夜更け。明訓の大部屋ではイビキが喧しく鳴り響いていたが、練習の疲れもあってか、部員達はさすがに全員眠っているようである。特に今日は夜遊びの予定が入ったので、徳川は念入りにノックでしごいたようだ。
いつもなら沢田と北に挟まれるように土井垣は眠っているのだが、今日は布団はからっぽであった。沢田が主のいない掛け布団を抱きしめるように眠っている。
土井垣の眠る個室も静まりかえっている。もちろん、土佐丸の大部屋も。旅館を一歩出れば街はいまだ喧騒に包まれていたが、高校球児たちの夜は早く…そして、長かった。
土井垣はぐっすり眠っている。今日は久々に静かな夜なので、いつもの不足を補おうというのか、泥のような眠りに落ちていた。
『…心地良い…』眠っている土井垣に、もしも意識があったなら、こうつぶやいていただろう。心地良い。とても。心地良過ぎて…とろけてしまいそうだ。
何度か頭の中が真っ白になるような絶頂感が土井垣の眠りを妨げようとしたが、その度に間髪いれず次の心地良さが、新たな眠りの深みに引きずり込んだ。いや、ひょっとしたらそれは眠りなどではなく、もっと別の、今まで体験したことがないような陶酔に、何時の間にやら変わっていたのかもしれない。
「!」何かが体にねじ込まれる感触に、土井垣は思わず口を開けた。しかし声が漏れる前に、何物かが唇を塞ぐ。今まで味わったことのないやわらかなぬるりとした物体で口蓋を探られる感触は、不慣れな土井垣を夢中にさせた。体内にねじ込まれた二つの異物は、片や快感を、片や苦痛をもたらし、未だ夢うつつの土井垣は混乱するだけだった。
「!……」苦痛をもたらしていたものが、堪えきれないような快感に変わった時、土井垣はのしかかる体や、自分のとは違う他人の息遣いをわかっていながら…暗がりの中で自分の体を楽しんでいる他人の存在に気づきながら、抵抗する気持ちも湧いてこなかった。
丹座は暗がりの中で、ぼんやり自分を見ている視線に気づいた。焦点の定まらない眸。お前、かわいいぜ、とつぶやくとまた口づけた。少し舌で探ると、土井垣の体は面白いように反応する。指の数を増やしても気づかないのか、反応できないほど心地良いのか。唇を離すと涎が糸を引いて顎を汚したが、土井垣は半開きの口から熱く息を吐くばかりで、拭おうともしない。
こいつまだ夢を見ているんだな…完全に目覚めたら、どうなるだろう。そう思うとちょっと丹座はうんざりする。面倒なのは苦手であった。とりあえずモノにするという当初の目的は、あっさりと達成できてしまった。これからどうしようか。…普通は逆だよなあ。
丹座は指の動きはそのままに唇で胸を探った。土井垣の口から喘ぎが漏れる。慌てて手近な布切れを(下着だったのかもしれない)口に押し込んだ。土井垣はうつろな目つきで、されるがまま、抵抗の気配もない。そろそろ俺も楽しませてもらおうか…
土井垣に握らせてみると、素直に従った。手を添えて動かしてみる。口から喘ぎ声が漏れそうになるのを、丹座は堪えた。添えた手を離したが、動きは止まらなかった。…すっかり、俺のいいなりだ。
もういい頃合だ。さっきからずっと同じことを考えながら、丹座は踏ん切りがつかなかった。クスリをやってるわけでもなし、そこまでヤレばさすがに夢うつつでは済まないだろう。
―まぁ、目が覚めたところで、ここまでやっちまってたら抵抗のしようもないだろうが。こいつにとっても最後までいかなきゃ蛇の生殺し、失礼ってもんだ。
へへ、キャプテン、お先にいただくぜ。
土井垣をうつ伏せにひっくり返そうとして、…丹座は止めた。
ふいに、真面目な顔つきになる。
『別に、義理立てする訳じゃねぇけどさ』
…胸を探っていた舌先をずらす。逞しい腹筋をなぞって、臍の辺りへ顔を移動した。口を塞がれた土井垣のくぐもった声が更に苦しげなものに変わる。キャッチャーらしい力強い指先が、自分の頭を掻きむしるのを丹座は感じた。
しばらくして2、3度痙攣すると、土井垣は壊れたように動かなくなった。少し後で、傍らで一人果てた丹座がこそこそ後始末を初めても、全く動く気配がない。
丹座は土井垣の頬を軽く叩いてみたが、やはり反応はなかった。ただ満ち足りたような寝息が続いているだけである。
『……』失神か。ホントにかわいいヤツだ。…このままのほうがいいんだろうな。お前は、夢をみていたのさ。
丹座は土井垣の衣服を整え、布団周りを何事もなかった状態に戻すと、暗い人気のない廊下にすべり出ていった。
『別に義理立てした訳じゃねぇさ』丹座は暗い洗面所でうがいの水を吐いた。
『キャプテン、アイツと付き合えよ…きっとお似合いだ』小次郎が土井垣を見つめる熱っぽい眼差し、悪口を言いながらもゆるんでくる締まりのない顔。恋している小次郎を見て、喜んでいる自分がいる。
