クリスマスの贈り物(5)



 暗闇の中で、不知火は目を覚ました。
 側らに規則正しい寝息を感じる。
 
 土井垣さん。
 
 闇の中で不知火は口付けした。唇に触れたが、ピクリとも動かない。
 すっかり暗くなってしまった。……今、何時だろう。
 腹減ってきたなぁ……不知火は起きあがった。
 サイドテーブルのライトをつけたが、それでも土井垣は目覚めない。
 横向きに丸くなるように眠っているので、顎のそばに手首が見えた。結わえた跡はほとんど消えている。土井垣が失神した時に、すぐに外したのだった。
 不知火はクスリ、と笑うとシーツを捲くった。部屋の暖房が効いているせいで、それでも土井垣は目覚めない。足を動かすと股間の小さく縮んだものも異常はないか確かめる。安心したように溜息をついた後でニヤリとすると、その柔らかくかわいくなったものにキスしてみたが、やっぱり土井垣は目覚めなかった。
 不知火はクスクス笑うとシーツを元に戻し、特徴的な髪型のせいでむき出しになっている額を優しく撫でる。ライトを消し、脱ぎ捨てた衣類を拾い上げると、起こさぬようそっと寝室のドアを閉めた。

 
「えっ1時間以上もかかるって?」
 居間のソファで、不知火は携帯に向かって困った顔をしていた。不知火がいない間土井垣は買い物をしなかったのだろう、ミネストローネを作るのが精一杯で、冷蔵庫は空っぽだった。
「渋滞中って……雪?」窓の外を眺めたがよくわからない。ただ街がやけに静かだった。「雪が降ってるのか……しょうがないなぁ」
 不知火は取りあえず注文の品を係りの者に伝えると、携帯を切った。
 宅配ピザは1時間先か……不知火は溜息をついた。
 土井垣さんも目が覚めたら腹ペコに違いない。近所のコンビニでおにぎりでも……。
 とたんに胸の中に、不安が闇のように広がった。

 駄目だ、俺がいない間に。
 きっと行ってしまう。
 もう、あんな思いは。

 
 寝室に駆け込んだ不知火は、相変わらず眠っている土井垣に、胸を撫で下ろした。
 揺すっても一向に起きる気配はない。
 

 コンビニは本当に階下にあると言ってもいい場所にあるから。
 それに……『行かない』って言ってくれたし。
 ずっと一緒にいるって。
 

 不知火は土井垣の額に口付けをすると、静かにドアを閉めた。

 
 
 
 どれくらいたっただろう。
 土井垣はふいにベッドの中で身を縮めると、寝返りを打とうとした。
 
 体が重い。プールで長時間泳いだ後みたいだ。

 土井垣はふらふらと身を起こした。不知火がいない。……人の気配を感じない。
 もう縛られていないのに気がつき、手首さすってみる。大丈夫、異常はないようだ。
 土井垣はまだぼんやりしている頭に手をやると、今しがた起こった出来事を思い返してみた。怒りよりも不知火が心配だった。あいつはおかしい。どうかしている。
 
 ベッドの下に足を下ろすと、何かがぬるりと流れ落ちた。土井垣は顔をしかめる。
 サイドテーブルのほうに手を伸ばし、ティッシュボックスを探りあてるとあてがい、よろよろと立ちあがった。

 廊下の灯りをつけ、居間をのぞいてみたが誰もいなかった。しかし不知火のデイ
バッグが置き去りにされている。ちょっと出ただけなのだろう。
 
 再び流れ出る感触。

 ……シャワーでも浴びるか。

 
 冷たいバスルームはすぐに湯気でいっぱいになった。熱いシャワーを浴びながら、風呂でも沸かそうかと土井垣は思う。体がひどく疲れている。
  
 あいつが帰って来たら、どう接したらいいんだろう。
 これから、どうしたらいいんだろう。
 
 水栓を閉める音が当りに響き、土井垣はバスルームの壁に額を押し当てた。 

 
 
 
 
