イナズマ前夜(1)

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 2002年、秋。
 読売対西武の日本シリーズはあっけなく終り、スポーツ新聞はゴジラM井のFAに関する話題一色である。
 世間ではすっかり野球はお休みなムードだが休みなのは試合だけで、各球団では秋季キャンプが行われている。
 ここ日本ハムファイターズ鴨川練習場でも、若手選手たちが来期を睨んで組みたてられた練習メニューをこなしていた。来春に向けての体作りをする大切な時期ではあるが、これが終れば二ヶ月ほどは完全なオフであるから、彼らの表情はどことなく穏やかである。

 場内の休息室では、練習を終えた選手たちがくつろいでいた。
『M井、目標はメジャーか?!』と派手な色の見出しが踊る新聞を眺めながら、K村が側らを通り過ぎようとした同期入団の選手に声をかける。
「うちにもFA該当者がいるのに記事にもならないな」
 投球練習でも終えてきたのか、肩にスポーツタオルをかけた男が声の方へ向いた。背番号は01。
「なるわけないだろ。土井垣さんがFA宣言するはずがない」
不知火は表情も変えない。
「へぇー本人から直接聞いたの?」
 K村はニヤニヤ笑っている。
「聞いてないがあの人の考えていることぐらいすぐわかるさ、単純だから」
「本人がいないとずいぶんなことを言うんだな」
「何がずいぶんだ? 土井垣さんが単純なのは事実だろ?」
 不知火には悪気は欠片もない。彼にとって事実は事実で、そこに感情の介入することはないのであろう。結果が全ての世界に生きてきたからともいえる。土井垣も彼のそんな性格はわかっているらしく、第三者からすれば生意気だとか失礼だとか取られるようなことを言われてもニコニコしていることのほうが多かった。ひょっとしたら鈍くて気がついていないのかも知れないが……二人ともある意味鈍いことには変わりはないとK村はますます可笑しくなった。
 しかしそんな気持ちに気づくはずもない不知火は違う意味で笑っていると思ったらしい。
「今日土井垣さんが球団に呼び出されたからって俺を脅かそうとしてるんだろ?N口さんのトレードも決まったことだし、きっと来期のポジションについてさ」
 2002年オフのファイターズは大物FA該当選手を抱えたセの某人気球団とは違う意味で注目を集めていた。本拠地の移転が決定し、新監督は外国人である。
 しかし土井垣は、例え新天地が実家から遠く離れた北海道であっても、このようなチームの重大事に、明訓が夏の甲子園で敗退するまで入団を半年以上も待ってもらった恩を忘れるような人間ではない。
 不知火はもうすでにホームベースの向こうにあの坊主頭がいるのを想定して投げ込んでいた。彼のFA宣言などということは、あってはならないことだった。
「でも情も厚いけど向上心の塊でもあるからなぁ。ここ見ろよ、こんな記事を読んだら土井垣さんなんて思うかな?」
 K村は新聞の片隅を指差した。M井以外のFA該当選手の名前が上げられており、土井垣の名前が見える。
「バッティングはメジャーでも通用するってさ」
「そりゃ通用するだろうけど、土井垣さんはキャッチャーなんだぜ。バッテリー間の意思疎通とか、英語では厄介だ」
「でも土井垣さん、英語しゃべれるよ。それに甲子園はファーストで出場したんだろ、確か」
「ああ。俺と対戦した地区予選の途中で山田と変えられたんだ。里中とぜんぜん息が合わなくてな。そのまま甲子園でもずっとファーストだったな、確か。……あの時はまさかプロでバッテリーを組むことになるなるなんて思わなかった」
 不知火はめぐり合わせの不思議を思った。あの試合中、ずいぶん失礼なことをファーストベースで言ったような気がするのだが、詳しいことは覚えていない……あの人も「忘れた」と言っていたから、いいとしよう。
「土井垣さん強肩だし外野も悪くないよな。キャッチャーしかできないわけじゃない」
 相変わらず薄ら笑いを浮かべているK村に、俺が心配するのをおちょくって楽しもうとしているな、と不知火は唇を曲げた。土井垣のFA宣言などK村だって考えたこともないのは明白だ。誰もが土井垣が宣言するなんてありえないと思っているからこその冗談だった。しかし……。
 そんなことはありえないと確信しておきながら、心の奥底に『あるいは、ひょっとしたら』という不安がまったくないとはいえない点では、不知火もK村も、他の選手たちも同じだったかもしれない。実際、土井垣はFAに関して何も言わないし……誰にも聞かれないから黙っているのか、本人がうっかり忘れているのか……なんだか後者のような気がして来た不知火の口元が緩んだ。
「そうだな、そう考えるとメジャーで通用するかもしれん。M井さんばかりに記者が群がるものも面白くないし、いっそ勧めてやろうか」
 案の定、今度はK村が慌てた。
「ちょ、ちょっと本気にするなって!ヘンにつっついて土井垣さんがその気になったらどうするんだよ。今頃キャッチャーに戻れるって喜んでるさ、きっと」
 うろたえるK村に、不知火はしてやったりと笑顔を浮かべた。
「冗談だ、そんなことするかよ。だいたい今のチーム状況で土井垣さんに出て行かれたら俺が困る。K村だってそうだろ?」
 まったくだ……K村もそう続けた後で同期の男を見上げた。入団した年こそ同じだが、一軍在籍期間はこの男のほうがずっと長い。
「ところで不知火は? このまま何事もなければ来年だろ。……メジャーか?」
 他人のFAについては雄弁に語っていた男が、今度は言いよどんだ。
「図星かい。勝手なやつだな、土井垣さんのFAは俺が困る、なんて言ってたクセに」
「……鬼に笑われるぜ、そんな話し」
 奥歯にものが挟まったような答えは、この天才と言われてきた男が何を考え続けてきたのか、明白に伝えていた。
  

