町人の旅装束に身を固めた将之進、いや将さんは、やはり脇差がないのが気になる様子である。
「遅い。……小次三郎、いや小次さんは何をしているのだ?」将さんは左腕のローレックスを……もとい、徐々に明るさを増して行く東の空を眺め、眉をひそめた。
当時の旅は明け方より始め、歩けるだけ歩き、日暮れには一番手近な旅篭に泊まるのが一般的であったから、こんな早朝でも東海道のスタートラインである日本橋は、旅立ちに気もそぞろな人々で賑わっていた。
「ご隠居も既にお待ちだというのに…これでは今日中に小田原、というのは無理だ」明らかにお冠でイライラ、ぷりぷり待ちわびる将さんに、徳川は――本当はご隠居なりご老公なりが相応しい記述なのだろうが、どうにもピンとこないので徳川とさせていただく――眠そうに欠伸を返した。
「まぁそう怒るなって、馬に蹴られて死んじまうぜ。吉原に馴染みの女がいるらしいからよ、今頃後朝(きぬぎぬ)の別れを惜しんでんだか、最後の…」伸び上がると将さんの耳元で口にするのもはばかるようなことをささやいた。なんとも下品なジジイである。
「な……なんですと!」生真面目な将さんはとたんに顔を赤らめる。「大切なお役目を仰せつかっているというのに、なんたる破廉恥、なんたる不謹慎!」
昨夜、似非黄門ご一行は、町人スタイルでありながら、仰々しく江戸は水戸屋敷に迎えられた。光圀の密命を受けたもの、として。
光圀が彼らに託したのはほかでもない…讃岐藩の不穏な動きを探ることと、光圀暗殺を画策するもののあぶり出しであった。むろん、讃岐藩騒動はいわばつけたしのようなもので、メインは暗殺者の割り出しである。
光圀を父とも慕う将之進は、この特命にいきり立った。『ご老公を亡き者にせんとは……許せぬ』
もちろん、このご老公とは先の副将軍水戸光圀公のことであり、今現在、似合わぬ旅のご隠居姿でさかんに欠伸をかみ殺している徳利を下げた貧相なジジイのことではない。
こんなジジイが開祖家康などとは信じがたい、きっと頭のねじのゆるんだ、いつ死んでも惜しくないただの影武者ジジイであろう……しかしながらそんな将さんの憶測は残念ながら誤りで、実際このジジイは徳川家康その人であるのだが、死んだはずのこの人物は当然幕府の持て余し者であり、みなの『一刻も早くお隠れになってくだされ』の願いのもとに、今回の旅立ちは画策されたのであった。さすがに暗殺死は困るが、旅中の横死は、……万人の望むところである。
そんな周囲の思惑を知ってか知らずか、徳川は再び欠伸をかみ殺した。退屈そうな老人の姿を眺めながら将さんは、
「もうあんなヤツは置いて行きましょう!」
本音を言えば、小次三郎と一つ屋根の下に泊まるなどと、とんでもない…将さんがそう、思いを巡らした時、なにやら甘ったるい匂いが鼻についた。不意に、毛深く逞しい腕が肩にまわされ、慌てて振り向く。
「念友を置き去りになんて、ずいぶん薄情な話じゃねぇか」
「人聞きの悪いことを言うな!」嗅ぎなれぬ香りに、将さんは眉をひそめる。「なんだこの匂いは?」
「白粉(おしろい)の匂いじゃねぇかよ!」徳川は興味津々である。「わかんねぇなんて、お前一体幾つになるんだ……ひょっとしてよう」やれやれ、これはとんだ朴念仁、石部金吉だぜ。光圀がよろしく、と預けたのも無理はねぇな。旅の終りにゃ、一人前の男になれるかな……。
徳川の思惑をよそに、小次さん、将さんの旅は、正月漫才のように賑やかに始まった。