第六話 空にかかる虹
――身体が熱い。 彼はそれで目が覚めた。 ゆっくりと瞳を見開くと、大きく息を吐く。 何となく、身体がだるい。 起き上がろうと思ったが、やめた方がいいだろう、と判断して、彼は首を動かせる範囲内で部屋の様子を探った。 (ここはどこだ……?) そこは見慣れない部屋だった。 高い天井に白い壁の広い部屋。しかし調度品といってもいいようなものは、彼が今横になっているベッドのみしか見当たらない。そして壁はある一面だけはほぼ壁一面ガラス張りであった。 外の木々の間から光が差し込み、彼の顔を照らし出す。 「おはよう、久しぶりだね」 声が掛かった。 いつの間にか、彼の枕元に一人の青年が立っていた。その手には洋盃と水差。 「――君は……ああ、<君>か」 「随分と酷い熱だ」 「……大丈夫だ、これくらい」 青年の手を制し、彼、裕之は少しだけ身体を起こした。 そんな彼に青年は冷たい水の入った洋盃を差し出す。 それを口にする彼の額に、青年は手をあてる。……とても熱い。 「うぅん……」 冷たい水に満足したのか、洋盃を青年の手に返すと、裕之はすぐにベッドに身を沈めた。 「冷たいね、君の手」 「それは熱の所為だ。少しでも楽になるなら触ってくれ」 そう言いながら、青年は手を差し出した。 その手を裕之が両手でぎゅっと握り締める。 そのまま、暫く時間が経った。 「――<君>、来るのか、アイレスが……」 ポツリ、と裕之が呟いた。 青年は顔を上げ、答える。 「そのようだ」 その答えと同時に、部屋の扉が開く。 部屋に入ってきた人物はまっすぐに裕之のもとに向かってくる。 「25年ぶりだな、裕。……まさか、こんな形で再会するとは、思ってもいなかった」 そう言った人物。それは、魔王、と呼ばれる魔物、ブレノスアイレスそのものだった。 こんこん。 真夜中にノックの音が響いた。 分厚い本を読んでいた青年は顔を上げ、扉を見やる。 首を傾げながら本を置き、彼は眼鏡を外す。そのまま、扉に向かい、開いた。 扉の外に立っていたのは、彼の予想していなかった人物であった。 ――雨に濡れた潤と久がそこにいた。 理由も聞かず、彼は二人を招き入れる。部屋の明かりを少し明るくする。 「突然すまない、清真」 「いえ、大丈夫です。ああ、そちらの部屋をお使いください。……少し、散らかっていますけれども」 そう言いながら、この家の主である清真は二人を奥の部屋に入れ、扉を閉めた。 そして彼は読みかけの本を持ってもうひとつの部屋に行き、すっと扉を閉めた。 向かい合う久と潤、そして久の隣に座るウィンと白。 しかし一行は押し黙り、互いに見詰め合うだけであった。 やがて、潤が静かに口を開く。 「――何が、訊きたい?」 久はその問いに、少し考えてから答える。 「……25年前、何があったのか。そのすべてを知りたい」 誰もが口を噤み、知ることの出来ない真実。 今は亡き、隼人の行動。 そして、裕之のこと。 知らないことが多すぎる。そのすべてを、知りたかった。 しかし、すぐには潤は口を開いてくれない。ただじっと瞳を閉じて、何かを考えていた。 白はそれを見て、首を傾げながら潤の元にぺたぺたと歩いていくと、彼の手をぎゅっと掴んだ。 『何でいってくれないの?』 やがて、潤は大きく深呼吸をし、白の手を離すと呟いた。 「あれは、私たちだけの胸のうちにそっと秘めておかなければならないことだ」 「<あれ>って、何ですか?」 それで会話を終わらせるのがいつものことである。しかし、久はそれに食い下がろうとした。 少し、寂しそうな表情に潤のそれが変わった。 「……裕が、お前から離れようとする理由さ……」 裕之がワズンと共に姿を消した山の中で、潤はウィンから久が裕之と出会ってからのことを簡単に聞いていた。 それだけで、彼には大体状況が掴めた。 