 練習が終り、不知火たちが帰路につこうとした頃になっても、球団からの「土井垣はFA宣言しなかった」という報告はなかった。
 キャンプ最終日ということで身軽な若手投手陣数人の間から誰彼ともなく、飲みに行こうという話しになった。誰もがみな確信していたくせに、なんとなく不安な空気が漂っていたのを土井垣が知ったら……また、妙な責任を感じたことだろう。
 
 宴の間、不知火はいつものように無口だったが普段より酒は進んでいた。
 なんだかんだ言って心配しているんだよ、いや、口うるさい女房が戻ってくるから破目を外せるのは今夜ぐらいなのさ、という陰口は、彼には聞えていたのだろうか。
「来年、か」
 少なくとも不知火のこのつぶやきは、周囲に聞かれることはなかったらしい。
 

 
 
 不知火の帰宅は深夜に及んだ。
 一人息子の活躍以外には何の欲もない父親の望みで、不知火は自宅を新築するようなことはせず、ただ住みなれた築古年の賃貸アパートを分譲マンションに買え変えただけだった。二人しかいない、しかも父子家庭に豪邸など掃除が面倒なだけである。
 だが父子は別々に住んでいる。まだまだ男盛りの父親にはどうやら彼女がいるようだし、息子も一人暮しのほうが何かと気楽だった。

 マンションの共同廊下を歩く不知火の足取りはしっかりしていたが、目の縁が赤いのと、視線がどことなく定まらないのをみれば酔っているのは明白で、土井垣がいたら「飲みすぎだ!」と怒ることだったろう。
 部屋に入ると、脱いだ上着を無造作にリビングのソファに投げ捨て、キッチンへ入る。オフシーズンに入り使われる機会の多くなったキッチンには、生活の匂いが戻っていた。
 冷蔵庫を開け冷えた缶ビールを取りかけて、エビアンのペットボトルに変えた。ラッパ飲みしつつ、寝室に消える。
 やがて明かりが消え部屋は静まりかえったが、数分もたたぬうちに部屋着姿で現れ今度はトイレに消える。水音しか聞えない割にはいつもよりいやに長かった。  
 妙にだらしのない顔つきで出てくると投げやりな調子でドアを閉め、やけに大きな足音を立てながらキッチンへ入り、今度は缶ビールを持ってリビングに移動した。どうやら寝つけないらしい。
 電源の入っていないTVをちらりと眺めたがソファには座らず、パソコンデスクに移動した。
 ビールを片手にさっそく立ち上げると、スパムばかりのメールをチェックし、ブックマークをクリックする。
「俺は酔っ払ってんのさ」
 不知火は誰もいないのに言い訳がましい独り言をつぶやいた自分が可笑しかったのか苦笑いを浮かべ、缶ビールに口をつけた。
 PCのモニタはホームページに移動している。背景は白、文字ばかりの殺風景なページ。

『城南大学 工学部 知能機械工学科 
 城南大学大学院 工学研究科 電子機械工学専攻
 霧島研修室ホームページ』
 
 一見、プロ野球のピッチャーを職業とする男がブックマークするのに、これほど相応しくないページはないのだが。
 不知火は慣れた手つきで『研究活動紹介』のタイトルを選びクリックすると、現れた画面をスクロールしていった。

『風洞実験による硬式ボールの変位量測定(変化球の研究1)』
『風洞実験による硬式ボールの変位量測定(変化球の研究2)』
『フォークボールはなぜ落ちる』
『ジャイロボールの仕組み』

 工学部知能機械工学科がなぜ野球ボールや変化球の研究をしているのか不知火にはわからない。
 もっともこのページは城南大学一般向けホームページ内コンテンツの一部だから、専門的なことは避け、わざととっつきやすい内容にしているのかもしれない。
 殺風景な画面は続いた。

『ジャイロボールは可能か?−西武ライオンズ・M坂投手の可能性−』
『ナックルボールはなぜ揺れる』
『風洞実験によるナックルボールの空気力学的研究』

 そして最後の、
『新魔球は可能か?』
というタイトルをクリックしようとして不知火は指先を止めた。唇を歪めた横顔はなんとなく寂しそうに見える。
 
 なぜならこのタイトルは本来、
『新魔球は可能か?−日本ハムファイターズ・不知火投手の可能性−』
というものになるはずだったのだから。


 
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