 不知火は玄関で靴を脱ぎコンビニの袋を廊下に置くと、上着もそのままに、急ぎ足で寝室に向かった。不安に潰れそうな胸は、いやに大きな鼓動を立てている。

 何を心配しているんだ、あの人はずっと一緒にいると言ったじゃないか。

 不知火は自分にそう言い聞かせながら、寝室のドアを開けた。
 
 しかし灯りのスイッチを入れて目に飛び込んできたのは誰もいない部屋だった。
 不知火は立ちすくんで、動けなくなった。

 一生懸命呼吸しているのに、空気が少しも肺に入ってこない。

 時間が静止する。
 耳鳴り。

 なくなってしまったスーツケース。
 化粧品の匂い。
 でも残り香だけで。
 だって、カバンに詰めてもっていってしまったから。
 あの人は、行ってしまった。
 

 ……ああ、やっぱり。
 俺はまた、しくじったんだ。
 今度はちゃんと、『行かないで』って言ったのに。
 


 シャワーの音が、耳に飛び込んできた。

 止まった時間が再び動き始める。
 不知火は寝室を飛び出すと、廊下を走った。
 洗面室の扉を空ける。
 灯りのついたバスルームと、人型のシルエット。
 

 いきなり扉が開いたので、土井垣は驚いて振り向いたが、次の瞬間、不知火に抱きすくめられていた。
「行かないで……行っちゃやだ」
「何やってんだ!シャワーを止めろ!!お前、びしょ濡れになるぞ」
「やだ……やだ」
 抱きしめる、というよりはすがりつく、という感じだった。
 防水性のあるダウンジャケットを着ていたものの、最強の勢いで出ていたシャワーの真下にいるのだ。見る間に不知火はずぶ濡れになっていったが、まったく気にしていない、というよりも気づいていないように見えた。
「どうしたんだ、不知火!しっかりしろ!!」
 土井垣は濡れて重くなった体を揺さぶった。
 おかしい。まるで、子供みたいだ。物凄く力の強い子供だけれど。
 シャワーを止めようにも、不知火が力を弛めないのでどうしようもない。
「離せっ、ばか!お前一体どうしちまったんだよ、おかしいぞ!!」
「行かないで……行かないで」
「行くかよ!何処に行くってんだ!!」
 まったくこっちは素っ裸でシャワー浴びてんのに何を言ってる……土井垣がそう毒づこうとした時だった。

 ふいに不知火の力が緩んだ。
 両腕が力なく垂れ下がり、シャワーの雨の中で、呆然と立ちすくんでいる。
 土井垣は慌ててシャワーを止めた。

「俺……ああ?」
 静かになったバスルームの中で、不知火は、驚いたように顔を上げた。
「しっかりしろ!何やってんだ、お前は!!」
 土井垣はもう一度、不知火を揺さぶる。
「あ。……す、すみません。……うわ……うひゃ」
 水気をたっぷり含んだ重いダウンジャケットに慌てふためいた。
「うわぁ、土井垣さん、どうしよう!」
「どうしようも何も……とにかく早く脱げ!急がないと冷めて肩が冷えるぞ!!」

 
 濡れて硬くなったスリムジーンズは脱ぐのに難儀した。結局下着も脱げてしまったが、どうせそれもずぶ濡れだ。
「セーターなんか着てなくてよかったな」
 バスルームの床に広げたダウンジャケットを足で踏みつけて絞っている不知火に、土井垣はバスローブを投げた。財布の中身を調べてみたが、どうやら助かっているらしい。
「時計はさすがにG-SHOCKだ」
 洗面台に並べて干してやりながら、いつもの不知火が戻ってきたようだと胸を撫で下ろす。
 まだ滴を垂らしてるダウンジャケットを抱えて、不知火がバスルームから出て来た。
 洗濯機に放り込んでいる姿に、それ洗濯できるのか、と聴くと、まさか脱水だけですよと返ってくる。
 しかし不知火は土井垣の顔をまともに見ることができないらしい。すみません、と小さな声が洗濯機の蓋の閉まる音とともに聞こえてきたが、これで何回目だろうか。

 インターホンの音に土井垣が顔をあげると、宅配ピザを注文していたと不知火が言った。まだ自分の衣類の後始末をしなければならない不知火を残して、土井垣は応対の為にバスルームを出た。


(6)に続く

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