一緒に歩こう 弐
こちらを睨み付ける潤。 身体を濡らす隼人の血。 裕之は逃げ出すように駆け出した。 どちらに向かっているのか分からないまま、彼は山を彷徨う。 曇り空からはついに雨粒が落ちて来た。 どのくらい時間が経ったのか分からない頃、濡れた石に足を滑らせて彼は転ぶ。その場にうずくまり、頭を抱えて彼は叫んだ。言葉にならない叫び声を上げた。 ……その一部始終を見ていた影があった。見るにみかねて彼は裕之の元に舞い降りる。 彼の気配を感じとり、顔を上げる裕之。 「……ワズン……か」 魔王の片腕、とも言うべき存在の魔物、ワズンであった。 「何があった?」 言いながらワズンは手を差し伸べる。 「一族の中で何があった?」 もう一度尋ねる。 その手を取る事無く裕之は立上がり、ワズンとは逆方向へ足を踏み出す。 「……こちらに来るか? 私たちはお前を迎えるぞ」 裕之は応えない。 数歩歩いたところで、裕之の身体がふらりと揺れた。そのまま膝から地に落ちる。 「おい!?」 ワズンが慌てて裕之の身体を抱き上げる。 その目に、裕之の右腕で鈍色に光るものが入った。その掘られた文字を見つけ、唇をきつく噛み締めた。 「馬鹿共が……!」 裕之の身体を抱きかかえ、ワズンはふわりと宙に浮いた。彼は裕之の故郷を目指す。 「彼の家は何処だ?」 「えっ!?」 村に降り立ったワズンがそこにいた住人に声を掛けると、皆驚き一瞬固まった。しかし彼の腕に抱かれた人物を見ると、 「裕っ!」 その中から一人、男が飛び出してきた。 彼は裕之の顔が真っ赤なのに気付くと、その額に手をやる。熱い。 とにかくこちらに、と言う言葉に従い、裕之を抱えたままワズンは男の後を追い村外れに向かう。 「……余計な事を」 響輔から一連の経緯を聞いたワズンは深く息を吐いて吐き捨てた。 強い雨に長時間打たれ裕之は熱を出してしまったらしい。苦しそうに呼吸をしている。 「何故彼を助けてくれたのですか……?」 心配そうに裕之の顔を見ながら、響輔。 少し考えたあとワズンは、 「彼の才能、だ」 言うと響輔に背を向けた。 ……と、 「裕ーっ!!」 大声と共に飛び込んで来た人影がワズンの胸にぶつかった。 「ごめんなさいっ……と……え、えええ? あっ、ごっごめんなさいっ、私慌てていてっ!」 ワズンの顔を見上げ驚きの声を上げ慌てふためくのは勿論木乃葉であった。 数歩後退りしたところでその先に響輔の姿を見つけ、訳が分からなくなったようだ、ワズンの顔を恐る恐る見上げた。 苦笑を浮かべるワズンに木乃葉は目をぱちぱちさせる。 「彼はそこにいる」 「あっ……裕! 裕っ……!」 自分の目的に気付いた木乃葉はワズンの脇を抜け裕之の元へと駆けた。 「ど、どうしたのぉ!」 裕之の状態を見て泣きそうになる。 その声を背中で聞きながら、ワズンは歩き出す。 当主に会って真意をただそうと思っていた。 翌朝、裕之が目覚めた。一晩眠り熱もだいぶ下がってきた。 ほっと響輔は息を吐く。 だが、すぐに異変に気付いた。 一言で言えば生気がない。 響輔の考える最悪の事態が現実のものになってしまったのだろうか。 呼び掛けても応えはない。 そこに謙が訪れる。 「どうですか」 「まだ分からない……まだ」 謙の顔が厳しくなる。 やがて木乃葉も訪れた。 そしてどこか遠くを見つめ口を開こうとはしない裕之の姿に目に涙を浮かべた。 「ねえ、裕、こっち向いて、私のこと分かる?」 裕之の肩をがっしりと掴み、必死に揺らし彼の注意を向けようとする。 しかしやはり反応はなかった。 「裕、壊しちゃった戸の変わりに新しいの作ったの、兄様にも手伝ってもらって……だから、安心してっ……ねえ裕、ひろ……ひろぉ……」 「木乃葉、もう少し待ってみよう、今は身体を休ませよう」 「なら、あたしが看てます」 「……木乃葉……?」 「裕を助けたいの……あたしにやらせて」 懇願するように彼女は言った。 分かった、と二人は彼女に希望を託す。数日様子を見てみることにした。 一週間ほど経った頃、ワズンは再び裕之を訪ねた。 そこにあったのは、浮かない顔であった。 響輔が振り返る。 「ああ……」 まるでワズンに助けを求めるかのような表情をしていた。 「心が折れた、か」 ワズンは膝を折り裕之の顔を覗きこむ。何処を見ているのか…… 溜め息を吐き、ワズンは振り返った。仕方ない、彼は、 「彼を私たちの所に貸してくれ」 響輔と謙がはっと顔を上げた。 だが木乃葉だけは、 「何故ですかっ」 と声を張り上げる。 「ここには奴がいる。それに、あそこはこちらと違い何もない、少しは落ち着いてくれるかもしれない」 木乃葉の反論を無視しワズンは裕之の手を取った。 裕之はされるがままに立ち上がる。 