「ただいま……」
道すがら『話さなければならないこと』に頭を悩ませていた土井垣は、自分の家に戻ったのに、どうしてこんな気まずい挨拶をしなければならんのだと靴を脱ぎながら思った。
「……おかえりなさい」
いつもなら子犬のようにすっ飛んでくる不知火だが、暗い小さな返事が返ってきただけである。
「なんだ、電気もつけないで」
早速宣戦布告か。土井垣の気分はますます滅入った。
師走の空は暮れるのも早く、TV局を出たときはまだ明るかった空も、マンションにつく頃にはすっかり暗くなっていた。
部屋の中は真っ暗で、玄関の明りをつけたおかげで、ようやくリビングのソファに不知火が座っているのが目に入った。
「まったくおかしなやつだな。電気ぐらいつけろよ」
土井垣がスイッチをいれると、眩しそうに瞬きしながら不知火が顔を上げた。
無表情な顔。足元に、スーツケースが転がっている。
「あっ……。でもそれは持っていかないぞ」
土井垣はやれやれと顔を歪めた。まったく面倒臭い。
「もう決まってることなんだよ。宿の予約とったの去年だし。23日には帰ってくる。イブもクリスマスも、お前と一緒だ、文句ないだろ?」
坊主頭を掻きながら、困ったもんだと肩をすくめる。
この不知火の様子だと、誰が同行するのかばれてしまっているようだ。やっかいなことになった。まったく知三郎のやつめ、俺に何の恨みがあるというんだ。
不知火は無言でテーブルの上を見詰めている。むろん、見るべき何かがあるわけではない。その思いつめた表情は、根は呑気な土井垣をうんざりさせた。
「ヘンなことを勘ぐるな……お前が考えているようなことじゃない。年に一回、旧友がのんびり語り合う、ってそれだけさ」
不知火は初めて土井垣の顔を見た。
「……話そうと思ってたんだぜ……でもお前自分のマンションに帰ったきりでさ。携帯も電話もつながらんし」
「話そうと……思っていた?」
不知火が笑い出すように唇を歪めたが、目つきはむしろ戸惑っているようだった。
「ああ。……その……犬飼小次郎のことだ。……もう知っているとは思うが、まぁなんというか昔は……そんなこともあった。でも今はただの友人だ」
不知火は微笑みを浮かべたが目はぜんぜん笑っていない。
「その昔恋人だった男と二人きりで温泉旅館に行くんでしょう?」
土井垣の話などてんで信じていない口調だった。
「恋人?……なんかそんなふうに言われるのは嫌だな。とにかく、あいつは恋人でもなんでもないし、お前が思っているようなことはもうないんだよ」
どうして俺がこんな痴話喧嘩みたいなことにまき込まれにゃならんのだ。不知火も小次郎も、どうして普通の男どうしの友情ではいけなかったんだ……もともと土井垣はこの手の話は苦手だった。おそらく『浮いた噂がまるでない』のも、無意識に面倒事は避けたい、と思ってしまうからかもしれない。だからこそ、いつまでも小次郎のことや年末の旅行の事を不知火に話しそびれていたのだった。
「行かないで下さい」
不知火は、土井垣の顔も見ないでこう言った。
「もう去年から決めていたことなんだぞ。それに、とっても良い旅館だしなぁ。飯が旨いんだ。温泉もいい。……来年はお前も連れていってやるよ」
「お前もって、あなたと俺と二人でってことですよね?」
「小次郎がいたら……やっぱり嫌か?」
「当たり前でしょう!恋人と、もと恋人をはべらせて嬉しがるような人なんですか、あなたは!」
「恋人なんて言うな……友人に友人を紹介するのがそんなにおかしいのか!」
「友人?……あなたは友人と寝るんですか?……もし、あなたの……女の恋人が昔の恋人と旅行に行くといって、何にもないだろうなんてあなたは信じるんですか!」
「そりゃ……」
言いかけて、土井垣は首を振った。
「俺は、俺は男だぞ!!……もういい加減にしてくれ、俺はオカマじゃない!普通の男だ!おかしいのはお前らだ……ああ、確かに流されやすい俺も悪かったさ、だけどなぁ、もうこんなつまらんことで俺につべこべ言うな!お前の言う通りにしていたら、どんな男とも話が出来んじゃないか、それでなくても男ばかりの職業なのに!」
まったく実家に帰ったほうがましだ、と土井垣は思った。それにしても今日の不知火はしつこ過ぎる。ヤキモチはよく焼くが、いつもはこんなに思いつめた感じではない。
「あなたにとって俺ってなんなのですか」
不知火は顔を背けると言った。
「友人だ、普通の!いや、とても大事な友人だ。可愛い後輩でもある。……ああそれに、160キロ投げられる素晴らしいピッチャーだ……お前は本当にすばらしい」
「俺が160キロ投げられなくなったら見捨てるんですね」
「そんなことはない!お前は俺の友人だ、とても大切な。ずっとお前と一緒にいたいと心底思っているよ」
「……」
不知火はしばらく黙り込んだ。やがて、土井垣を見て言った。
「だったら、行かないで下さい」
「俺を信用していないのか!」
土井垣は本当にうんざりしてきた。お前のほうこそ、俺が……俺が岩鬼みたいな顔をしていたら、こんなこと仕掛けてきやしないだろう?
