きみと出会えた幸せに
2
桔梗は、公園で出会ったホームレスの赤毛の男……ザクロを連れ、公園から歩いて数分の自分の部屋に帰っていた。
ドアを開け、中に入るように促すと、ザクロがぽつりと呟く。
「いいとこに住んでるんだな」
「そうですか?」
桔梗の部屋はいたって普通のワンルームマンションだったが、確かに公園生活に比べればはるかに上等だろう。
桔梗は玄関でザクロを待たせると、自分は部屋の中に駆け込み、クローゼットからバスタオルを引っ張り出した。
「まずはシャワーを浴びてきてください。着替えは私のを適当に使ってくれていいですから」
「お、おう……」
ダッシュで戻ってきた桔梗は、腕に抱えていたバスタオルをザクロに押し付けると、着替えの場所を教えた。
いくら何でも、公園生活を送っていたホームレスの男をそのまま部屋に上げるのには抵抗がある。
まずは風呂で汚れを落としてきてもらうのが筋というものだろう。
「ん……じゃ、風呂借りるぜ」
「どうぞ」
風呂場に向かうザクロに返事をすると、桔梗は奥の居間へと向かった。
居間でスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。
キッチンにある冷蔵庫から開けさしのワインボトルを出して、グラスに注いだ。
「……」
居間のイスに腰掛け、ワインを口にすると、わずかではあるが今日一日の疲れがマシになるような気がした。
やがて風呂場のドアが開く音がして、ザクロが姿を現した。
バスタオルを頭から被り、桔梗の服に着替えたザクロは、上機嫌な様子で鼻歌を口ずさんでいる。
「あー、気持ちよかった。ちゃんとした風呂に入るのなんて久しぶりだぜ。やっぱ風呂はいいな!」
「いつもはどうしていたのですか?」
「公園の水飲み場とか噴水とか使ってた。生活の知恵ってやつよ」
「そうですか……」
さも当然のように答えるザクロに、桔梗は返す言葉が見つからなかった。
まあ、金がない公園生活なら当然のことだろう。自分にはちょっと想像がつかないが。
+++
翌朝。スーツに着替えた桔梗が出かける身支度をしていると、すぐ側のソファーで大あくびが聞こえた。
見ると、ソファーで布団にくるまったまま、ザクロが大きな伸びをしていた。
桔梗はくすっと笑みを浮かべると、ソファーに寝転んでいるザクロの顔を覗き込む。
「ハハン、おはようございます。ザクロ」
「……んー……はよ……」
桔梗を見上げるザクロは眠そうな寝ぼけ眼だ。
「これから私は出かけてきますね。冷蔵庫の中のもの適当に食べてていいですよ」
「ああ、悪りぃな……ところで、どこに行くんだ? 会社クビになったんじゃねぇのか?」
「次の職探しです。このままだと来月からは収入がなくなるので、家賃が払えなくなってここを追い出されてしまいますから」
桔梗はさらりと答えると、
「では、行ってきます」
長い髪をふわりと躍らせ、部屋を出て行った。
ドアの閉まる音が響き、部屋は再び静かになる。
「……」
ザクロはゆるやかなウエーブを描く赤い髪を無造作にかき上げると、身体を起こした。
窓から差し込んでくる明るい朝の光が眩しくて、思わず目をすがめる。
ふと、ザクロは昨夜の出来事を思い出していた。
『もしよければ、私の部屋に来ませんか?』
どうして桔梗は、あんなことを言ったのだろう。
出会ったばかりの見ず知らずの他人(しかも公園暮らしのホームレスだ)に、いきなりそんなことが言えるものなのだろうか。
故郷の村人達は誰一人、自分に手を差し伸べてはくれなかったのに。
会社をクビになって求職中、ともなれば、桔梗は一人で生きていくのも精一杯のはずだ。
なのに、彼は出会ったばかりの見ず知らずの自分に手を差し伸べてくれた。
「桔梗……」
明るく静かな部屋に、呟くようなザクロの声が静かに響く。
桔梗のために、何かしたい。
+++
夕方、帰宅してマンションのドアを開けると、何やらいい匂いが桔梗の鼻腔をくすぐった。
この匂いは……。
「おう、お帰り。帰ってきたか」
