高3夏・それから(1)



 19○○年、真夏の芦田旅館。その立地条件から多くの甲子園出場校から宿舎に選ばれてきたのであったが、今年は高知県代表土佐丸高校と神奈川県代表明訓高校の2校がダブルブッキングである。
 2校の宿舎は中庭を挟んで対峙するかのように向き合っている。
 まだ深夜、というほどの時刻ではなかったが、両校とも、昼間の練習に疲れ果てているのか、もう部屋の明かりは消され、眠りについているようであった。

 土佐丸高校の大部屋。皆熟睡しているのか、人の気配もなく静まりかえっていたが、ふいにすべるようにフスマが開くと、右目に黒いアイパッチをつけた男が顔を出した。そして振りかえると、後ろの男の腕を取り、廊下へ連れ出す。後の男は、あまり気乗りがしない様子である。
 アイパッチの男はもう一人の―もみ上げの目立つ長身の―男を、半ば引きずるように廊下を歩くと、トイレに滑り込んだ。
 相変わらず渋い顔のもみ上げ男を個室に押し込むと、自分も入り後ろ手に扉を閉める。どうもただの連れションなどではないようである。    
 そして衣擦れの音。
 たまに漏れる押し殺したような声と微かな吐息以外は、何も聞こえない。
 しばらくして、中の二人の動きのせいか、個室の扉が微妙に振動し始めた。扉の揺れは徐々に早くなり、やがて、もたれかかるような物音がして、扉は動かなくなった。激しい息遣いが、外に漏れる。

 狭く、暑苦しい個室の中では、もみ上げ男がそそくさと身支度をしている。アイパッチはまだ給水タンクを抱くような姿勢のまま、ぼんやり目を閉じていた。
「丹座…お前、こんなんで本当にいいのかよ?」もみ上げは身支度が終ったようだ。
「……」丹座と呼ばれたアイパッチの男は、何も言わない。ただ、無傷のほうの片目を開けると、のろのろと給水タンクから体を引き離す。
 行われた行為の割には、漂っている空気は何故かしらぎこちなかった。もみ上げは、こんな沈黙は苦手なのか、
「…ったく、こんなところに来てまでよ」ぶっきらぼうに言った。
「あのままみんながいる部屋の中じゃマズイだろ、キャプテン?」こんな関係なのに、丹座は犬飼小次郎のことをキャプテンとよび、本名を呼び捨てにすることはなかった。同学年なのだが。「便所でもどこでも、俺はいいぜ」どことなく名残惜しそうに、身支度を始める。
「…そんなこと訊いてんじゃねぇ」小次郎は小声でつぶやいた。丹座の支度を見届けると、扉をあける。「ふー、汗掻いちまった…ちょっと涼んでから部屋に戻ろうぜ」

