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ミルク(3)
その小さな身体でその大音声は反則ではないか、と固まった思考の片隅で思ったとき、ドアが勢いよくひらいて、白衣を着た中年の女性がはいってきた。
「予想的中ってところね、御苦労さま、L」
ほ乳瓶を片手ににこやかに微笑む女性はベッドに回り込んだ。
見つかったことで慌てたものの、瞬時にこの場の打開策を巡らせたが女性の正体に気付いたのも同時で、呆気に取られてしまった。
「………化けましたね」
「絶賛お試し中。すぐわかった?」
泣き叫ぶ赤ん坊のタオルケットをとり、抱え込む動作は手慣れていた。
「……知らなければ分かりません。それにしてもその声はどうしたんですか、言葉遣いまで」
その正体は二十代の男性である。そうであるのだが、外見、立ち居振る舞い、雰囲気、声まで、まるで四十代の女性そのものである。
「彼」が変装しなければいけなくなったのは、先日解決に至ったとある事件のためで、自分に原因があるのだが、だからといって性別まで変えるとは思いもよらなかった。
「声音は譲歩、言葉遣いは完璧を目指したの」
「譲歩…ワイミーさん?」
「そう」
抱き上げられた赤ん坊は、彼の指を放さなかった。苦笑した女性は顔をあげた。
「悪いけど、ちょっとそのままでいてくれる? この子のご飯なのよ。おなかがいっぱいになったら放すから」
そう言われれば頷くしかない。それにしても、赤ん坊を抱く仕草の違和感が無いのが恐ろしい。
さっきまでふわふわだった髪が汗でびっしょりと濡れて、額に張り付いている。ほ乳瓶の先をくわえると、ミルクを一心不乱といった風に飲みだした。
ようやく放された指が赤くなっていた。痛くはないが、まじまじと見つめてしまう。女性はくすくすと笑うと、飲み干されて空になったほ乳瓶を白衣のポケットにしまい込んだ。
「あら、ミスター・ワイミー。お越しでしたの」
その言葉に、彼は飛び上がりそうになった。一番、知られてはいけない人物に見つかったのだ。逃げ場はない。
セキュリティを一時的にでも無効にしたことを知られては、今後一週間、おやつ抜きは必至だ。それはまずすぎる。
「L」
「………」
平然とした風を装い、振り返った。頭に手をぽんと置かれる。赤ん坊の手とは比べようもないほど大きな手、ふと、ミスター・ワイミーにも赤ん坊のころがあったのだろうかと、思ってしまう。
「先週に一新したばかりのセキュリティをあっさりと無効にしましたね。見事です」
「………」
ミスター・ワイミーの表情が読めない。いつもの穏やかな笑みを浮かべていているものだから、うっかり安心してしまいそうになる。しかし、怒っているときとそう表情は変わらない人なのだ。いや、これは読めなくても運命は決まった。
Lは明日からの一週間を思うと途方に暮れそうになった。しかし。
「なにも赤ん坊を見るのにここまでしなくても、私に言えばよかったのですがね、L。おやつの内容をかえなくてはいけません」
「………抜きじゃなくて? ワイミーさん?」
ミスター・ワイミーの前でだけは11歳らしい仕草を見せるLは見上げた。ワイミーさんは微笑んでいる。
「この子は一週間ほどここにいるから、おやつはここで食べる、そしてこの子のミルクはLが面倒をみる、ということではどうですかな」
「………パソコン、持ってきていい?」
「いいですとも」
女性がにこにこと微笑んで、Lの前にあやしていた赤ん坊を改めて見せた。
「じゃあ、あいさつがわりね。抱っこしてみなさい。両腕を出して」
一瞬、不安そうな目をミスター・ワイミーに向けて、すぐに女性に向いた。
▽
Lが覚束なげに赤ん坊を抱くのを見やって、ワイミー氏は女性に小さくつぶやくように話しかけた。
「しかし……その変装は……」
「懐かしいでしょう。調べ上げましたよ、ミスター・ワイミー」
ふふふふふと、してやったりという含み笑いの女性に、困惑しきって頭をふるワイミー氏だった。
この「青年」の変装は遠い昔に亡くなった彼の想い人だった。出会ったときには、情熱を燃やすほどおたがい若くなかったし、結婚も考えなかったが、やさしい、かけがえなのい時間を共有できる人だった。
「整形なんかよりよほど安上がりで有効でしょう。声帯につけた変調機は快適ですよ。……ときに、これはあとで取り外せるんでしょうな?」
「取り外したいのかね?」
「………ほんとうにいい性格をしてますよ、なんで養護施設なんか起こそうとしたんです」
ワイミー氏の冗談を皮肉で返すと苦笑した。
「バリエーションを増やしていきますんで、ご安心を」
11.09.17
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