「だがね、それは私の口からは言ってはならないことだ。……彼自身が言わなければならないことなんだ……」 「それって、」 口を挟もうとしたが、今度は潤は口を挟ませてはくれなかった。 「そうだね、どうやって言えばいいのだろうな。……そう、彼は――裕は、あの時以来、自分に戒めを与え続けているのだよ」 そういう潤の瞳は、どこか遠くを見つめていた。 薄暗いこの部屋を漂う空気は暗く、澱んでいる。 まるで、久と潤、二人の心の中を表しているかのように…… このような空気を何とかしたい、とウィンは思うけれども、どうすることも出来ない。 彼女はそんなもどかしさを感じながら、ただ久の表情を見上げていた。 「――もし、お前が真実を知る勇気を持っているのならば……裕の所に行けばいい」 ぽつりともらした潤の言葉に久は大きく反応する。 彼は立ち上がった。 「行く。すぐ行く!僕はすべてを知りたいんだ!」 先ほどまで、ずっと暗く、澱んでいた久の瞳に、光が宿った。 それに、内心はほっと胸をなでおろしながら、潤は目を細め、久に目をやる。 きっと後悔するぞ――そう言おうと思ったが、その久の表情を見てしまったがために、彼は口を噤むことにした。 そして、その代わりに、 「裕は、魔王の元にいる」 とだけ言った。 「ええっ……」 それに大きく反応したのは久ではなく、ウィンであった。 「それ、やばいじゃない!久は何でも出来るけれど……相手が魔王なんて、かなうはず無いわ……」 しかし、一度決意した久の心は、そのような言葉では決してくじけない。 口元に笑みを浮かべた久は優しくウィンをなでる。 「義父さん、魔王はどこにいるの?」 その言葉に、迷いなど無かった。 魔王は久たちが暮らす王国のある大陸にも、そのすぐ隣のもうひとつの王国のある大陸にも、いない。 だが、25年前に隼人と共に魔王と闘った潤は、居場所を知っていた。 魔王の居場所は―― 「――<月ノ台地>」 潤が言ったその名前。 しかし、久にも、白にも、そしてウィンにも、その大陸の名は聞きなれないものであった。 「この大陸のはるか北にある、誰も知らない大陸だ」 「でもどうやって行くのよ。この国には大きな船なんてないわ。せいぜい陸の見える範囲しかいけない漁船よ。 私の力を使っても、そんな遠くに貴方たちを運べないわ」 だからやめましょう、ウィンはそう思った。 「……ひとつだけ、心当りがある」 ウィンは驚き、振り返って潤を見た。 大きく久が頷いた。それで行く、彼の瞳はそう言っていた。 もう、彼は誰にも止められない。そう、潤は確信した。 そして、彼も決意した。 (私も、真実から逃れようとしていたのだよ、裕。……だが、この子を見ていたら、もうそんなことはしてはいけないと分かったよ) 「明日、裕の故郷、<忍一族>の住むところへ行く。いいな」 「……全く、あの人は何でこう何日も帰ってこないのかしら」 紅い着物で、黒く長い髪は後ろで束ね、巻き上げられた美しい女性がそうぼやいていた。 日が高く上っており、あたりは明るい。 彼女の住む家の周りも明るく照らし出されている。しかし、彼女の心は、暗い。 家の周りは森。近くには家は無く、少しはなれたところに集落が見える。 森に入るとすぐに斜面が現れる。ここは、山の中で、切り崩され、平らにされた土地であった。 ため息をつきながら立っている彼女。そんな彼女はよく知った気配が近付いてくるのを感じた。 「あら、久しぶりじゃない。何かあったの?」 振り返りもせず、そっけなく言い放つ。 そんな彼女の横に、男が並んだ。 「全く、いつもお前は連れないな……」 男は苦笑しながらぼやく。そうしてから、少し姿勢を正し、彼は彼女の耳元でささやく。 「木乃葉、ちょっと厄介なことになった」 「……あの人がまた何かやらかしたの?」 