 二人は人がいないのをいいことに、廊下の隅に、直に腰を下した。部員が眠っている室内は、小次郎の肩のことも考えて、冷房はしていない。廊下のほうが涼しかった。体が触れ合うように座ると、小次郎は相変わらず仏頂面だったが、丹座はかまわず、その逞しい肩にもたれかかった。いや、しな垂れかかったといったほうが相応しい。
「こんなんで本当にいいのかよ…」小次郎が、また同じことを言った。どことなしか、詫び言でも言っているような雰囲気だった。
「なんだ、急に…そんなこと一度も訊かなかったろうが、今まで」あんたの気持ちは俺だって知ってるさ、丹座は1人ごちた。俺をそういう対象として見られないことぐらい分かっている。幼馴染で良く知っているだけに、いい加減諦めたよ。二人を繋いでいるのは普通の意味での友情と…小次郎の、俺の潰れた右眼への罪悪感と、そして―ここで丹座はにたりと寂しそうに笑った―俺のテクだってことぐらいはな。しかし。小次郎の女遊びは相変わらずだが、男は…ここしばらくは俺1人だ。
 この状況に丹座はそれなりに満足していたが、ここ芦田に来てから、気になることがある。
「あの土井垣ってヤツは、イケメンだな」思わぬ丹座の言葉に、小次郎が咳き込んだ。
「何をむせてる…気になるんだろ、あの明訓のキャプテン」愉快そうにほくそえむ。
「まさか、あんなでっかい坊主やろう…お前こそ、趣味かよ?」小次郎がわざとらしく言い返えした。顔色は暗くて分からないが、体温が上がったのか、体から熱が伝わってくる。本気じゃないだろうな…丹座は胸の痛みを覚えた。
「あんな真面目くさったヤツは趣味じゃねぇ。里中ってヤツのほうがかわいい。ちっこいし、華奢だし、…あいつぜったいケがあるぜ、ウフフ。…土井垣ってよ、顔はきれいだが、見れば見るほど間抜け面だと思わんか?あいつ野球以外は何にも知らんぞ、きっと。ガチンガチンのノンケだぜ、つまんねぇやろうだ」わざと挑発するようなことを言ってみる。
「里中か…成る程顔はイケてるが、腹に一物ありそうなヤツだ…。それに、バッテリーでデキてるぜ、あいつら。あのデブはともかく、里中は真性だな、きっと」ここまで冷笑的に話した後で、顔つきがにわかに緩んだ。「…土井垣は、…ありゃ確かにバカだな。野球エリート、純粋培養の雰囲気だ。女にモテモテだがよ、きっとチェリーだぜ…お子様ランチ」小次郎は悪口を嬉しそうに言う。土井垣の話しをするのが嬉しいのだ…丹座は、自分の嫉妬を自覚した。
「ああいう、いつも必ず正しい側にいるような生真面目なヤツは気にいらねぇ。あのチェリー、落としてやろうか。あんなノンケやろう、俺のキス一つでメロメロだぜ…今年の夏を、忘れられないものにしてやろうか、ウフフ…」
「馬鹿野郎!…初めての相手がお前みたいなテクニシャンだったら、アイツその後の人生狂っちまうぞ。ほっといてやれよ、あんなお子様」小次郎はどうでもいいような口調で言うが、そういう時ほど気にしているのだということを、丹座は長い付き合いで知っていた。
「ヤツの人生がどう狂おうが、キャップにゃ関係ねぇだろ?」しな垂れていた体を引き離すと、丹座は立ちあがる。
「おい…」思わず気色ばむ小次郎に、丹座は笑いかけた。
「冗談だよ、本気にすんな」
 二人は大部屋へと戻った。
 小次郎の隣の布団に横たわりながら、丹座は寝つけないでいた。小次郎はまだ土井垣への自分の気持ちに気づいていないようだ。しかし、それにしても…いくら面食いとはいえ、あんなきれいな顔しか取り柄がないような男の、どこがいいんだ?……調べてやるか。
 丹座は布団の中を転々とした。隣の小次郎の様子をうかがうと、どうやらぐっすり眠ってしまっているらしい。
 丹座は起きあがると習慣の、一人よがりなお休みのキスをした。



「?……」ふと、人の気配を感じて振り向いたが、誰もいない。

 土井垣はここしばらく、誰かに見られているような気がして落ちつかなかった。
 練習中はおろか、食前食間食後、雑談中、風呂上り、果てはトイレ…視線は無遠慮に四六時中絡みついてきたが、振り向くと、そこには誰もいないのであった。ただ、たまに犬飼小次郎の視線とぶつかる時がある。たいていヤツはニヤリと笑い、何故か土井垣は慌てて目を逸らしてしまう。迷惑だ、と詰問してやろうかと思っているうちに、視線が2種類あることに気づいた。
 どういうわけかどぎまぎしてしまう熱い視線が犬飼のものであり、もっと別の、冷酷な観察者の視線が、四六時中まとわりついて土井垣を悩ませているものであった。

