日ハムバッテリー(1)





 『悔いはありません』
 『結果は二の次です、この勝負、これで良かったんです』
 『次は必ず抑えます、ストレート一本で!!』

 西武ライオンズ球場内選手控え室。
 不知火は静かに、今日の試合内容を思い起こしていた。
 慰めの言葉をかけられるのが鬱陶しくて…、いや、本当は怖かったのかもしれない。ロッカールームで最後の一人になるまで、ぐずぐずしてしまった。
『…完敗だ…3本も打たれるとは』決して、調子は悪くなかった。しかし…一試合に3本。高校時代でさえ、たった一試合でこんなに打たれたことがあったろうか。
 試合終了直後はそれでも、明日があるのがプロだと…『次は必ず』と言ってのけたが…脳裏に甦る、第1打席、第2打席、第3打席…『チクショウ』
 
 野球を続けろ、と高校野球に山田太郎を誘ったのは俺だった。確かにヤツがいなければ、甲子園に出場できていたとしても、よしんば優勝投手になっていたとしても、ただの速球投手だったかも知れない。今の俺があるのはヤツのお陰と言ってもいい。左目を手術し、変化球に磨きをかけ、超遅球を編みだし…。充実した、素晴らしい高校野球生活だったと思う。ただ…こんなにも苦渋に満ちたものになろうとは、好敵手を求めて山田に野球を勧めていたあの頃は、想像もつかなかった。どうしても、どうしても…ヤツには勝てなかった。
 プロ初対決はこちらが引導を渡してやろうと思っていたのに。俺に力がないはずがない。力がない、はずがないんだ!!

 
 ……人気の無いロッカールームに、バッグの叩きつけられた音が響いた。
 
 

 川越中学、白新高校とも、不知火のワンマンチームと言えた。彼一人の出来不出来が、直に試合状況を左右した。ただ彼は自身は、ワンマンチームだとも、自分一人でゲームを左右できるとも思ったことはない。井戸の中で倣岸な蛙になれるほど身のほど知らずな無知な男ではなかったし、なにより9人で行う野球というスポーツの性格を知り尽くしていた。しかし彼個人がどう思おうと、チームメイトも監督も彼を頼りにした。
 焦り、動揺、畏れ、弱気といった負の感情を極力表に出さない性格が…自覚はしていないが、自分一人で抱え込んでしまう性格が作られていったのも、致し方のないことである。
 
 それが何かしら打ち解けがたい、孤独な雰囲気を醸し出していたことに、彼は気づいていない。

「不知火…」背後からの声に、驚いて振り向く。
「送迎バスが出ちまうぞ」戸口に佇ずむクルーカットの男。
「土井垣、さん」早く一人きりになりたいと居残りを決め込んでいたので、ふいの呼びかけは不知火を、ひどくうろたえさせた。
「…だよな、これで良かったなんて、思えるわけないよな」
「………」慰めの言葉だったら、いらないぜ。あんたに、なにがわかるんだ?ヤツと一緒に、甲子園に行けたあんたなんかに。…不知火は無表情にバッグをつかむ。

『不知火…』その生意気な顔つきは懐かしい。ふいに土井垣は唯我独尊と言う言葉を思い出して、こっそり微笑んだ。
 高卒ルーキーとして土井垣の前に現れた不知火は、高校時代からは想像もつかないほど低姿勢だった。
 超高校級ピッチャーとしてスカウト筋には有名でも、一度も甲子園出場を果たせなかった不知火は、山田や里中と言った面々に比べれば、一般的にあまり知られているとは言えない。そんなわけで日ハムの先輩選手たちには、「これぐらいの歳にしては、きちんと敬語の使える礼儀正しい青年」と思われたらしい。…マウンドで右腕を突き上げる、生意気なくらい自信に満ちた姿が印象深かかったせいで少々緊張していた土井垣は、こんな不知火の姿に拍子抜けしたものだった。
 しかし今、そっぽを向いた不知火に、土井垣は明訓時代を思い起こす。
 
『この不敵な面構えは、白新時代の不知火だ。とすると俺は、明訓の土井垣、と思われているわけだな。お前にとって選手が監督かは知らんが。…だったら俺も、明訓の土井垣に戻るとするか』

