Daddy Bear(1)





 クリスマスと言えば暖炉が絵になるのだが、マンションなので生憎とオイルヒーターだった。
 しかしそれでも、家中で一番暖かい場所に陣取り、ふかふかしたラグの上で胡座をかいた父親の膝で絵本を読んでもらっている幼子の姿は、誰が見ても微笑ましいものだったろう。
 父親が声色を使って登場人物の真似をすると、子供は歓声をあげて喜んだ。ここまで馴れるのに1周間もかかってしまった。空港では姿を見たとたん、母親にしがみつき隠れてしまっていたから。
 彼は、前屈みに忙しく動いている小さな頭の、柔らかい細い髪に鼻を埋めた。まだミルクの匂いがするような気がする。耳にひげが当ったのか、子供は振り返るとくすぐったそうにきゃっきゃと笑った。
 母親に似て色が白く、睫毛が長くぱっちりした目のおかげでいつも女の子に間違われている息子だった。

 可愛らしい。本当に、天使のように可愛らしい子だ。

 親ばかでなく、この子に出会った大人は、誰もが目を細めて微笑むのだった。この子がいるだけでどれほど場が華やいだ雰囲気になることだろう。
 こんな可愛い子に年中ろくすっぽも合わずに、世界中を飛びまわっている俺はなんて愚かな父親なんだ。……彼は寂しそうに微笑んだ。もう少しだ。もう少しだから。お前が小学校に上がる頃には、もう少し、側にいてやれるようになると思うから。

 まだほとんど話しのできないらしいその子は、いしゅ、しゅぷーんと絵を指差して単語をしゃべるのが精一杯だったが、やがてある絵を指差し、とーたん、と言うと振り向き、父親の目を見つめて言った。
「とーたん」
「そうだ!わかるのか……そうだ、とーたんだ」彼は破顔し、テーブルの方を向くと、ケーキに蝋燭を立てている妻に向かって叫んだ。「加代、加代!智が今、とーたん、って言ったぞ!!」
 まぁ良かった、間に合ったわね……若い妻の嬉しそうな声を聴きながら、彼は幼い息子を高い高いした。彼の頭上で子供は信頼しきった笑顔を浮かべている。お父さんは四日後にはまた出かけるけど……春に帰ってきても、覚えていてくれよ。
「さぁ、智、ケーキを食べよう!」肩車をしながら、彼は妻の待つテーブルのほうへ歩いて行った。
 彼は幸福だった。妻も、もちろんその幼い息子も。

 こんな幸せな日々が、たった4年後に突然終りを告げる事になろうとは、誰も、考えもしなかった。







 智の思い出でお父さんにまつわるものはこれだけかもしれないわね……。
 加代は複雑な気持ちでクレパス画を眺めていた。幼稚園児らしい、いかにも拙いその絵は智が東郷学園幼稚舎の頃、父の日に向けて描いたものだった。確か四歳ぐらいのものだろう。こんなにもはっきりと覚えているのは、この絵のことで幼稚園に呼び出されたからであった。

 プロ野球もオフに入り、なにかと家にいることの多くなった智だが、今日は晩御飯も待っていなくていい、一杯飲んで帰ると思うからと出かけていった。同じ年頃の息子を持つ母親ならヤキモキするところだが、加代は何とも思わない。
 相手が中西くんじゃあねぇ。……いい加減に彼女でも紹介なさい、いつまでも男の子とばっかり遊んでいるんじゃないわよ。母さん、その年にはとっくにあなたを産んでいたのよ……
 しかしながら二十歳も過ぎ、大人になった息子のことをとやかく思うほど過保護な加代ではない。智もそろそろ独立してもいい頃だけど、とも最近思うようになっていた。

 そんなわけで加代は、智がいると何かと邪魔しにくるので思う様にいかないスクラップブックの整理を思い立ったのである。
 クローゼットの一角に智の思い出置き場、とでもいうところがある。息子がいれば、そんなものまだ取ってたの、さっさと捨ててしまえよ、とうるさく言われるに違いないが、今日は心置きなく眺めることが出来る。いつのまにか加代は、スクラップの整理はそっちのけでクローゼットの前に座り込むと、幼かった頃の智の思い出に浸ってしまっていた。

