イナズマ前夜(2)

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 1998年春、不知火はナックルボールをものにした。
 自分もナックルとやらを投げてみよう、と思いたったのが東郷学園・小林真司投手がアメリカ留学を終えて帰ってきた頃だったから、器用な不知火にしてはずいぶん習得に時間のかかった変化球といえる。
 もっとも山田封じのためというよりは、中学時代なにかと比べられた小林へのライバル意識と、見知らぬ変化球に対する好奇心のほうが大きかったから、習得にそれほど真剣だったとはいえない。 
 しかしそんな調子ではあったが、高校三年生の春頃にはかなり変化の大きい球を投げられるぐらいにはなっていた。彼にとってのナックルボールは高二の春、山田封じのために開発したチェンジアップの超遅球バージョン応用編と言える球種だったのである。
 リリースの瞬間に打者の反応を見ながら、指の力と手首のスナップだけで速球と遅球を投げ分けるられるように鍛え上げた彼の握力、指力は桁外れで、そんな並外れた指の力を持つ不知火にとっては、投げるというよりは指先で弾くという特殊性のため習得が難しいとされるナックルボールも、投げるだけならさほど難易度の高いものではなかった。
 指の腹ではなく爪をボールに立てるように握り、手首を上に跳ね上げずに固定したままスナップを利かせず、あとは遅球と同じ要領で弾き飛ばすように投げれば、ナックルめいた変化のスローボールは簡単に投げることができたのだ。
 チェンジアップもナックルもボールの回転を押える変化球、と言う点では同系列のボールだと不知火は思ったものだが、しかしこの時点では変化はしたもののストライクゾーンにはさっぱり入らなかった。
 もとより『投げる本人もどこに行くかわからない』とされるナックルにコントロール云々は不毛だが、見るからにクソボールではバッターも手を出さないし、投げる度にキャッチャーが後逸して取りに走るようでは走者が山田でも盗塁されるだろう。
 それでなくても不知火の剛速球やフォークボールを取るだけで精一杯だった当時のキャッチャーにこんな球は負担が大きいだけで、とても実戦に使えるようなものとはいえない。
 そんなわけで、結局高校時代の彼にとってのナックルボールは、投球練習の気分転換、遊び球で終ったのだった。
 
 だから入団当時の不知火にとって、ナックルボールは『こんな球も投げられる』という程度のパフォーマンスに過ぎないもので、ピッチングコーチからも、
「コントロールはさっぱりだが結構揺れるもんだな。本格派のクセに器用なやつだ。しかし遊びはほどほどにしとけよ」
と妙な褒められ方をしただけで、それきりになってしまった。
 160キロに迫る剛速球に加え、カーブやシュート、その上不知火スペシャルとも言えるチェンジアップに130キロ台の剛球フォークも持つ新人に対して、それ以上の球種は無用とのもっともな判断といえよう。
 しかしながら封印せよと言われたわけではないといことで、元来研究熱心な不知火はナックルを思い出したように練習することはあった。
 体に無理な動きを強いる超遅球チェンジアップよりも手首や肘に負担のかからないナックルは、指先を痛めやすい点を除けば彼にとってそれほど辛い球種ではない。幼い頃からピッチャーとしての英才教育を受けてきた不知火は、日頃指先の鍛錬も手入れも怠りはなかったから、爪が割れるようなトラブルに見まわれることもなかったのである。
 もちろん練習と言っても、ほとんどきまぐれに等しい遊びのようなものに過ぎず、彼の密かなお楽しみはブルペン捕手しか知らなかった。彼自身、遊びと割りきっていたので、レギュラー捕手の誰にも投げなかった。
 
 それでもあれば使ってみたいもので、1998年夏、オールスター第二戦のお祭り気分に乗じて、6回表ジャイアンツ微笑三太郎への第三球目、ナックルボールを投じた不知火だった。
 通用するか云々よりも、山田が取れるかどうか試してみたい気持ちのほうが強かったのかもしれない。おそらくキャッチャーが彼でなければ投げなかったと思う。
 先だって里中にもっていかれた9連続三球三振を狙っていたため、気持ちがかなりハイになっていたせいもあっただろう。
 身長の伸びに体重が追いついていない感のあった高校時代に比べ、逞しく成長した肉体から繰り出されるナックルはしっかりとストライゾーンに収まり、見事、微笑を空振りに打ち取った。
 お祭りをさらに盛り上げた新球にマスコミは湧き、寡黙なように見えてそのくせ結構派手好きなところもある不知火にとって、自身の記録達成も含めてまことに気分の良いオールスターだったが、ナックルボールに関してはそれで一応『満足して』しまった。
 
 98年は入団以来バッテリーを組んでいた土井垣が指名打者に入ることが多くなり、ヤクルトから移籍してきたN口と組む機会の増えた年でもある。
 年の近い土井垣ならともかく、五歳も年長のN口にいきなり捕球の難しい球を取ってもらうのは気が引けたし、バッターに見送られればボールになる可能性もある
『スリーボール以降は投げにくい球』
ならすでにフォークがあり(当時の不知火にはナックルを必ずストライクゾーンに決める自信はなかった)、しかも球速が遅い上なによりもキャッチャーのパスボールを誘う
『ランナーを背負ったら投げられない球』
など、コストパフォーマンス性を差し引いても実用的であるとは言えない。緻密で繊細な日本プロ野球にはアバウトすぎる変化球である。
 そんなボールだったから、オールスターで最人気球団の花形選手を打ち取れただけで不知火は満足した。たった一球だったが、現在は日本プロ野球界から離れてしまい一緒に競い合うチャンスのなくなってしまったかつてのライバルに、一矢報いた気分になれたのだ。
 だからN口やピッチングコーチに
「あんな球お祭りならともかく、実戦では使えないよ。ナックルなんかなくてもお前は充分だ」
と言われても、彼は素直にうなずけたのである。
 