玄関で立ち止まっていると、桔梗を出迎えるように奥の部屋のドアが開き、声と共にザクロが顔を出した。
いい匂いは、ザクロのいる明かりのついた部屋の中から漂ってくるようだ。
「ただいま。帰りました」
ザクロに応えながら、桔梗は胸の奥がほんのりと温かくなるのを感じていた。
帰ってきた時に明かりがついていて、誰かが「おかえり」と言って出迎えてくれるなんて、もう何年ぶりのことだろう。確か、実家を出て以来だったか。
どこか面映いような、くすぐったいような、そんな気持ちを胸に感じながら、桔梗は部屋に入った。
そして、キッチンで湯気を立てているいい匂いの正体に思わず目を見張る。
「?! これは、まさか……あなたが作ってくれたのですか?!」
「おう。パスタゆでて、トマト入れて煮込んだだけだけどな」
感嘆の声を上げる桔梗の視線の先には、美味しそうな匂いのするトマトソースの鍋と、程よい具合に茹で上がったパスタのザルがあった。
ザクロは照れくさそうな表情で笑うと、
「こういうのはあんまり得意じゃねえから、美味くはないかも知れねえけど……まあ、食えないことはないと思うぜ」
皿にパスタを盛り付け、鍋のトマトソースをお玉でたっぷりすくって、パスタの上にかけた。
「着替えてこいよ。一緒にメシ食おうぜ」
「そうですね……」
桔梗はふふっと微笑むと、キッチンから離れ、ネクタイを緩めながらクローゼットに向かった。
やがて私服に着替えた桔梗は、ザクロのいる食卓へと戻ってきた。
テーブルの上には、真っ赤なトマトソースのかかったパスタの皿が美味しそうな匂いと湯気を立てている。
「ハハン、お待たせしました、ザクロ。では、頂きましょうか」
「おう。もう待ちくたびれたぜー。桔梗が帰ってくるの、ずっと待ってたからよ」
「私を待っていてくれたのですか? 先に食べていてくれても良かったというのに……」
もう腹ペコ、と分かりやすいリアクションをするザクロに、桔梗は少し驚いたような表情を見せる。
「いや、やっぱさ、桔梗と一緒にメシ食いたいなって。……まあ、つまみ食いはしてたんだけどよ」
照れたような笑顔を見せるザクロに、桔梗も自然と穏やかな笑みがこぼれるのを感じていた。
そう言えば、誰かと一緒にこうして部屋で食卓を囲むというのも、本当に久しぶりのことだ。
いただきます、と言って、桔梗はトマトソースの絡んだパスタを口に入れる。
次の瞬間、彼の口からは反射的に感嘆の声が漏れ出ていた。
「! 美味しい……」
「そっか、よかった」
夢中でパスタを口に運ぶ桔梗を、ザクロは向かいの席から嬉しそうな表情で見つめている。
「でも、何でまた……」
「ん?」
「どうして、わざわざ夕食を作ってくれていたのですか?」
「いや、桔梗には世話になってるからさ。だから、何か俺にできることをしたいなって思って」
言って、ザクロはへへっと照れたような笑みを浮かべる。
「ありがとうございます……ザクロ」
「いや、俺の方こそ。喜んでもらえたみてーで、よかったぜ」
屈託のないザクロの笑顔と、トマトソースの優しい味は、桔梗の一日の疲れを癒してくれるような気がした。
フォークにパスタを絡ませながら、ふと思い出したようにザクロが口を開く。
「それにしても、まともなメシ食ったのも久しぶりだな」
「いつもは何を食べていたのですか?」
「食い物屋の裏口に捨ててある残り物のゴミとか。ダンボール食ってた時もあったな」
「ダンボール?!」
事もなげに答えるザクロに、桔梗の素っ頓狂な声が食卓に響く。
桔梗の驚きようがよっぽどだったからか、ザクロは少しムッとしたように眉間に皺を寄せると、
「バーロー、言っとくが、いつもじゃねーぞ。食う物が全くなくて、腹が減って仕方がねえ時にな。あれ、水でふやかして食うとちょっとは腹の足しになるんだぜ?」
「……」
ダンボールの味がどんなものなのかは知らない。だが、少なくとも好き好んで食べるような美味いものではないだろう。
得意気に語るザクロに、桔梗はまたしても、自分の知りえない世界を垣間見たような気持ちになった。
2010/09/28UP