第参話  トドの目に涙・戸塚(前編)





 やがて一行は東海道は西、戸塚宿へ。
「ちっ、天ぷらで一杯やりたかったのによぅ」
 結局、当初予定の小田原には日暮れまでに到着できず、手前の戸塚で宿をとることになった。小田原名物にこだわっていた徳川は名残惜しそうである。
「出立が遅い上に、途中の立て場茶屋であんなにゆっくりしていて小田原に間に合うわけがないでしょう!初日からスケジュールが狂いっぱなしじゃないですか!」
「何きりきり怒ってんだ、将さん?」ぼうぼう伸び放題の月代に、茶屋の名残の爪楊枝を咥えた小次三郎の姿は、ちりめん問屋の手代に化けたつもりの本人の意思とは裏腹に、残念ながら股旅ヤクザとしか見えない。
「小次さんのせいだ!茶屋で女と姿を消しやがって!!」
「悋気かい?うれしいねぇ」
「するか!」
 小次さんは面白そうに眉を吊り上げたが、ふいに真剣な顔になる。「やはりあの男、ただ者じゃなかったぜ」
「破れ菅笠を被った男だな……小次さんも気づいていたのか」将さんは小声でささやいた。
 日本橋を出て間もなく、後をつけている、としか思えない、行商人風の男に気づいた。
小次、将両人とも、二日酔いでグロッキー気味の徳川をいいことに、わざと足を速めたり遅らせたりしてみたのだが、この男は時には追いぬいたり追いぬかれたりしつつも、常に一定の距離を保ってついてきているように思えたのである。
 男は右目のあたりに切り込みのはいった菅笠を目深にかぶり、茶屋についても取ろうとしない。何かの目印なのか、はたまたアクセサリか、荷につけられた赤い風車が風にカラカラと回っていた。
『後をつけてみたが…まかれた。女を上手くダシに使ったんでバレねぇと思ったんだが』
 相変わらず漫才コンビのような二人だが、そっと目配せを交わす。
『小次三郎、お主がまかれただと?……やはりただの風車売り、ではなさそうだな』
『件(くだん)の讃岐の犬、かもしれん』
『あの男もこの宿場に…』
『おそらく。犬なら泳がせておくが、刺客だと厄介だ』
 こんなジジイの命など……と将さんが口を開きかけた時である。
「おう、お前ら!何テレパシーで会話してやがる。ぼうっとしてたら留め女どもの思う壺だぜ、しゃきっとせんかい!!」
 徳川の濁声に顔を上げれば宿場の入り口である。
「ちょいとお兄さん!お安くしとくよ」
「こっちの飯盛り女は粒ぞろいだよー」
 宿屋の客引き女たちの黄色い声が飛び交い、もはや風車の男を捜すどころの騒ぎではない。中には荷物を奪いとって無理やりにつれ込もうとする女もいて、小次さんも将さんも自分の荷物の確保に必死になった。
 情報インフラと言えば飛脚や早馬ぐらいしかないような当時、庶民にとって宿泊施設の予約制度、などと言うものは存在しない。全ては街道での客引きにかかっていた。とめ女とは各宿屋がそれぞれ道端に出張させていた客引き女たちのことである。当時の彼女らは今の客引きのように店頭で、などとは甘っちょろいと言わんばかりに、女によっては次の宿場から出張してきて、客の手を自分の着物のふところにつっこませたまま、強引に宿屋につれ込むような猛者もいた。
「きゃあきゃあ!見て、あのお兄さん!!」
「まぁ、お役者みたいー!」
「あん、うっとりしちゃう、人形みたいな良いオ・ト・コ」
「それ違う番組でしょ?」
「TVシリーズ版じゃ設定が違うわ……って『人形佐七捕り物帳』なんてマニアック過ぎ」
 将さんの男ぶりは水戸城下でも評判だったから、こんな田舎では弥勒さまのように見えた事だろう。
「きゃあ!!絶対GETよぉぉ!!!!」
 女たちの逞しい細腕が将さんの体に集中した。
「や、やめてくれ……」嗅ぎ馴れぬ脂粉の匂いに将さんはむせび、女たちのド迫力に恐怖さえ覚えた。
「ちょっと中央屋さん、なに抜け駆けしてんのよぉ」
「うるさいわね!ザコは引っ込んでなさいっ」
 将さんはたちまち腕を取られ、袖をつかまれ、帯を引っ張られ……。
「や、やめんか!袖がもげる!!」
 じゃあこちらにお泊りなさいよ、縫いつけてあげましょ……女たちの攻撃は止みそうにない。
「こ、小次さん!助けてくれぇ!!」
 しかし相変わらず楊枝を咥えたまま知らぬ顔を決め込む小次さんに、あだな年増女が微笑みかける。
「一方的にもぐなんざ無粋だねぇ。袖は取り交わすもんだろうに」
「お、姐さん、なかなか風流じゃねぇか」
「あんな騒ぎは放っといてさ、どうだい、今夜あたしと袖をやり取りしない?」
「そんなこと言っといて行灯(あんどん)つけてみたら、知らない飯盛りが寝ている、なんてことになってんだろう?」
 女はモミアゲに顔を寄せるとささやいた。「あたしは客はとらないんだけどさ……兄さんなら、いいよ」
「ふっかける気だろ?あいにく持ち合わせがよう」しかし小次さん、仏頂面を装ってはいるものの小鼻が脹らみ、まんざらでもないようだ。
 女は体を押し付けると更にささやいた。紅い唇がなまめかしい。
「厭だねぇ。……兄さんなら、おあしはいらないよ」