 加代は画用紙に書かれた曲がりくねった『おとうさん』という文字を見つめた。黒いクレパスで書かれたそれはお手本でも真似ながら書いたのだろう、そうと知ってなければ読めない代物だった。幼稚舎は早期教育を取り入れているので有名な所だったが、呼び出されたのは智がなかなか平仮名を覚えられなかったからではない。

 ミミズののたくったような黒い文字が添えられているのは、明らかにクマの絵だった。

 動物園で写生してくるような写実的なのではない、絵本に出てくるクマの絵。濃い灰色の色合いや太った四角い体つき、のんびりした優しい細い目は加代にも見覚えがあった。
 当時、智が大好きだった『三匹のくま』の絵本に出てくる父さんグマ。
 四歳ともなれば拙いながらも、眼鏡やヒゲなどそれぞれの父親らしい特徴を子供たちは描いてくるものである。しかし智はなんのためらいもなくクマの絵を描いて、すまして『とうさん』だと答えた。先生方が慌てて呼び出したのも無理はない。
 貿易商を営んでいた夫は、智にとっては『何ヵ月かに一度、高価なお土産をもってやってくる人』に過ぎず、多忙な商社マンの娘だった加代にとっても、それはさほど異常なこととは思われなかった。十九の年が終る頃慌しく結婚し、二十歳の頃には母親になってしまっていた当時の加代は、それほど世間に疎い御嬢様だった。
 夫は当然寂しく感じていただろう。しかし、自分たちの前には時間はたっぷりあると信じていたのだ。会社が機動に乗れば、君のご両親もきっと結婚を許してくれる。それまでは寂しい思いをさせるけど我慢してくれ……。智のクマの絵を見ながら、すまなそうに言ったあの人。それからわずかニ年後に旅先で客死することになるとは、誰が想像できただろう。
 泣きはらし、しばらくは病人のようになってしまっていた加代に比べ、智は淡々としていた。父の不在は、智に悲しい思いをさせないための神の配慮だったのかもしれない、と加代が思うほどに。
 しかしあれほど好きだった『三匹のくま』を読んでくれとねだることはなくなり、クマの絵を描く事もなくなった。もう小学生だったから母親に絵本の読み聞かせをしてくれと言う年頃ではなくなっていたのかも知れない。
 そう言えばあの本を処分してしまったのは智だった。大好きだったじゃないの、と思わずきつい口調で言ってしまったが、赤ちゃんの読む本だよ、もういらない、と素っ気なかった。あの時はいつまでも小さくて可愛いと思っていた智が、妙に大人びて男らしく見えたものだった。

 おそらく自分がそんなふうにクマの絵を描いていた事など忘れてしまったのだろう……。加代はクレパス画を紙ばさみにしまった。感傷にふける自分を奮い立たせるように、作業を再開する。
 一番最近のスクラップブックが開かれたまま床に置かれていた。加代さえ驚くほど大人になった智が笑っている。以前は母親似で父親の面影を宿していないことを悲しく思ったこともあったが、小さく生まれた智に、俺もオクテだったんだと言っていた夫と同じように、高校三年頃からどんどん背が伸びていった。
 加代はスクラップブックを閉じると、紙ばさみと共にクロ−ゼットの奥にしまい込んだ。あの子は最近どんどんあの人に似てくる。背格好、ちょっとした仕草、歩き方、声、後姿。
 立ち上がると目の前に、智の夏用の麻ジャケットが吊るしてあった。駄目ねぇ、クリーニングに出しなさいと言ったのにこんなところに……手に取ると懐かしい匂いに、思わず涙がこぼれ落ちた。あの人の匂い。……あの子は以前、こんな体臭じゃなかったのに。

 今日は智はいないから。……加代はジャケットに顔を埋めると、久しぶりに泣いた。



Daddy Bear(2)に続く


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