訪問者はほんの一月前まではこの軍立病院の医局員であり、男の使用人の立場であったが、機関に引き抜かれた今となっては大事な客人である。
ノックの音が響くと同時に院長は椅子から立ち上がる。
ドアが開くとともに現れた訪問者は、会釈の後、少し乱れた長い髪を整えた。
「やぁ。変わりないようだね、ミュゼ君」
苗字で呼ぶべきか否か迷っているうちに、一ヶ月前と変わらぬ容姿で本人が現れたので、院長は思わず昔の呼び方を口走ってしまった。
眼鏡の奥の理知的なまなざしが印象的な美人だが、背中の中ほどまで伸びたロングヘアがその雰囲気を女性的で優しげなものにしている。よくみれば肉感的な唇がなかなか色っぽいと院長は思っているのだが、地味な化粧のせいであまり目立たない。
「おや、白衣で?」
「廊下で羽織って参りました、今日は診察のつもりで来ましたから。それであの子……いえ、彼はその後いかがです?」
「あの重度のシェルショック(戦争神経症)患者のことだね。相変わらず、大きな物音にも小さな物音にも怯えて過ごしとるよ」
ミュゼの態度が以前と変わらず下手だったので、院長は今までと同じ態度で接することにした。いくら軍の偉い機関に引き抜かれたと言え本人は末端であるし、自分は軍立病院の最高責任者なのだ。そう思うと気が楽になり、口が滑らかになる。
「その度に発作を起こすんだが、あの図体だから全く困ったものだ。全身痙攣でベッドの上で跳ね上がるもんだから、ビスがすっかりいかれちまってガタガタだよ。拘束衣もズタズタになってしまって」
「拘束されたのですか?」ミュゼが眉をひそめた。
「いや、そ、その、嵐の夜でカミナリがひどかったんだよ!……何しろ二メートル近くある巨体が暴れまわるんだから、看護人の危険も考えんと。困ると言えば、ちょっとした物音に怯えるほうがもっと迷惑だ。生活音というものがあるだろ?そのたんびにネズミだネズミだと発作を起こされちゃ……全くあの男、猫にでも囲まれて眠るがいい!」
「でも、彼が塹壕で経験したことを思えば……」
「仲間が目の前で吹き飛んだり、屍骸がネズミに食い荒らされるのを見たのは彼だけではないよ。兵士ならだれでも経験しておる。だというのにあの男は、怪我も完治し、今は五体満足だというのに」
「シェルショックは医学的に認められた症例です。心が傷を負っているのです」
「昔はただの怠け病、詐病と言っておったよ。見せしめに塹壕の上に立てた杭に縛り付けて敵の標的にしたもんさ……他にもこんな不心得者が出んようにな。シェルショックと病名がついたからどうだというのだ?治療法もないし、役立たずな臆病者であることには変わりはない」
院長はこの、治る見込みもなく引き取り手もいないシェルショック患者に腹を立てているだけなのだ、とミュゼは感じた。そのうち除隊になれば治療費を払うものもいなくなる。0番地区出身でありながら軍人になったあの子に、帰れる家などありはしないだろう。
「まぁ、塹壕戦が悲惨なのはわかっているよ……塹壕内で死んだ兵士は、壕の壁に塗りこめるのだそうだ。戦況が厳しくなって埋葬の暇もなくなると壕内が死体で一杯になるんだとさ。ネズミは最初、目から体内に入り込むらしい。邪魔な死体を蹴飛ばしたら、両目や口からネズミがぞろぞろ出てきたなんて話……」
ことさらむごたらしい話をすることで院長は目の前の若い娘に嫌がらせをはじめたようだ。女の分際で高名な博士の覚えめでたく引き抜かれた事に対して、嫉妬しているのかもしれない。
『そのうるさい口を縫合してやろうか?』
口を縫い潰され、涙を流す院長をリアルに想像した自分に嫌悪感を覚え、ミュゼはうつむいた。