「今日の山田は異常だよ…神懸かりさ。そうでも思わにゃ、やっていけないこともある」
「……」
「俺たちはプロだ。試合が仕事だ。今までみたいな学業の合間、とは違う。これからは飽きる程、吐くほど試合をやる日々だ。神様の目の届かない日も、あるってことさ」
「神懸かり…」
「そうさ、実力だけではままならん時もある。…でなきゃなんでこの俺が、山田なんかに明訓の正捕手の座を渡したりするもんか。神様が里中を連れて来なきゃ、俺はキャッチャーをやってたさ…なんて言ったって、負け惜しみにしかならんがな、今となっては」しかし土井垣はむしろそんな高校時代を楽しそうに話した。
「里中とは、そんなに相性が悪かったのですか」
「俺は里中にあまり投げさせたくなかったんだ…あいつ、入学した時はもっとチビだったからな。165あるかないかだったろう…肩も華奢だったし、お前とは大違いだったよ。俺としては、体も成長しきっていない1年生に、9回も投げさせたくなかった。…エースになるには、きちんと大きくなってからでも遅くはない…まぁ、徳川さんはそんな考え方をする人じゃなかったからな。優勝請負人だ、あの人は。勝ちさえすれば、後は野となれ山となれだ」
「成る程ね…確かに里中の成長を待っていたら、明訓は土井垣さんが選手だった頃には優勝できなかったでしょう。ひょっとすると監督の頃もね」
「全くそのとうりだったろうよ。しかし、だとしたら、白新は1年生エース不知火を用して出場、ダイエーの犬飼小次郎と準決勝で投手戦になっていたかもな…俺はドラフトで注目されることもなく、今でも明訓の監督やってたかもしれん」
「…怪物くんと騒がれていたあなたが、何いってるんです」
「俺が1,2年の頃にはスター選手がいなかったんで、マスコミが群がっただけさ」
 土井垣は自嘲気味につぶやくと、腕時計をのぞく。「置いて行かれちまったぜ。後10分で戻らなかったら、先に行ってくれと言っておいたから」
「…先に帰ればよかったのに…」思わずそんな言葉を漏らした不知火は慌てて言い添えた。「いえ、どうもすみません、ご迷惑おかけして」しゃべり過ぎた、とでも思ったのだろうか。不知火はまた、素直な高卒ルーキーの仮面を被ろうとしている。
「こんなふうに負けた日は、バスの雰囲気も最悪だからそう迷惑でもないさ。…いやでも一緒に帰ってもらうぞ」
 不知火は不満そうな顔を、土井垣の後ろをついていくことで隠した。

 
 
「昭和40年代の野球選手は電車通勤だったそうだ」電車に揺られながら、土井垣は面白そうに言った。「近鉄バファローズの話だけどな。セ・リーグは知らんぜ」一方的に続く会話。不知火が奇妙に寡黙なのが、土井垣には気になる。
 