「…で、…土井垣は犬飼に見つめられると、ドキドキするのか?」沢田が悩ましそうに言う。
「ドキドキとまではいかんが…。何か変な感じだ」
「キャ、キャプテン!」山岡が悲鳴のような声を上げた。「あんな、柄の悪そうな敵の主将なんかに…」
「なんかに、って?」土井垣はオウム返しに聞き返す。
 たまたま2,3年生のみが集まって雑談しているのを幸いに、このところ続いている悩みを打ち明けた。1年生達にはこんな話などしたくない。岩鬼はうれしがりだとバカにするだろうし、里中は俺も俺もと言い出すだろうし、山田の四角四面な解答など聞かなくてもわかるし、殿馬は「そりゃ、てぇへんづらな」で片付けてしまうだろう。
「い、いえ、別に…」山岡はしかし、心配そうである。
「…問題なのは犬飼のじゃなくて、正体不明の視線だ。…何故か悪意を感じるんだ」土井垣は眉根を寄せた。
「犬飼のは悪意は感じないんですか?」石毛は興味深げである。
「ヤツのは悪意は感じない…何だろうな、よくわからんのだが…ヤツのは、とにかくこちらの居心地が悪くなるような、居たたまれなくなるような、何か体が熱くなるような視線だ。…もう一つのは、何か観察されているような感じなんだ」
 犬飼のは、ひょっとして裸にされそうな視線ですか…言おうとして、石毛は黙った。この手のことは山岡や沢田さんに任せよう。
「1年生どもは俺なんか見つめないだろうし…現に里中は山田ばっかりだしな…、徳川さんのとは違うし、お前達でもないとすると、土佐丸の連中としか思えん。旅館の従業員達は、いくらなんでもトイレの中までも俺を見つめたりはしないだろう」
「ト、トイレ!」山岡と沢田が同時に叫ぶ。「観察者の視線を感じたのか!」
「うん…じろじろと…」土井垣は頬を赤らめた。その時、
「そこだ!!」土井垣は窓辺を指差した。みんなわらわらと、あちこち見渡してみたが誰の姿もない。
「…考え過ぎ、ということはないですか?」と北。
「いや、確かに感じたんだ……何か…頬や唇を舐められたような、気がした…」思わず頬に手をやる。
 気味が悪い。皆、しばらく沈黙した。
「…ねぇ、キャプテン、この辺りは昔、ことのほか空襲が激しかったそうですよ…」北の眼鏡がキラリと光る。「きっと、誰かがキャプテンに訴えてるんです…俺も甲子園で投げたかった、ボールを受けてくれって…」
 真昼の怪談など普段なら笑い話だが、その前の土井垣の反応が反応だっただけに、それぞれの背中に、冷たいものが走った。
「そうだ、き、きっと考え過ぎだ…実害がある訳じゃなし、気にしないでおくよ」土井垣本人がそう言い出したので、この会合はお開きになった。