「待って、待ってよ!じゃあ私も連れて行って!」 「木乃葉、私たちだけでは彼を助けられないのかもしれない」 「でも……でもぉっ……!」 「私たちにも少し手伝わせてくれないかな?」 「ふぁ……」 目を真っ赤にしながら、木乃葉。 まだ少し納得できていないようでもあったが謙が必死に説得し、最終的には頷いた。 有り難う、とワズンは微笑み、裕之を連れて外に向かった。 「裕。私待ってるから、戻ってくるの待ってるから……」 木乃葉が絞り出すように言った言葉は裕之の耳に届いたのか…… ――北へ。 遥か北の大陸へ。 ワズンは魔王の住む屋敷の前に降り立った。 ぼんやりとその建物を見上げる裕之。扉を開きゆっくりとした足取りで中へ足を踏み入れる。 高い天井を見上げ、深い息を吐く。 「アイレス様に会うか?」 隣りに並んだワズンが言う。アイレス、とは勿論魔王の事だ。 「……?」 「戦いの傷を癒すために休まれている。会いたいか?」 裕之は困っているようだった。 「気が向いたら行けばいい。一番奥にいらっしゃる」 そうして裕之は迎えられた。 ……ぼんやりと空を見上げる。 アイレスの館に来てから少し経った。ここは小高い丘の上にあり、見晴らしがとてもよい。遠くを流れる雲を見上げるのが彼の日課になっていた。 空を飛んでいた鳥が舞い降りてきた。裕之が手を差し出すとそこにとまる。 「見掛けない顔だな!」 突然喋り出した鳥に驚く。 「そう驚くなよ!久し振りに来たら人間がいたもんだからおいらも驚いたんだ」 人間ではないんだ、言おうとも思ったが、やめた。 それよりも鳥だと思っていたが、よく見ると魔物であるようだった。 「何だ、驚いて声も出ないか? 全くなぁ」 あきれたように言うと魔物は羽を羽ばたかせた。 「アイレス様に一喝されたら驚いて逆に声も出るんじゃねぇか? ま、次来た時には声出せよ!」 笑って言うとそのまま何処かへ飛びさってしまった。 その方角をぼんやりと眺めながら、数日前にワズンにアイレスに会わないかと言われた事を思い出した。 行ってみようか、彼は思った。 言われた通り館の一番奥の部屋を目指した。 アイレスがいつも居る部屋の奥に彼の休む部屋がある。静かに扉を開き、中を覗きこんだ。 青い光が巨大な四角錐を形成し、その中でアイレスが眠っていた。 導かれるように近付き、四角錐に手を触れた。 ばちっ……火花が飛び散るような音がした。思わず手を引っ込める。 すると、 「何をする!」 横から殺気が迸る。 そちらに目を向けると、そこには男がいた。どう見ても人間の男が。年齢は自分よりも上だろうか、裕之は男を見やる。 「先日アイレス様に無礼を働き、更に無礼を重ねるか」 男の目は険しい。 「アイレス様に何をしようとした」 「……」 「何だ?」 「……おれは……」 「二人とも、そこまでにしておきなさい」 仲裁の声が入った。 二人はそちらを、つまりは四角錐の中を見た。 いつの間にか起き上がっていたアイレスがこちらを見ていた。 「彼と話がしたい。席を外してもらえないか」 アイレスは言うと、男は「何故」と言いたげに裕之を睨んだが、彼の命令だからと部屋を出た。 裕之は改めてアイレスと向き直る。 こうして向かい合って話すのは初めてだ。裕之は少し緊張する。 その緊張を見透かしてか、アイレスは口許に手を当て、微笑んだ。 「ワズンから聞いたよりも、大丈夫そうだね」 開口一番、そう言った。 「驚く事はない。傷を癒すために休むとは言っても手下の統制、大地との繋がりは常にしなければならない。完全に眠る事はしないのだよ」 「傷は……」 「ふふ、人間とはなかなか強いものだな、長い間忘れていた。 ……しかしそれよりも、だ。低級魔が彼を狙わないようにワズンたちを張らせていたのに、やってきたのはお前だった」 裕之は俯く。 アイレスは口を噤み裕之を眺めた。彼の身体が小さく見えた。 「……おれは、あなたを裏切り、隼人様を裏切った」 「だからどうした」 「俺を罰してください」 アイレスは呆れた。 「馬鹿者」 一喝する。 びくっと裕之の身体が震えた。 「隼人は何を言っていた?」 「……隼人様……?」 「私はお前が何を言われたか知らない。だが、彼がお前を恨むような事を言ったとは思えない。どうだ」 頭を抱えて裕之は蹲った。思い出したくない瞬間の事が頭をよぎる。 隼人の言葉は頭の中にしっかりと刻み込まれている。 「彼が今のお前を見たら酷く悲しむだろう。何のために彼がお前に命を差し出した? 向こうで密かに聞いている「彼」も呆れているよ」 「……ッ!」 逃げるように裕之は部屋を出た。さっき部屋を出た男とすれ違ったが、彼の視線が痛かった。 ……惨めだ。そう思った。 |