第壱話   俺は小次さん、お前は将さん

 春、うらら。何処からともなく鶯の鳴く声も響く、ここは水戸城、本丸。
「まぁまぁ。そうかしこまるでない、将之進。面を上げよ」
畳みに触れんばかりの丁髷に、ご老公は優しく声をかけた。
 徳川権中納言光圀。藩主を退いた後、西山荘にて隠居の身であるはずだが、ご登城とは、今日は重大事のご様子である。
 この度、ようやっと諸国をめぐる漫遊の旅を終え、引き続きそのライフワークというべき「大日本史」編纂にとりかかったところであった。助さんこと佐々木助三郎、格さんこと渥美格之進ともども、多忙な日々を送っている。
「この度の諸国漫遊の際には、各地で様々な不正を目にし、あにはからんや世直し行脚のごとくであった。しかし本題は編纂事業のための諸国見聞であったからな…」
 ここでご老公は目を伏せ溜息をついた。「世直し、と言うにはほど遠い。ほんに心残りじゃ。さらには先ごろ綱吉めが生類憐れみの令などという悪法は出すは、江戸城では老中柳沢吉保らの動きも胡乱であるし…天下はますます乱れておる」何事か決心でもしたように、屹然と目を開いた。
 土井垣将之進――先ほど畳みに髷が付くぐらい這いつくばっていた男である――は、ご老公の次の物言いを、これ以上にないくらい真剣な面差しで待ち構えた。また、世直しの旅に出て行かれるおつもりやもしれぬ。いつ何時共に召されることがあってもいいように、普段から修練は怠らなかった。早くに父母を亡くし、天涯孤独の身となった彼に目をかけてくださった恩人…将之進にとって、水戸のご老公は主君というよりも、父母のごとき人物であった。
「何なりと仰せ下さりますよう。この将之進、ご老公のためなら、命も捨てる覚悟にございます!!」
 あいかわらず仰々しい将之進に、光圀は微笑みを禁じえなかった。文武両道の優れた若者だが、大真面目で融通が利かないのが玉に傷である。珠の顔(かんばせ)、といった言葉がそっくり当てはまるような美丈夫なのに、今まで浮いた噂一つとて聞かぬ。助三郎との顔と格之進の性格を混ぜ合わせたようだわい、とも思う。しかしことの重大さを考えるなら、このぐらい堅物なのも相応しいと言えよう。『主人がアレだし…もう一人がもう一人なだけにのう』
「他でもない。またぞろ諸国をめぐろうかと思うておるのだが…」
「在り難き幸せに存じます」
「これ早まるな、まだ何も言うてはおらぬ。…この度も、わしが直々に出向こうかと思うていたのだが…。ほれこのとおり、編纂の仕事が忙しゅうてな。助も格も同様じゃ。して困っておったところ開祖殿がな…」
「開祖殿、と仰せられますと?」
「さてそれじゃ。これからする話しは、他言に無用じゃ。まぁ話したとて信じてもらえぬだろうが…。開祖、徳川家康公が、鯛の天婦羅にあたってお隠れになったのは存じておるな?」
「はぁ」
「あれは、実は影武者での」
「はぁ…」
「開祖殿は、今でも元気ハツラツじゃ」
「……は?…今は、五代将軍の御世にござりまするぞ!!」
「そうじゃのう。もう幾つになられることやら…相も変わらず女に酒にと…ゴホゴホッ、兎に角、ご存命なのじゃ、ピンピンしておられる。まことに困ったもの…いや、まぁ、そこでじゃ、開祖殿が忙しいわしに代わってじゃな、諸国漫遊の旅にご出立なさるのだそうじゃ」
「はぁ…して、それがしに共をせよ、との仰せででござりますな!在り難くお受け仕ります!!…殿のご恩に報いるためなら、それがし、たとえ火の中水の中…」
「もうよい、もうよい!」また、前よりさらに深く額づく将之進に、光圀は苦笑した。ふと、酒の匂い。「おお、開祖殿、これはこれはわざわざ、かたじけのう…」
 近付く酒の匂いに、真面目な将之進は顔をしかめた。しかし開祖、という言葉にますます額を畳みにこすりつける。
 光圀の言葉を制するように、下卑た濁声が響いた。酒に荒れた声である。
「おいおい、顔を上げな!面が見えねぇぜ…ほう、こりゃ確かに水も滴る男っぷりじゃねぇか…さすが光圀、助三郎といいこの将之進といい、いい趣味だ」顔を上げると、目の前には、猫のようなヒゲをはやした、貧相な老人。
「おう、おめぇが土井垣将之進か…俺が徳川家康だ、よろしく頼むぜ」貧相な老人は将之進の青々と瑞々しい月代を撫でまわすと、「おーい、コジ!コジさんよう!将之進OKだとさ!おめぇの言う通り光圀を通したらイッパツだな!」
『う、嘘であろう?こんな下品なジジイが日光東照宮に祭られているあのお方などと…』将之進は眩暈を覚える。
「よぉ、将之進…しばらくぶり…いや、三日前にもあったな」
 もみ上げのある、毛深い濃い顔立ちの男が、ニヤニヤ笑って将之進を見ている。結構な生まれ育ちなのに、まるで浪人だ。また月代の手入れを怠っているからであろう。これでも身なりを整えればなかなかの男っぷりなのに、貧相な徳川に合わせたのか、着流しスタイルであった。
「い、犬飼小次三郎!!!!」将之進は愕然とし、野良犬に追われた子犬のように、光圀の姿を探した。犬飼小次三郎…水戸藩随一の剣の使い手で、頭も切れる、素行は悪いものの、とにかく出来る男であったが…将之進はこの男が怖かった。 むろん、剣では劣るものの、柔術の腕なら将之進が一枚上手だったので、そんなことが怖かったのではない。この男と出合ったのは三年前、剣術道場へ通うようになってからで…当初は、光圀の秘蔵っ子だったためにとかく世間知らずな将之進に、何かと気配ってくれる優しい同年の先輩だと思っていたのだが…。つい先ごろ、周りの友人から、おい将之進、お主犬飼と衆道の契りを結んだそうだな?と尋ねられるに及び……『きゃつが友情のしるし、とか言っていたのは全て若衆と念者とやらがやるようなことであったのだ』それがしは稚児などではないぞ!……かくして、将之進は小次三郎をあからさまに避けるようになっていた。と、いうのに。……
「ご老公様!ご老公さまぁ!!」将之進は思わず叫んだが、しかし光圀は何時の間にやら退出していた。『は、はめられた!』
「おお、どうした将之進、いや、これからは将さんだ。小次さんと仲良くやってくれよ。さぁ、決まったからにはさっさと出発だ!こんなキナキナしたところに居られるかってんだ!先ずは江戸だ、江戸と言えば……くひひひひひ」
「江戸と言えば…ウフフフ…」徳川と小次三郎は、顔を見合わせて含み笑いをしたが、世間知らずな将之進には何が面白いのかわからない。きょとんとしている将之進に、小次三郎がにじり寄る。   
「寄るな!触れるでない!」慌てて邪険に振り払おうとした将之進の肩に腕を回すと、耳元に口唇を押し当てるように、小次三郎が囁いた。
「開祖徳川家康公様に、重ねて水戸のご老公様のご命令だぞ?…仲良くやろうぜ。そんな格式ばった言い方はよしねぇ、俺たちゃこれからは町人だ。…俺は小次さん、お前は将さん、てな」
 後を継ぐように徳川が言う。「俺も前征夷大将軍じゃねぇ、越後のちりめん問屋の楽隠居よ」どう見たって酔っ払いの乞食ジジイだ…将軍様にも見えないが、楽隠居にも見えるものか。将之進は再び眩暈を覚えた。
 優しく…そして下心見え見えに、小次三郎が抱きとめる。将之進は、何故か自分の顔が赤くなるのに閉口した。
 これは悪夢だ。何かの間違いであろう!!!