木乃葉、と呼ばれた彼女は表情をぴくり、とも動かさずに彼に尋ね返す。 うーん、と少し唸ってから、彼は、 「まぁ、それに近い」 「叔父上!」 ……と、突然、明るい声が響いた。 二人が振り返った先には一人の少年がいた。 「慎!」 少年の名は慎一郎。彼は叔父である男の胸に飛び込んだ。 男も、表情を柔らかくし、少年の頭を優しくなでる。 少年の母である木乃葉も微笑を浮かべてそれを見守った。 「ねえ叔父上。父上はまだ帰ってこないの?すぐ終わるお仕事だって言っていたのに……」 「あ、あぁ、悪いね、急に別の仕事が入ってしまったんだよ」 ふうん、と寂しそうに肩を落とした少年。 そんな時に、 「風ノ宮殿」 男の名前を呼ぶ声。 どうした、と男、風ノ宮謙は返し、木乃葉に目配せすると慎一郎の頭をぽん、とたたき、そのまま声が掛かった方向へ駆けていってしまった。 そして、残された木乃葉は慎一郎を家に入れ、 「ちゃんと戻ってくるから、ここで待っていて」 言うと、返事も聞かずに、兄である謙の後を追っていった。 潤が先に立ち、その後を白を抱えた久とウィンが追う。 一行が向かうのは裕之の故郷であり、<忍一族>が人目を避けて暮らす小さな集落。 高く、険しい山の高い所にあるその集落に向けて山道を進む。 この山には獣などの気配は全く感じられなかった。山に足を踏み入れた瞬間、何故か久は背中がぞくりとする感覚を受けた。 暫く進み、ようやく集落らしいものが視界に入ってくる。 それに久が気づいた瞬間、前を歩いていた潤は突然身を躍らせ、何者かとつかみ合った。 同時に久は刀を抜き、背後から振り下ろされた刃をはじく。 「何者」 相手が尋ねた。 「山崎の友の潤」 そう潤が返すと、相手は飛びのく。しかし、油断なくこちらを見ていた。 「何用」 「――飛龍の助力を得たい」 そう言い、続けた。 「……そちらが考えている通りのために」 暫く向かい合っていると、集落の方から一人の男が駆けて来た。 その人物を、潤は知っていた。 「確か、ここをまとめる……」 「そう、風ノ宮謙だ。 ……しかし、貴方ならおわかりでしょう、こちらの事情くらい」 「ええ、分かっています。それを承知でお願いしたいのですよ」 向かい合う潤と謙。 しかし、その間の空気は冷め切っていた。 「あの時はあなた方の所為でこちらは大変だったのですよ」、と謙。 「しかし、それらによってこちらも大変な苦痛を受けましたから」、と潤。 「今回もそれをやられてしまっては……次はどうなるか分かりますか?」、と謙。 「さあ、分かりませんね。しかし、どんなことがあろうとも、私はあそこへこの子を連れて行きますよ」、と潤。 まるで、二人の間にばちばち、と火花が散っているかのような会話である。 そんな二人の間を何とか取り持ちたい、と思う久であるが、何も知らない彼には出来ることなどない。 何よりも、うっかり口を挟んでこれ以上事態が悪化したら大変だ、と、彼はぎゅっと口を噤んでいた。 そんな時、空気が動いた。 その場にいた全員が一斉に同じ方向を向く。 誰かが、馬に乗って山を駆け上ってきている。 それに目の色を変えたのは、謙たち、忍一族の者たちであった。 その人物は馬から降り、こちらを見上げた。 それは久が知る人物であった。 そういえば、清真の家を出るとき、潤は彼に手紙を誰かに渡すように言っていた。それがこれなのだろうか。 その人物は、久を従える王国の王、カナリアに忠誠を誓う騎士団のトップである…… 「――鷹彦さん」 彼、鷹彦は目で久に挨拶をし、そのまま潤の脇を通り過ぎると、謙の元まで進んだ。 謙の表情は、潤に目を向けながら苦虫を噛み潰したようなものになる。 「図ったな」小さく呟いてから、「……久しぶりだ、活躍の話は沢山聞いているよ」 少しだけ表情を緩めた彼が、優しく鷹彦に声をかけた。 