 遅い時刻のせいか車内はあまり混んでいなかった。ファンが減るのを待っていたら、結局終電近くになってしまっていた。
 車窓に映る自分たちの姿に、不知火は苦笑する。電車じゃ目立ち過ぎます、と土井垣に言うと、お前こそ試合が終ったんだからその帽子を脱げ、と返された。土井垣さんこそ、その髪型なんとかしてください……というわけで、無帽の不知火と、ひさしに切り込みの入った帽子を被った土井垣、という珍妙な二人づれが(妙なのは土井垣だけだ、と不知火は思う)シートに並んで腰掛けているのであった。
 いかにもスポーツマン風の体格で、とても目立つ細工のほどこされた帽子を被った男が西武球場前から乗り合わせれば、野球ファンなら気づいてもよさそうなものだが、みな一応に土井垣の顔をのぞきこんでは、紛らわしいとでも言いた気に、不機嫌に顔をそむけるのであった。
「俺の素顔って有名じゃないのかなぁ」
 土井垣は呑気に笑う。あんたはグラサンかけるより、かつら被ったほうがよっぽど変装になるぜ…不知火は帽子を取った素顔の自分に人々が注目しないのに、少なからずショックを受けたのでこんなことを考える。
「2駅ぐらいなら、タクシーで行ってもよかったんじゃないですか」
 早く一人になりたかった不知火はイライラしていた。
「お前はタクシーでホテルに行くつもりだったのか?」鈍感なのか気づかないフリをしているのか、相変わらず呑気に答えると、不知火に答える間も与えず、土井垣は畳みかけた。「走って帰ろう、とか妙なこと考えていたんじゃないのかな?」
「……」残念ながら図星だったので、不知火はムッとする。
 その表情を読んだかのように、土井垣は声を上げて笑った。不知火はますます不機嫌になる。
「…先輩面するのは、グラウンドだけにしてもらえませんか」笑い声に笑顔で返したが、不敵な、という形容詞をつけるのにふさわしいものだった。
「やっと本音が出たな…真夏の男、不知火守」土井垣は微笑むと、かぶっていた帽子を不知火にかぶせる。「白新の赤い帽子とは、印象が違うもんだな」
 ひさしの切れ目から、見覚えのある目つきが土井垣をねめつけた。「だったら話しは早い…俺は機嫌が悪いんだ。あんまりかまうな」
 2年下の後輩の、あまりにも失礼な物言い…。しかし土井垣は予期していたのか、微笑みを崩さない。
「明訓との試合の後は、いつもこんな不機嫌な顔をしていたのか?」
「そんな、馬鹿言うな。俺は監督をしていたこともあるんだぜ」
「じゃあ、家で?」
「親父の前でそんな顔ができるか!あの人には…、感謝してもしきれない恩があるんだ」不知火はぷいと横を向く。
「では、一人で?わざわざ一人きりの時間を作って?…お前、暗いな」土井垣は可笑しそうに笑う。
「土井垣!」
「プロは毎日試合があるんだぞ…いや、ピッチャーは違うがな。でも高校の時よりはずっと多い。…一人で抱え込むなよ」
「あんたなんかに話してなんになる……しかし土井垣よ、高卒ルーキーにあんただの、名前を呼び捨てにされたりしても平気なのかい?闘将土井垣も、プロですいぶん丸くなったもんだな」
「……お前が、そのほうが気が楽なら、そうするまでの話さ」土井垣は穏やかだった。
「なぜ…」
「決まってるじゃないか、お前がピッチャーだからだよ」土井垣は静かに微笑んでいる。
「お前は日ハムのピッチャーで、俺はキャッチャー。恋女房ならピッチャーに、無駄な気を使わせるわけにはいかんからな。お前と初めて対戦したあの夏以来、ずっと俺を格下だと思っていたんだろう?あの時の俺ではそう思われてもし方がないし、…お前はずっと山田を追いかけていたのだものなぁ」
「俺に…、ルーキーの俺に格下だと思われていて悔しくないのか?」
「お前がキャッチャーだったらぶん殴ってるかな?」愉快そうな声。「でも、ピッチャーだから。俺の前では好きにしろ。…先輩達には、俺から上手く言っておく」
「……」不知火は押し黙った。車窓の土井垣は相変わらず微笑んでいる。後輩に舐められている先輩だと思われて、貧乏くじを引くのはあんたじゃないか。ピッチャーのためなら、何だってするのかよ。
「……だから、正捕手の座を譲ったのか?」
「えっ?」
「里中のために。山田を追って明訓に入った、里中のために?」
 土井垣は当時を振りかえるかのように目を閉じ…、やがて懐かしそうな顔つきになって、眼を開けた。
「そうだな…今まで、なんで山田にポジション取られても、さほど腹が立たなかった判らなかったんだが…なるほど、里中のためか。確かにそうかもな」土井垣は腕組みをした。「あの頃のあいつの武器は多彩な変化球とコントロールが全てで…、俺みたいな体のデカイ捕手だと、ストライクゾーンの見極めがつきにくく、投げ難かったらしい。だから山田なわけだ」
「俺はむしろ、的はデカイほうが投げやすいがな」
「そいつはうれしい。…正捕手の座も、近いかな?」
「別にあんたが恋女房だと言ってるわけじゃない」恋女房だと?…今までの不知火にとって、キャッチャーはむしろ…球止めの壁だった。全力投球を受けられれば、御の字だった。サインは常に不知火が出していて…それは左目の角膜移植手術を受ける以前、要求通りの微妙なコントロールがつきにくかった頃からの習慣であったのだが。

 土井垣は何か言おうと口を開きかけたが、再びむっつりと黙り込んだ不知火の横顔を見ると、同じく黙り込んだ。
 
 二人の思惑をよそに、電車は夜の街を走る。

 

 

バッテリー(2)に続く


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