 翌朝。水戸から江戸へ向かう道の途上に、旅の三人組みの姿があった。
「どうにも腰が軽くて…落ちつかぬ」馴れぬ町人スタイルに戸惑う将さん。
「旅に出りゃ全てが新しい…昔に固執してどうする。そのうち馴れるさ」町人というよりは股旅物のやくざにしか見えない小次さん(俺は月代は剃らねぇ!の一転張りであった)。
「おうよ!帰ってくる頃にゃ、帰るのが惜しいくらい馴れてるもんさ」やっぱり乞食ジジイにしか見えないご隠居(それでも前征夷大将軍徳川家康公である!)。

「…そんなものでしょうか」
「ホームシックかぁ?小次、慰めてやんな」ご隠居が、かっかと笑う。
「ち、違いますよ!それに犬飼…いや、小次さんの慰めなんか要りません!」
 しかし、将之進−いや、これからは将さんである−は水戸城を振りかえった。『ご老公様、行って参ります』
「こいつ、振り返ってやんの!やっぱりホームシックだぜぇ」ご隠居は、ますます高らかに笑った。 「かぁっかっかっかっか……」
 春の野辺に、ご老公の馬鹿笑いは、いつまでも響く。




(ナレーション)
時は元禄三月二十日、三人の、行くてに待つは虹か嵐か、ただ街道だけが知っている、ご老公の笑い声に、唱和するよなひばりの声も、一行の、旅立ちを祝うよな春の朝であった。
(ナレーション終り)


 
 

第壱話・完

第弐話に続く
 



 

PC用眼鏡【管理人も使ってますがマジで疲れません】 解約手数料0円【あしたでんき】 Yahoo 楽天 NTT-X Store

無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 ふるさと納税 海外旅行保険が無料! 海外ホテル