「いえ、すべては皆様のお陰です。 しかし、挨拶の前に私からお願いがあります。飛龍をお借りしたいのです」 「…………」 「お願いです」 「…………彼らにではなく、君になら貸そう。但し、彼女が彼らを気に入ったらな」 不機嫌なのか、ぶっきらぼうに謙は言うと、鷹彦と久一行を手招きし、集落の方向ではない方向に向け山道を登った。 少し歩き、辿り着いたのは山が切り崩され出来た大きな平らな草原。 その中央には蒼いうろこを持ち、優しそうな大きな瞳を持つ大きな龍がいた。 その龍は飛龍。大きな翼を持ち、大空を駆け巡る龍である。 飛龍は長い首を久に向け、ものめずらしそうに眺める。そして、その目はすぐに白の元へ注がれた。 すると、白は久の腕の中からぽん、と飛び出すと、飛龍の顔の前までとことこと歩いてゆく。 『地龍ね。久しぶりだわ、地龍に会うのは』 目を細め、まだ幼く、可愛らしい白を見つめる。それから、首を上げ久に目を戻すと、 『貴方がこの子を育てているのかしら、裕之のにおいがかすかにする貴方?』 「え、あ、はい」 突然声をかけられ、驚く久。だが、その飛龍は優しく、 『色々な経験をさせて色々なものを見せてあげなさいね』 と言った。 久はそんな飛龍に近付くと、そっと首に手をふれた。 とても温かい。 『気に入ったわ。貴方に力を貸してあげましょう。貴方の瞳は希望に満ちていて、力強い。貴方なら、彼のようにはならないわね』 「……<彼>?」 『――ええ、貴方が心の底から思っている人よ』 「<あの人のようにはならない>って……?」 「空、そのことは喋ってはならないわ、あの人のために」 そういいながら突然飛龍、空の背に現れたのは紅い着物の美しい女性。 「木乃葉姉さん」彼女に鷹彦が呼びかけた。 「――鷹彦くん、久しぶりね。そして初めまして、潤さんに坊や。 でもね、鷹彦くん。きみのために言うけれども、貴方は私たちと親しくしてはならないのよ」 そういいながら彼女は鷹彦にむけ艶かしく微笑んだ。 そんな彼女はするりと空の背から降りると、先ず潤に向かう。 「私のあの人に――裕之に、刃を向けないで頂戴」 小さく潤が頷くのを確認してから、彼女はするりと鷹彦の前に身を動かした。 「なんだか……随分と立派になっちゃったのね。……やはり、人間と私たちは住む世界が違うのね」 寂しそうに、微笑った。 首を横に振る鷹彦。 何か言おうとして、その前に久に顔を向ける。 「先に行っていてくれ。私は、ここで少しばかり追憶に浸っていたい。――そして、この事は他言無用で頼むよ、久」 鷹彦と<忍一族>に何らかの関係があったことをここで初めて久は知った。確かにこのことが知れ渡れば、彼の信用問題にもなりかねない。 周りにいた忍たちはいつの間にか姿を消していた。そして、最後まで残っていた謙と木乃葉は鷹彦と談笑しながら集落の方へ向かっていってしまう。 見送る久の隣で、潤がほっとしたように大きく息を吐いた。 見やると、彼は全身の力を抜いたかのようで、先ほどまで持っていた緊張感が全く消えうせていた。 「……よかった」 いつも冷静な彼にして珍しい安堵の声。 忍を相手にすることは、見ている以上にとても大変なことのようだ。 すさまじい緊張感に身をゆだねた久はそう思う。 『さあ、いらっしゃい』 二人と二匹を乗せ、空ははばたく。 すぐさま大空に飛び出した。 少しの強い風は、初めて大空へ飛び出した久と白にとっては全く気にならないものになっていた。 大きな歓声をあげる白。 その隣で歓声はあげないものの、表情に好奇心をあふれかえらせている久。 その表情を見て、潤は無意識のうちに微笑んだ。 「――城へ」 『わかったわ』 久たちの行く先が、大きくひらけた。 |
続き
20060106
20070711改訂