vol . 2 事故の損傷







「記憶喪失―・・・ですか」
医師から告げられた言葉に僕は息を呑んだ。ついニ時間前までは僕とレストランの前で別れ、笑顔で海を見送った。 海は帰り際に道路に出た子供を助けようと自ら身を投げだし子供を救ったという。おかげで子供の方は掠り傷ですんだ。 だがその海の方は重傷で先程集中治療室に運ばれ手術が終了したばかりなのだ。
海は頭を打った衝撃で記憶喪失―・・・だが幸いな事に全て記憶が無くなったのではなく、一部だという。
もしもその一部が僕だったら・・余計な事ばかりが僕の脳内を過る。もしもの事があっても少しずつで良いから・・・ 少しずつで良いから覚えさせてやれば良いんだ、と。僕はその足で海がまだ眠っている病室に向かった。
「海・・・気分はどう?」
目覚めてもいない海に話しかける。正直これで何かが変わるわけでもない。だが少しでも早く海のあの美しい声が聞きたい・・ あの青く緑が混じり綺麗な瞳を真っ直ぐ見つめたい。そう思っていた。
「・・・う・・・・・・んぅ・・」
それは苦しそうな声だったが、僕に海が目覚めたということが伝わった。僕はその耳を疑うことなく必死で海の名前を呼びつづけた。
「海!海!!・・・海!!!・・・わかる・・?鷹野ですよ、鷹野・・!大丈夫!?」
そう同じ事を何度も言っていた。うっすらと目を開けた海の瞳に一筋の光が輝く。それは海が流した涙だった。
「うん・・・わかる、よ・・・」
思わず僕まで涙が零れた。口元を出て押さえ今までに感じたことのないような喜びを感じていた。 そしてもう離さないから、と思いを胸に海の手を強く握っていた。 ふとトントンという階段を駆け登る音が聞こえた。その足音は僕達が居る病室に近づいており、振り返った時にはもうその主が 病室の扉を開けていた。・・目に涙を溢れんばかりにこめて。
「海・・・!」
どうやらこの男は海の事をよく知っているらしい。「海」という名前を誰よりも呼んでいる人物のような気がした。 ところが海の方は目を見開き驚いていた。その表情から「誰ですか」という風な感じだった。 その時僕の頭に過ったのは医師が告げた記憶喪失という一言。もしかしたら海はこの男の事を忘れてしまったのかもしれない。
「すみません、ちょっとお話が」
短くそう告げると男は不思議そうに、だが涙目で僕を見つめていた。
「彼は・・・海は記憶を失っているんですよ」
本当に言いにくい言葉だった。男は僕のその一言を聞くなり大量の涙を零した。そして海がこの男の事だけを忘れてしまった事も話した。 泣いている男の背中を撫でるとやっと落ち着いたのか、ゆっくりと口を開き喋りだした。
「僕と海は同居していたんです・・。ある日仕事の関係で僕は女の人とレストランで今後のプランをたてていました。
 しかし偶然それを目撃していた海はその女の人と僕とが恋人同士だと思い込み喧嘩になってしまったんです―・・・」
あまりにも他人事とは思えないようなその話に僕は唖然とした。きっと海はこの男を本当に愛していたのだろう。
そう思うと何故だか胸が苦しかった。―・・・嫉妬だろうか。まさか僕までも海に惚れてしまったというのか。
「その日は雨が降っていました・・・東京では久しぶりの雨でしたよね・・・」
そう、雨だ。僕と海が出会ったのは。海の頬に滴る雨は涙にも見えた。あの直後僕と海は出会ったのか。 今までそう気にしていなかったが、海はこんなにも問題を抱えていたのか。パズルのようにはめられていく真相とこの男の存在。
「そういえば自己紹介がまだでしたね、僕は虎島猛。見ての通り稼ぎの悪い男ですよ」
正直とてもそんな風には見えなかった。金髪でサラサラとした髪、笑うと白く光る歯。言わばホストのような人物でもあった。
「僕は鷹野丈。昔イタリアに住んでて栃木に引越し、それから引越しの繰り返しですよ。東京が一番住みやすくて」
そんな無駄話をたたきながらも心の中は海の事でいっぱいだった。勿論虎島もそうだと思う。
僕は一旦海のいる病室へ足を運んだ。すると海は窓の外をずっと眺めていた。今は夜で外は暗く町並みの灯りが輝いているだけだった。 そして虎島は今日のところは家に帰ると一言、言い残し帰っていた。
「海、着替えの服ここに置いていきますね。僕はもう帰りますが・・・一人で大丈夫ですよね?」
「大丈夫じゃないよ・・・怖い・・。一緒に居て・・」
海が僕を求めている、それだけで嬉しかった。僕は海が寝るベット隣に大きめの椅子を持ってくると腰をかけ、海の手を握った。 「大丈夫、僕がずっとついててあげますから」ずっとそう呟いていた。手を握ったまま。


