリストラされて路頭に迷う羽目になった自分も大変だが、住む家さえない公園暮らしのこの男は、自分なんかより何十倍も何百倍も大変であろうことは容易に想像がつく。
桔梗は目の前にいる男に心の中で同情した。
「なあ、シケた面してるみてーだけど、何かあったのか?」
「……」
ついさっき出会ったばかりの初対面だというのに、男は馴れ馴れしく桔梗に話しかけてくる。
男の態度に内心カチンと来た桔梗は、反射的に男を冷たく突っぱねた。
「放っておいてください。あなたには関係のないことです」
「そう言うなって。何もできねーけど、あんたの話聞くぐらいならできるぜ」
桔梗を軽くいなしつけると、男は桔梗の隣に腰掛けた。
「……どうして私に構うんです」
「ん? だって、あんた死にそうな顔してるじゃん。何か放っとけねぇなーって思って」
「え……」
そんな顔をしていたのだろうか。確かに心地よい感情を感じていたのではないことだけは確かだが。
「なあ、何かあったんだろ? 俺でよければ話ぐらい聞くぜ? 何でもいいから話してみろって」
「……」
促すように畳み掛ける男の言葉に桔梗の心は揺れた。
果たして、出会って間もない何も知らない初対面の人間に、自分の身の上話など話してもいいものだろうか。
だが、少年のように屈託のない雰囲気をまとった男を見ていると、なぜだか不思議と心動かされるものを感じる。
本当は誰にも話すつもりなどなかった。だけど……。
男の少年のような自由な無邪気さに導かれるように、桔梗は重い口を開き、話し始めた。
「実は今日……勤めていた会社をリストラされまして」
「会社クビになったのか。そりゃ、大変だったな」
「ええ……まあ、前々から上司には散々言われ続けていたんですけどね。“お前なんかクビだ”って」
桔梗は男に、勤めていた会社で上司から酷いパワハラに遭っていたことを話した。
どんなに頑張って仕事をして、成果を上げても、上司は決して認めてくれはしなかったこと。
そのくせ、たとえ些細なことでもミスをした時は酷く罵られ、暴力は日常茶飯事だったこと。
「どうしてそんなとこにしがみついてたんだ? そんな酷い会社さっさと辞めちまえばよかったのに」
「……仕事自体は好きだったんだ。だから辞めたくはなかった。それに、自分から辞めれば、逃げたことになる。それだけは我慢できなかった」
口の中が乾き、手が震える。
押し殺していた感情が徐々に解きほぐされ、心の表面に浮かび上がってくるのが分かる。
「……っ……どうして……こんな目に遭わないといけないんだ……!」
静かな闇を裂くように、辺りに桔梗の叫び声がこだました。
押さえきれない感情の渦が胸の奥から湧き上がり、涙となって溢れ出る。
とめどない嗚咽は号泣へと変わり、桔梗は男の前で声を上げて泣き続けた。
「……」
大声を上げて泣く桔梗を、男は静かに見つめていた。
やがて、泣き声が収まり静かになった頃、男は震えている桔梗の肩にそっと手を置いて呟くように言った。
「……辛かったな」
「! あなたに何が……」
分かるんだ、と言いかけて桔梗はハッと口をつぐむ。
客観的に考えてみれば、自分よりもこの男の方がずっと過酷な状況に置かれているはずだ。それなのに、自分は……。
「分かんねえだろうな」
言いかけた桔梗の言葉を、男は静かな声で断定するように言い切る。
そして、今度は屈託のない調子で軽く言った。
「でもまあ、俺も色々あったからさ。辛いって気持ちはよく分かる。あんたとは立場とか違うだろうけど」
男の眼差しが優しく桔梗を見つめている。慈愛に満ちた穏やかで優しい眼差しだった。
「……」
乾いた涙の跡が残る顔で男を見つめながら、桔梗は心の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
こんな風に人の優しさに触れたのは、本当に久しぶりのことだったような気がする。
気がつくと、あれほど重苦しかったはずの心は、重荷を取り去ったかのように軽く楽になっていた。
「楽になっただろ? スッキリした顔してるぜ」
冗談っぽく言って、男は少年のような屈託のない笑みを浮かべた。
「ええ……」
本当は嬉しかった。何も知らない初対面の自分の話を最後まで聞いてくれたこの男の優しさが。
ふと、桔梗の心にある考えが浮かんだ。
「あ、あの……」
「?」
ためらいがちに口を開く桔梗に、男は不思議そうな顔をする。
「もしよければ、私の部屋に来ませんか?」
「え?」
突然の桔梗の発言に男の顔が驚きに変わった。
「い、いいのかよ? ってか、マジで……?」
「ええ。何もない狭いところですけど」
出会ったばかりの見知らぬ初対面の人間を部屋に招待するなんて、常識では考えられないことだ。
だが、その時はなぜか、自然とそんな言葉が口を突いて出た。
「そう言えば、まだお名前きいていませんでしたね。私は桔梗といいます」
「桔梗か。俺はザクロ。よろしくな」
2010/03/15UP