 けっ、若いってのはいいよなぁ……喧騒の中でただ一人、徳川はまた一杯徳利の酒を引っ掛けた。
「俺も後五十年若けりゃ、おめぇらになんざ負けねぇんだが……うわぁ!!!」
 突然、丸太のように太い腕が伸び襟首をむんずとつかまれ、徳川の痩せた貧相な体が浮きあがる。草鞋が空を蹴ったがどうにもならない。
「あい、お客様一名!」
 ぶん、と腕を一振り、徳川の姿は街道から消えた。
「ご、ご隠居!!」
 女にもみくちゃにされていた将さんだったが、突然の椿事に慌てて駆け出そうとした。
「いやん、行っちゃやだぁ」
「ちょっとぉ、あれ吉良屋のお権じゃないの」
 あいさつなしにここを通れると思うのか……小山のような巨体はぶつぶつつぶやきながら、次々と旅人をつかんでは投げ、つかんでは投げ……通りの向こうで待ち構えた人相の悪い男どもが、旅人を回収すると有無を言わさず宿屋へつれ込んでいく。屋号は、なるほど『吉良屋』。
「なんだぁ、陸に上がったトドかぁ?」小次さんは目を疑った。「女物の着物なんぞ……女かぁ!帯が二周ぐらいしかしてねぇなぁ……」
 首の短いその巨体は、確かに女物の着物を身にまとっていた。女物の柄ではあるが、どうみても相撲取りのようにしか見えない。丸髷の下の小さな目、天井を向いた鼻、出っ歯は見ようによっては可愛いとも思えたが、体躯が山のごとしでは如何ともしがたい。
「可哀想なお権ちゃん」年増女がそうつぶやくのを、小次さんは小耳に挟む。
「姐さん知り合いかい?」
「同郷だよ。亭主がいかさま博打に狂っちまったばっかりに……本当は大人しい良い娘なんだけどね」
「て、亭主持ちだぁ?!」
 
 もみくちゃにされ、片袖がほころび髷は歪み鬢はほつれた姿で、人込みをかき分け将さんが現れた。
「小次さん!何をしている、ご隠居がさらわれたぞ!!」
 女と話し込んでいた小次さんが顔を上げる。
「わかったぜ。それじゃあ、これから吉良屋に泊まる」
「本当に……兄さん、信じているからね。吉良屋と勘定奉行の横暴には、悲しんでいる者が大勢いるんだよ」
「うちのご隠居は中央にパイプがあるからな……任しときな」
 小次さん!将さんの催促に、小次さんは踵を返した。

 走り去る旅装束の後姿を、女は祈るように見つめ続けた。

 
 
 ここは吉良屋の布団部屋……ではない。どうやら立派な客室のつもりであるらしい。吉良屋で早速押し込まれた部屋は、一応大部屋ではなかったものの、蛸壺のような狭さであった。徳川は小柄だが、小次、将両名とも六尺はあるような大男だったから、こんな部屋ではあまりに狭過ぎた。
 徳川は壁にもたれ徳利酒をあおりつつ、空いたほうの小指で鼻の掃除に余念が無いが、残りの二人は辺りに憚るように額を集め、何やら話し合っている。
「いかさまで儲けるヤクザと、袖の下をもらう変わりに目こぼしをする奉行所……絵に描いたような話しだな」
「近隣一体の遊び人はみんなすってんてんになっちまったんで、今度は宿泊客に目をつけたってわけだ。そのうち賭場に来い、とあのトド……いや、お権が回って来るだろうよ。あの女の亭主ってのが、いかさま博打ですっからかんになって、で、泣く泣く吉良屋の飯盛り女になったんだそうだ」
「それは気の毒に」
 顔を曇らせる将さんに、徳川は笑いながら、
「へん、ギャンブルなんざで儲かると思ってるほうがどうかしてんのさ。客が儲かるなら誰がパチンコ屋や宝くじなんかで商売するかってんだ。己一人だけ勝つなんて思ってるのが甘ぇのよ。ま、そんな甲斐性無しと所帯もったのもその女の不運ってもんだろ、放っとけ放っとけ」
「ご隠居!この旅の目的には、世直し……」将さんが気色ばんだ時であった。
 