 

 
 ビールで膨れた腹の奥から空気の塊が上がってきた。大きな音とともに吐きだすと酒の匂いが鼻につく。
 不知火は思い出したようにタイトルをクリックし、切り替わった画面を眺めた。
 
 スクロールしていくと現れる複雑な図解や表、数式は、高卒程度の物理学しか知らない、しかもさほど熱心に勉強したわけでもない彼に100%理解できるものではなかった。
 繰り返し出てくるフラッタ現象とかレイノルズ数とかいう言葉の意味もよくわからない。
 酔っ払っている今は尚更理解できるはずもない。
 しかし、彼はこの論文で書かれている通りの現象が起こるのを、この目で見たのだった。
 
 何に使うのかさっぱりわからない謎の装置がいっぱいの実験室、風洞装置の騒音、ボール回りの空気の流れを目視するために焚かれた煙の匂い。当時まだパソコンをもっていなかった不知火の目には、机の上のMacさえ珍しく映った。
 捧の先に取りつけられた小さなボールが風の中で揺れる様と、それを興奮した面持ちで眺めている男たち……。
 
 1998年の秋季キャンプ中、不知火は城南大学工学部の霧島教授からオファーを受けた。
 ナックルボールの軌道変化を純粋に学問的な理由で、流体力学の立場から研究している、あなたのオールスターでの一球もVTRで研究させてもらった、ついてはナックルについてぜひお話を聞かせていただきたいのだがということで、不知火は、自分は高校程度の物理学しかわかりませんがと前置きしたものの、二つ返事でOKした。
 自動車がどうして動くのかまったく興味をもつことなく運転する人間と、ボンネットを開けたくてたまらなくなる人間とニ種類いるものだが、不知火は後者に属するタイプだったらしい。
 数式や表などで説明されてもどうせわからないから、と足立区北千住のキャンパスに不知火が直接赴いたのはキャンプが終って間もなくの頃であった。
 風洞実験と聞き大型扇風機でも使っているのだろうかと思っていた彼は、16インチモニタ大の送風口を供えた、奥行きの長い、細長いエアコンの化け物のような(しかに中身は扇風機らしい)装置に先ず驚かされた。
 その向かいには同じぐらいの大きさの空気吸入装置が設置されていたから、吸入口と送風口を向かい合わせに設置した、巨大な掃除機のようなものと言えたのかもしれない。
 ボールを投げる変わりに、送風口と吸入口の間にボールを固定し風を送ることによって、投げられているのと同じ状態を作っているわけである。
 固定したと言っても、ボールを支える細い棒の取りつけられた台は微かな揺れに応じて移動するように出来ているから、ボールがどのように変化するのか観測することが可能なのだ。

 風洞実験室で繰り返された実演を前にしても、不知火が流体力学や空気力学を完全にマスターできたかは謎だが、
「この式の流速Uはボールスピード、えーつまり不知火さんの投げる力、指で弾く力ですよ。それでは段階的に強さを変えて変化を見ていきましょう」
「ただ今の変化は縫い目に垂直にUがかかった場合です。では平行に変えてみましょう……ええと、縫い目に対してボールを握る位置を変えた場合、と考えてください」
といった調子で行われ、CG画像を用意してくれていた事もあり、実験は門外漢の不知火にもわかりやすいものだった。
 実際、自分が体験した変化もあったような気がして、
『投げた本人さえどこにいくのかわからないボール』
を少しばかりコントロールできるような気にさえななった。
 五十絡みの教授を筆頭に、助手や院生、学生を含め男ばかりの『だいの大人たち』が、大掛かりな実験装置を駆使して言葉も聞き取り難い騒音の響く中、小さな野球ボールの動きを真剣に追っている姿は、畑違いのものから見れば滑稽だったかも知れない。
 しかし空気力学のことなどさっぱりわからない癖に、みなより頭一つ分高い身長を不器用に折り曲げて、目を輝かせながら一番真剣に見入り質問を繰り返していたのは不知火自身だったから、実験はおおいに盛りあがった。
 
 他、フォークボールの軌道も見せてもらい、実験が一通り終った時。
「最後に取っておきの変化球を見せてあげましょう」
 教授が、含み笑いを浮かべながら切り出した。
「……いわゆる、魔球ですよ」
 魔球、ですか?不知火が不思議そうな顔をしている間に風洞装置は動き出し、実験は終了した。わかりやすいようにCGで再現していますと言われパソコンをのぞいた彼の顔は、さらなる驚きに満ちていた。
「まさか……人間が投げられる球じゃないですよね?実験装置だからこそのボールでしょう?」
 教授は相変わらず、微笑みを浮かべていた。
「驚きましたか?確かにそうかもしれません。でもこの魔球は不知火さんがオールスターで投げたナックルに、若干手を加えたものに過ぎないんですよ」
 

 
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