目が覚め、海が寝ているはずのベッドを見ると、そこには海の姿がなかった。
今の海は精神的にも、体力的にも不安定だから遠くに行っては更なる危険が生じる場合も考えられないともいえなかった。
僕は病室から飛び出ると、病院の中を走り回り、海を探した。看護婦に注意される事も今の僕には気にする事ではなかった。 海にもしもの事があったら―・・そう考えるだけで、僕の胸は押しつぶされそうだった。
「海―・・・・!!!」
やっと見つけた海の後姿。だが、その背中は何処か寂しげだった。僕の声に気付いたのか、海が振り向く。
僕が見た海の顔は酷く疲れている様子で、あの元気な姿とは考えられないほどだった。
「あれ・・・?どうして虎・・じまさんがここにいるの・・・・?」
「え・・・・?」
正直ショックだった。僕は虎島じゃない―・・・。鷹野だ・・・。
そう、この時初めて気付いたのだ。海が僕の事を・・・鷹野丈の事を忘れているのだということを。
そして海の目には僕の姿が―・・虎島に見えるのだ。いや、正確には海が僕の事を虎島だと勘違いをしているのだ。
海が求めているのは虎島―・・・。昨晩も海は僕に一緒に居てほしかったんじゃない、海の中の虎島と一緒に居てほしかったのだ。 酷く胸が痛んだ。海は本当の虎島を忘れ、僕を虎島だと思っている。
「海―・・・もう、部屋に戻りましょう・・・・・」
僕は海を連れ、病室に戻った。病室には本当の虎島が居た。最も海にとっては知らない人物だが。
正直なところ、この事は虎島本人には伝えたくは無かった。僕は意地が悪すぎる。自分でも分かるくらいだった。
海は虎島に怯えながらベッドに戻った。しばらくすると歩きつかれたのか、海は眠りについた。
「なんででしょうね・・・なんで、海が・・・・」
徐に虎島が口を開いた。あの時のように、目に涙を込めて。
「貴方に・・・伝えたい事があります。いえ、これは虎島さん本人が知るべき事なのですが」
僕は決心した。このまま本当の事を虎島に伝えなかったら悲しむのは虎島だけではなく海も同じだ。
僕自身、海に僕が虎島だと思われたままでも気分が悪い。 僕は海が僕を虎島だと勘違いをしている事、海が求めているのは虎島本人だという事―・・・それから海が本当に記憶を失っている人物は 僕だということ・・・・この全てを虎島に話した。
「そうだったんですか・・・・。その事に気付かなかった僕は情けないです」
そう申し訳なさそうに話していた。僕は今朝のように気付いたら海が居なくなるという心配もあり、僕と虎島の二人で交代で海の側に 居る事にした。海にとって虎島は知らない人物だからと、虎島は自分の口から海に伝えます、と言っていた。
「んぅ・・・?」
「あ・・・目が・・さ、覚めた?」
そう何処かぎこちなく喋る虎島の背中が寂しく見えた。僕が病室から出ようとすると海は慌てたように『虎島』の名前を叫びつづけた。
「あ!待って!僕も行く、ねぇ、僕も行く!虎島さん!僕も!!ねぇ、虎島さん!!!」
「違うのッッ!!!!」
何かを親に強請る子供のように半泣き状態で叫びつづける海に虎島がベッドを両手で思いきり叩き、立ちあがった。
「ごめん・・・ごめんね・・・・・海・・・僕が虎島なんだよ・・・ごめんね・・ぇ」
俯いた虎島の肩は震えていた。目尻からポロポロと雫が零れ落ち、ベッドが滲む。
だが海はその言葉も聞かず、自分の付近にある適当な物を手に取り虎島に投げつけていた。
虎島は涙を零したままそこから一歩も動かなかった。
「違うもんっ・・・・違うもん・・・・!」
海の気持ちが痛いほど分かった。だが、海の考えていたことは僕達が予想もしない事だったのだ。
それに気付いたのは海の言った、一言だけだった。
「違うもん・・・・虎島さんはそんなに泣き虫な人じゃないもん・・・・・!!!」
「あ・・・・海・・・」
虎島が目を見開き、大粒の涙を零しながらその大きな身体で海を強く抱きしめた。
その温もりを噛締めたのか海は落ち着きを取り戻し、不思議そうな顔で言った。「虎島さん?」と。
僕はもうここに居る必要がなくなった。海は虎島を虎島だと認め、海の頭の中にはもう鷹野という男が居ないのだから。
これでいいんだ、そう自分に言い聞かせながら僕は病室を出た。これで虎島と海は幸せになれる。
僕は良いことをしたんだ。これでいい、これでいいんだ。
そう自分に何度も言い聞かせる自分が情けなかった。病院を出て、とぼとぼと一人寂しく歩いて帰った。


