イナズマ前夜(3)

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 不知火はしばらく言葉を返せなかった。
「でも……こんな変化ではなかったと……」
「先ほどのナックル再現の際にも説明しましたが、縫い目に対するボールの回転方向によって、揺れは変化します。ボールがゆっくりと横に回転するように投げ、流速Uを大きくすれば、えーつまり速いスピードで投げれば、このように激しく横揺れするボールが投げられるわけです。Uは二乗で利きますから、スピードが増すほど揺れは大きくなりますね。この実験ではホームベースを通過するまでにボールはおよそ90度……四分の一回転していますが、これは不知火さんがオールスターで投げたナックルと同じです。試合のVTRから調べさせていただきました」
 パソコンの前に座った学生が再び操作を繰り返す。不知火はモニタの中で動き始めた魔球を再び眺めた。
「……とすると、この魔球はゆっくりと横に回転した高速ナックル、ということですか?メジャーではナックルといえば超スローボールばかりだから、僕は今まで超遅球を回転させないつもりで投げていたのですが」
「大切なのはいかに回転を少なく押えるか、ですよ。完全に無回転で投げられればもっと凄い変化をするのですが……実験結果では1.2メートルもシフトしましたが、これではキャッチャーが大変です。実用にはこのぐらいの変化が限度でしょう」
 教授はそこで理解できたか推し量るように不知火の顔を見たが、青年が黙ってうなずいたので話を続けた。
「それに高速といってもたいした速さではないのです。スローカーブより少し速い程度、不知火さんの剛球フォークのように140キロもいりません。それでもこんな奇妙な変化球は他にはありませんから、はじめてみたバッターには稲妻が走ったように見えるのではないでしょうか」
 不知火は机に置かれていた予備のボールを手に取り、サイドスピンを想定しながら爪を立てて握ってみる。
「スピードを維持しつつできるだけ無回転で、ですか……。遅球を投げるのではなくて速球を投げる感覚で投げればいいのかな?」
 ナックルは遅球の応用、のつもりで投げてきた不知火にとって意外な発見だった。

 超遅球チェンジアップはあの上に跳ね上げるような独特の指使いと手首の動きのせいで、ほんの一瞬だが肘の振りにロックがかかってしまう。ナックルでは肘の動きは解放しているつもりだがなまじチェンジアップの動きを体が覚えているために、充分な肘の振りになっていないのかもしれない。

「ナックルはスローボールではない……考え方を切り替えないと。問題は回転方向だな。ナックルにサイドスピンがかかったことなら何度もあるが、意識してできるもんだろうか」
 不知火は独り言をつぶやきながら腕を振り上げシャドーピッチングの真似事をしようとしたが、狭い上に機材で立て混んでいる実験室では、長い腕が何かにぶつかりそうに思えたので断念する。すっかり魔球に引き込まれている様子に、教授は満足そうに目を細めた。
「そんなに悩まずともずっとナックルを投げ続けていれば、いつかこの魔球を投げる日がきますよ。なんでもナックルは投げれば投げるほど変化の大きい球を放れるようになるそうですからね」
 教授が元メジャーの代表的ナックラー、フィル・ニークロの言葉を引用するのを聞きながら、しかし天才と呼ばれる青年は自身ありげに笑った。
「でも、それでは偶然でしょう?そんなのはつまらない。できれば……」

 できれば、この稲妻のような変化球を偶然でなしに投げてみたいんです。

 と、無邪気にいいかけて不知火は口をつぐんだ。
 自分はもう、カーブやシュートの習得に嬉々としていた高校生ではない。
 角膜移植のおかげで投げられるようになった変化球。その、突然開いた自分の可能性に夢中になっていたあの頃とは立場が違う。
 今の自分は日本ハムファイターズのエースなのだ。期待されているのは、いかにコンスタントに勝ち星をあげてチームを優勝に導けるかであって……彼は目を伏せると、ボールを元の場所に戻した。