 小次さんの鋭い目配せ。
 
 将さんはわざと大きな声で、
「……出直したくなりますな。まるで布団部屋だ」
「食事もひどいだろうぜ、きっと」
 話しつつ、二人は耳を澄ます。徳川は鼻糞をほじる手を止めた。

 廊下の辺りで猫の鳴く声に、鈴の音が響いた。板の間を駆けて行く音。

「これでは三人分の布団もひけん」
 ほっとしたように将さんは笑顔になった。
「二人分ひければいいさ」
 小次さんも笑顔で返したが、何やら含みがある。
 ニヤリと笑う小次さんときょとんとした将さんに、粗末な土壁にもたれた徳川はカカカと笑うと徳利をあおろうとした。
 
 刹那、

「危ない!」
 
 空を切る赤い物体が、徳川の掲げた袖の袂(たもと)を壁に縫いとめる。将さんの防ぐ間もない。
「これは……」
 赤い風車。
 小次さんはすかさず道中刀に手をかけ辺りをうかがうが、もはや気配さえ消えていた。
「おい、待て、抜くなよ」思わず風車を抜き取ろうと手を伸ばした将さんに、徳川は徳利を掲げた姿勢のままで、「袖の下でまだ元気に暴れているぜ。こいつの息の根を止めてからにしてくんな」
 いぶかしげにのぞき込む将さん。「……蝮!」
 廊下をのぞいていたモミアゲが振りかえる。「手練れですな……風車を投げた者も、蝮を放った者も。廊下にも気配はありやせんでしたぜ」
 鋭利に削られた風車の軸で頭を貫かれた蝮は、やがて、動かなくなった。
「壁は薄いですが蝮が出入りできるような隙間はありません……」将さんは壁伝いに見上げる。「天井から伝い降りてきたのでしょうか?」
 小次さんは抜き取った風車を見つめると、ふっと息をかけた。細工がいいのだろう、カラカラと小気味良く回る。「して、ご隠居。この風車の持ち主は?」
 徳川は小次さんの問いかけには答えず、何事もなかったかのように徳利をあおる。そしてごくりと飲み干した。
「……ま、その内わかるだろうよ。おや?……トド御前がいらっしゃったようだぜ」
 
 ズシーン。ズシーン。
  
 重々しい足音が一歩近付く度に、一行は畳みから体が浮き上がるのを感じた。

 
   
 
 
 ふいに足音が止む。
 へい、わかりやした、行ってまいりやすっ……ひぃ、とか、うへぇ、とかうろたえながら、転げまろびつつ廊下を走り去る音が聞える。隣の部屋の客らしい。
 ズシーン。ズシーン。
 部屋の前で止まり、小次、将両名の顔が引き締まった。徳川は相変わらず徳利をあおっている。
 引き戸が滑った。
「お客さーん。賭場が開いたのよー」
 高いが、しゃがれたような声が天井の辺りから響く。小山のような巨体は斜めにしなければ入り口をくぐることができないだろう。窮屈そうに顔をのぞかせた。「もし、お客さまー」
 迎え撃とうとする若い二人を、しかし徳川は制するように言った。
「こんなこといくら続けても、あんたの勘介さんは帰ってこれねぇぜ」
「お客さん、なんであの人のこと知ってるのよ?」トドのような大女――お権は怪訝な顔をした。
「あんたの同郷の姐さんがこの宿場にいるだろ。全部聞いたぜ。この度のことは、俺らに任してみねぇか?悪くはしねぇ。……そんな不思議そうな顔をすんなよ、ほれ、この紋所が目に入らぬかーってよ、一ぺんやってみたかったんだ、ウヒヒヒ」
 徳川は胡座をかいたまま、鼻紙でも取り出すように無造作に、懐から印籠を取り出した。もちろん葵ブランドである。
「?……ああっ!これ、TVで見たことあるのよ!!」お権は素っ頓狂な声を上げた。
「しーっ、声が高い!ご、ご隠居、むやみに出されては困ります!!」 
「いいじゃねぇか将さんよ、減るもんじゃあるめぇし……ほれほれ、どうだあり難いだろー、頭が高い、控えおろう、おりゃー、額づけ額づけ」
 あり難いご印籠はヒモの先で不様にぶらんぶらん揺れる。
「ちっ、例の厳かなミュージックがねぇとどうも気分が乗らねぇなぁ。MIDIの一つでも鳴らねぇのかよ、このサイトは」
「ご隠居、贅沢はなしですぜ。ここのアホな管理人にそんな知識はねえ」
 小汚い狭い部屋の中で、畳みに這い付くばるお権の頭上、酔っ払いの震える手にぶら下げられ、ご印籠は風もないのに相変わらずぶらぶら揺れ続ける。

『嗚呼、ご老公さま……葵の紋所が泣いておりまする!!』
 将さんは一人、袖の先で思わずこみ上げてきた涙をぬぐった。

  

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