家の扉を開け、中を見渡す。今までは家に着くなり海がエプロンを身につけ「おかえり」と元気よく言ってくれた。
僕の頭の中にも、僕の家にもいつも海がいた。だけど今はもう・・・・。
人間とは酷く弱い生き物だ。僕は正直、普通の人よりは強い人間だと思ってきた。だが結局は皆同じなのだ。
僕は・・・・僕は・・・・・・
店の看板に「CLOSE」という札を下げ、店内の客用の椅子に座った。今までの海との出来事を思い出す。
初めてであったあの雨の日の事。一緒に食べたオムライス―・・・。
いや、もう考えるのはよそう。考えれば考えるほど自分が惨めになるだけなのだから。
そんな中、店の扉を開ける音がした。
「すみません、今日はお店はもう・・・あ・・虎島さん・・・・」
目の前にいたのは虎島だった。そして申し訳なさそうに立っている虎島に僕は温かいコーヒーを出した。
「本当・・・すみません。鷹野さんのお蔭で海は少なくとも記憶を取り戻した訳ですし、あとは鷹野さんの存在を思い出すだ・・・」
「もう良いんです。海は僕の事を思い出さない方が幸せなんです。海のためにも・・・あなたのためにも」
虎島の言葉を遮った僕の言葉はあまりにも惨めだった。
だが、虎島は納得がいかないらしく僕と海が一緒に映っている写真を見せてくださいと言い、おずおずと差し出すとそれを受けとるなり 走り去っていった。きっと海の居る病院に行くんだと思う。・・・そんな事をしても無駄なのに。
その日はずっと客席に座ったまま一日中何をするわけでもなく、過ぎた。
そしてその次の日も、その次の日も・・・・。
ある朝、僕はいつものように朝食もせず、客室でコーヒーを飲んでいるとカランカランと店の扉が開く音がした。
「すみません・・・今日はお店は休み・・・・・!!!」
僕が振り返った先に居たのは海だった。海はハァハァと息を切らして僕に言った。

「鷹野さん!」












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