「いや、そうですね。投げ続けていればいつか投げる日がくるかもしれません。でも残念ながら僕にはあれ以来、ナックルを投げる機会はありません。……正捕手を固定できない今のチーム事情では、今後もあるかどうかわからないです。とても興味深い魔球なんですが」
 その湿った口調に、教授は柔和な笑みを浮かべたまま言った。
「わかっております。エースともなれば魔球開発などにうつつを抜かすわけには参りませんでしょうし、そもそも不知火さんは魔球など必要のないピッチャーです、私もナックルボーラーの不知火さんなどピンときません。……ただ、メジャーのナックルボーラーたちはみな投手寿命が長いです、四十九歳まで現役を続けた人もいるそうですから。彼らが言うにはナックルは利にかなった無理のない、正しい投球フォームでないと投げられないボールだからだそうです」
 教授ふいに、不知火が置いたボールを手に取った。扱い方には硬球に対する慣れが感じられる。純粋に学問上の理由で研究していると言っていたが、この人自体野球が好きで、自分でもやっていたのではないか……不知火は野球のユニフォームを着ている教授の姿を想像してみた。不知火ほどではないが背も高いほうでがっちりとしており、ユニフォーム姿は様になりそうだ。
 ボールを弄びながら教授の話は続いた。
「不知火さん、あなたは本当に凄い投手だと思います。投手を目指すものならば、誰でもあなたに憧れることでしょう。だから私はあなたに末永くピッチャーでいて欲しいのです。故障や怪我を防ぐためにも肩や肘に負担のかからない球種を覚えるのは悪いことではないと思うのですが」
 残念そうに言った後で、いたずらっぽく付け加えた。
「……なんて勝手なことばかり言って申し訳ない。ホンネを言えばメジャーに挑戦する不知火さんを見たいのです。ナックルは緻密で繊細な日本のプロ野球には馴染みませんが、メジャーでなら今でも大人気ですからね」
 教授は右手の人差し指・中指・親指でボールを持つと、慣れた手付きで捻り上げた。小気味のよい音とともに天井すれすれまで、ボールは鋭く上がった。この人は経験者だ。ひょっとしたらピッチャーだったのかもしれないと不知火は思った。
「あのう、ひょっとして以前、野球をやっておられたのですか?」
 教授は器用に片手でボールを受けた。
「あ、はい……恥ずかしながら、実はピッチャーをやっておりました。プロにも憧れておりましたが、肩を壊してからは草野球程度です。甲子園も目指していましたが、地区予選の準決勝以上はどうしても進めませんでした」
 ここで学生の一人が手をあげ、自分も元高校球児だと言った。公立の進学校だったから甲子園は遥か彼方でしたけど、阪神電車やったら三十分で行けたのに、と彼が関西訛りで話すと、周囲から笑いが漏れた。
「私がこんな研究をしているせいか、どうもうちの研究室には野球好きが集まる傾向があるようです。この空気力学という分野は、本来ならばジェット旅客機や高速列車などの研究をするような分野なのですがね。しかし学会でもナックルに関する論文は好意的に受けとめられました。元野球少年の血が騒いだ、あの頃の夢を思い出したって……野球を愛する人は多いのだと実感しました」
 不知火は温かい気持ちになっていった。
 ナックルボールを純粋に学問として研究していると聞いていたので、野球そのものに対してはもっと突き放した扱いをされているのだろうと思っていたのだが、研究に携わっている人達は、みな野球が好きだから研究しているようだ。
 大学の研究室で、こんな形で野球への思いを知らされるとは思ってもみなかった。
「好意的に受けとめられたと聞いて、僕もなんだか嬉しいです。今日は素晴らしい実験を見せてくださってありがとうございました。研究をしてくださって、本当にありがとうございました」
 野球を職業とするものとしてそれを愛する人達に、もっと上手に感謝の意を表したかったのだけれど、口下手な不知火にはこれが限度であった。
「いえいえ、こちらこそわざわざお越しいただいて光栄でした。色々有意義なお話も聞けましたし。不知火さん、これからも頑張ってください。日本プロ野球界で数少ないナックルボールを投げるピッチャーの一人として、我が研究室でもこれからのご活躍を期待しております。……と言いましても実は私は広島のファンなのですが、不知火さんは応援しております……日ハム対広島の日本シリーズなんてことになったらちょっとわかりませんが」
 実は僕もダイエーのファンなのですが、私は実は横浜のファンなんですが、今まで誰にも言いませんでしたが本当はジャイアンツが好きなんです、とその後の研究室はカミングアウト大会になってしまった。総勢十人ほどの中に日ハムファンが一人もいなかったのは残念だったが、サッカー好きの学生が不知火さんにお会いしたら日ハムに興味が湧いたと言ってくれたので、不知火はまぁいいかと思うことにした……。

 

 
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