 (ふぅ、危ねぇ危ねぇ)皆が立ち去った後、物陰から男が現れた。アイパッチをつけている。
 (さすがに鈍いアイツも感づきやがったか)まぁ、アイツの全ては掌握した。
 (性感帯も…バッチリだ)しかしとんでもなく無防備なヤツだぜ。
 昨夜自由時間に沢田とトランプのスピードをして負けた土井垣は…罰ゲームだとかなんとか言われながら、くすぐりの刑を受けた。背中に指を這わされただけで、ヤツは仰け反り、周囲が赤面するような声を上げた。首筋、わきの下、耳。一箇所感じれば、全身の感覚が鋭くなってしまうタイプなのだろう。…ノンケだと思っていたが見所がある。将来有望だな、ウフフ…。
 しかしそれにしてもとんだお子様野郎だ。沢田は目をギラギラさせているし、山岡は居たたまれずにトイレにすっ飛んでいったのに、当の本人は屈託なくケラケラ笑っていたのだから。沢田なんかがかなりモーションかけているのに、気づいてもいないのだろう。
 ふざけたような笑みを浮かべていた丹座だったが、ふいに真面目な顔になる。
(野球選手としては残念ながら俺よりも上のようだな)現在はキャプテンとしての役割が重過ぎるようで、充分にプレイヤーとしての実力が発揮できてはいないようだが。
 (小次郎がカリスマ型とすれば、土井垣は差しづめ尽くし型のキャプテンか…しかし、人がよすぎる…そんな滅私奉公的にチームに尽くさにゃならんもんかね)土井垣は補欠の上級生たちの愚痴をよく聴いてやっていた。1年生が4人もレギュラー入りすれば、不平不満が出ないほうが不思議と言うものだろう。上級生と1年生の緩衝材の役目を果たしている土井垣が抜けた明訓がどうなるか、秋はきっと一波瀾あるだろう。
 (だがそれにしても不思議な野郎だ。頼りになるキャプテンかと思えば、沢田とふざけていた時みたいに、ガキ臭いところもあるし…。単純な天然野郎だと思うのだが、どうもよくわからん)今まで丹座が見知ってきた人物のカテゴリには、全く入らないタイプであった。観察すればするほど、もっと土井垣を知りたくなる。
 (しかし感づかれちまったか…さっきあんな話をしていたから、沢田や山岡は、キャプテンを警戒しそうだな…ふん、土井垣のやろう…トイレで覗かれたくらいで顔なんか赤らめやがって)アレだとコンプレックスなんか関係ないだろうし、ガタイのでかい、みんなに頼りにされているキャプテンが、なんで下級生なんかに相談しているんだ。
 お前は怪物くんとマスコミに持ち上げられている男じゃねぇのかよ?女にモテモテのスーパースターってのはお前のことだろ?鳴門の牙、犬飼小次郎の好敵手と目されているようなヤツが、トイレで見られたくらいで女みたいに赤くなるんじゃねぇ!
 丹座はだんだん腹が立ってきた。(ったく何だってんだ土井垣って野郎は!!)
 恥ずかしがりのチェリー、マヌケなオクテ、純粋培養の朴念仁、クソ真面目な石頭、天然大ボケ野郎…様々な罵詈雑言が脳裏をかすめ、いまいましげに唇を噛んだ丹座だったが、結局、こんな呟きを漏らしていた。
 (ウフフ…赤くなるなんて…)思わず口元がゆるむ。
 (かわいいじゃねぇかよう、土井垣!!)
 丹座は胸を掻き乱されたような気がして、思わず身悶えした。
 (ちくしょう…なんてこった…なんとなくわかっちまったぜー!!)キャプテン、あんたが惚れた理由がよう…体が、熱くなった。
 (すまねぇ、今まであんた一筋だったのに…だめだ俺、我慢できねぇ…。アイツを、絶対ゲットする!!!)甲子園が終れば、ドラフトにかかる可能性の高い小次郎ならともかく、今年卒業する俺と土井垣の接点は無くなってしまう。
 (今大会中が勝負だな)待ってろよ、土井垣。忘れられない思い出を、作ってやるからな。
 丹座はほくそえむと、土井垣の影を追った。



「土井垣大丈夫か、おい…さっき、寒気がする、とか言ってたけどよう」
「いえ…一瞬だったようです…今は平気です」
「おいおい、無理は禁物だぜ、大事な大事なキャプテン様なんだからよ」そう言うと徳川は、土井垣の背中を優しく叩いた。
 いやらしげな手つきだ…物陰から密かにうかがう眼が、徳川を睨んだ。土井垣は相変わらずおっとり構えている。さんざっぱらセクハラされまくってるのに、わからないのか…影が悔しそうに唸った。
「…いつもすまねぇな、上級生の守させちまってよ…どうも野球以外の雑用は苦手でな」徳川は小声でささやいた。
「監督は我々の指導と、采配をしてくださればいいのです…僕は、キャプテンなんですから」
「なんなら今晩…俺の部屋にこい」
「?」
 影は、慌てふためいた。
「最近睡眠不足みたいじゃねぇか…俺の個室で寝たらどうだ、って言ってんだよ…」
「助かります。岩鬼のイビキがうるさくてかなわなかったんですよ、ありがとうございます」
バ、バカヤロウ、お人よしにも程がある。影は自分の立場も忘れて飛び出しそうになった。
 土井垣は苦笑いを浮かべた。「監督、さては今晩…」土井垣は右手を上げると、杯を干す真似をした。「朝練までには戻ってきてくださいよ」
「へへへ、後援会が前祝だとよ…他の部員どもには、俺がいない間は土井垣が監督だと思え!とでも言ってやらあ…まぁ、ぐっすり眠れや」徳川は鼻歌混じりに、去っていった。
土井垣も機嫌良さそうである。よほど岩鬼のイビキに悩まされていたとみえる。
 影の口元がほころんだ。
…そうか、今晩、ヤツはたった1人でご就寝か…。今日を逃すともうチャンスはねぇ…据え膳食わぬは男の恥よ。
 ゴクリ、と生唾を飲み込むと、足取りも軽くその場を離れた。




高3夏(2)に続く


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