里中ほどではないが土井垣も、野球もロクに知らないくせに群がってくるファンには閉口させられていた。こいつらは俺の容姿しか興味がないのかと思うのはよくあることで、整い過ぎていて女性的と形容されてしまう顔は土井垣の場合、自慢に思うよりもむしろコンプレックスになっていた。
「いい加減にしろ、もう決まったことなんだよ、それに明日出発だぞ、キャンセル料だって高いんだからな!!……来年はつれていってやるから、そうくさるな」
思わずヒステリックに怒鳴りつけた土井垣だが、最後は優しく言ったつもりだった。
「スーツケースを壊したら、行けなくなるかな?」
またテーブルに視線を移していた不知火がぼんやりとつぶやいた。
突然、部屋にうつろな鈍い音が響く。
スーツケースは、テーブルの足にぶち当たるとフローリングの床にバウンドしながら倒れた。
不知火がケースを殴ったのだ。しかも右手で。
「ばかやろ!!大事な右腕でなんてことするんだ……大丈夫か?」
今日の不知火は、なんだかおかしい。本気で実家に帰ろうかと思い始めていた土井垣だったが、だんだん心配になってきた。
不知火は不思議そうな顔で右手を見つめていたが、別に痛そうではなかった。中身が空なので音だけがむやみに大きかったのだろう。
「何子供みたいなことやってるんだ。使わないって言ったろ、一泊二日の旅行にスーツケースなんか持っていくか。奥の物とるのに邪魔だったんで、ちょっとどけただけさ」
土井垣はうつむいた不知火の横顔を眺めた。あんな行動をした割にはいつもと変わらぬ表情である。
「……どうしても行くんですか」
不知火はテーブルを見つめていた。先ほどの感情が爆発したような態度に比べ、いやに静かだった。
「ああ」
明後日には帰って来るんだぞ。
土井垣はこんな会話は、もう切り上げたかった。
「……そうですか」
不知火は目を伏せた。
「じゃあ、……仕方がありませんね」
ふいに唇の両端がつりあがり、テーブルに向かって笑ったように見えたが、うつむいているので表情はよくわからない。
やがて土井垣の方へ向き直ると立ちあがる。その顔はいつもと変わらぬものに戻っていた。
「土井垣さん、帰ってきたばかりなのにすみませんでした。メシにしましょう。実は作ってないんです……食べにいきましょうか?」
二人は、最寄りのトンカツ屋で定食を食べた。
不知火はビールを注文し、土井垣にも勧めたが、明日の午前中には出発予定だからと断られた。ビールのせいか不知火は上機嫌で、収録の話やH人の話で盛りあがった。
旅行の話題には一言も触れず、さっきはあれほと反対していたのにもうあきらめたのかと、土井垣は少し意外に思った。
店を出ると、2人は寒さに肩をすくめた。明日雪でも降るんじゃないだろうか……吐く息の白さに土井垣はコートの襟を立てた。
不知火はやけに饒舌で、あまり世間話などしない普段とはやはりどこか違っている。明日の予定など気になり始めた土井垣は上の空で聴いていたが、不知火は気づかないのかお構いなく一人でしゃべっている。
「お前、飲みすぎたんじゃないか」
エントランスホールでもエレベーターでも、不知火はなんだかそわそわと落ち着きがなかった。
「ええ?そんなことありませんよ」
不知火は部屋の住人である土井垣よりも先に金属的な音を立てながら鍵を取り出すと、鍵穴に差し込んだ。
「ほら、ちゃんと一発で差し込めたでしょう?」
息からはビールの匂いがしたが、開ける手つきはしっかりしている。何時の間にか合い鍵を持っていることに驚いたが、もう悶着を起こしたくなかったので土井垣は黙っていた。
「口直しにコーヒーでも淹れますよ。土井垣さんは座っててください。今日は疲れたでしょう?」
身長が180cm以上ある大男たちの体で、マンションの狭い玄関はいっぱいになる。
明りをつけ靴を脱ぐと、不知火はキッチンへ消えた。
土井垣は上着を脱ぐと素直にソファに座る。足先にスーツケースが当った。片付けないと、とつぶやきながら、先ほどの下らない言い争いを思い出して唇が歪んだ。まるで痴話喧嘩だ、バカバカしい。それにしても不知火はなんだかおかしかった。あの子供じみた態度は、一体なんだったんだろう?
やがて香ばしい匂いが漂い、マグカップを両手に持った不知火がキッチンから現れた。
「バーゲンの豆を買ったら、イマイチな味でね……でもこれしかないから我慢してください」
不知火は相変わらず機嫌がいいらしく、にこやかに話しかけてきた。
土井垣の向かいに座ると先にカップに口をつける。
「やっぱりちょっとヘンな味ですね。失敗したな」
顔を上げると、微笑んだ。
「土井垣さんもどうぞ。……さぁ」
……とりあえずはいつもの不知火に戻ったようだな。
土井垣は一口コーヒーを啜ったが、その味は確かに、少し妙だった。