俺はキャプテンに惚れているはずなんだがなぁ…。口の中で水を弄びながら、正面の鏡に写る自分の顔を見た。
土井垣なら、いい。アイツなら、許す。
水を吐き出すと、アイパッチを外し、今度は顔を洗った。後になってタオルも何も、拭く物を持ってきていないのに気づく。やっぱり俺はマヌケだな。高校野球の練習で片目を失うぐらいなんだから、心底マヌケに出来ているに違いない。土井垣のことを笑えねぇや。
『片目を失うような、高校野球の練習か』
自嘲気味に、笑みが漏れる。……
ハッタリさ…やる気も男気もないうらぶれた不良どもを、ちょいと脅かしてやるだけだ…闘犬嵐号をグラウンドに初めて連れてきたあの日、キャプテンは苦笑いをしながら言ったものだった。不祥事続きで廃部寸前だった野球部に、とりあえず頭数として集められたのは、自分からは何もせず、指を咥えてただ、なんかオモシロイことないかと唱えているような甘ったれた暇人どもだった。なんでもかんでも反抗しさえすればカッコいいと信じ込んでいる鈍感な連中の眼は、ちょっと脅かしてやらんと覚めんだろう、とキャプテンは腹心の俺に言った。
こんな勘所でハッタリをかますような、らしくないキャプテンは嫌いだ。
俺の気持ちを汲み取っていたのは、嵐だけだったのかもしれない(全く大した犬だ)。
ショック療法は効果てき面だった。血まみれになって救急車で運 ばれる俺を見た暇人どもは腰を抜かし、殺人野球とやらに夢中になってくれた。今まで真面目でダサイと馬鹿にしてきた高校野球が、こんなにスリルとショックとサスペンスに満ち満ちたものだとは思いもよらなかっただろう(俺だって思わなかった)。それから野球の持つ本当のスリルに連中が気づくまで、さほど時間はかからなかった。
…病院に運ばれた俺を抱きしめて、キャプテンは泣いた。泣きたいのは俺のほうだった。キャプテンが初めて俺を抱いたのだから。そして罪悪感も俺を悩ませた…あれはわざとだと言ってもよかったからな(嵐には悪いことをした)。
それからは思惑通り…お前には友情しか感じられない、と言っていたキャプテンが、誘えば俺を抱くようになった。……
丹座は滴を垂らしたまま顔を上げた。片目の潰れた顔が、こちらを見返している。左手て、鏡に写る潰れた右目に触れた。手も濡れていたせいで、鏡の右目が、流すはずのない涙を流した。
もう痛むはずのない…失われた右目に、痛みを覚える時があった。行為の終った後、キャプテンはそんな気ではないのだろうが、いつもすまなそうな顔つきだった。それを見るたび、何故かもう感じないはずの痛みを覚えた。
『こんなんで本当にいいのかよ』―いつかの小次郎の言葉を、丹座は思い出した。
俺はよかったんだぜ、キャプテン。でも、あんたにとってよくないことは、…俺もわかっていたんだ。
甲子園に来てからのあんたは本当に楽しそうだ。
たまに土井垣を見ているよな。気づくとヤツは含羞むように目をそらす。その後の…アイツの後姿を見ているキャプテンの顔が、俺は好きだ。
土井垣は、イイやつだと思う。後輩に慕われているからな。尽くし型だから、アイツとバッテリー組んだらいい恋女房になってくれるぜ。単純なくせによくわかんねぇところも多いヤツだが、悪いヤツじゃねぇのは確かだ。この俺が見切れないなんて、ひょっとすると奥の深いやつなのかもしれん。…きっと飽きないぜ、キャプテン。
「土井垣なら、いい。アイツなら、許す」
丹座は再びつぶやいた。右目はもう、痛まない。
着ていたシャツを捲り上げると、顔を拭ってアイパッチを付けなおした。
「……」
朝の光の眩しさが、土井垣の眠りを覚ました。ぼんやりと天井を見上げていたが、やがてはっとしたように布団の中で下半身を探る。夢精をしてしまったような感覚が、体に残っていた。しかも、何回も。しばらくごそごそしていたが、何事もなかったのか、ほっとした表情で体を起こした。
場所が変わったせいかな……どうも肉体に違和感がある。普段使わない筋肉でも使ったような感じだ。
寝違えたか……。昨晩眠りについてからは、途中で目覚めた記憶もない。岩鬼のイビキが聞こえないせいで、ぐっすり眠り過ぎたのかもしれない。体はむしろスッキリしているが…なんか快い疲れも、多少感じる……。
土井垣は布団の上でしばらく考えていたが、やがて慌てふためいて枕もとの時計を見た。
『朝食の時間だ!!』
土井垣が勢い良くフスマを開けた時、出会い頭に沢田とぶつかりそうになる。
「ああ、土井垣…いつも早いお前が、なかなか起きてこないものだから…」
「すまん沢田。ちょっと、調子が変でな」土井垣は坊主頭をトントン叩いた。
「調子が変?…!と、徳川さんが、なにか?」血相を変えて、沢田は個室を覗き込もうとする。
「まだ戻っていないようだ。朝練までには、と約束したから、朝食の後じゃないか。どうせ朝飯は食べられないだろう…タダ酒の時は、特に底無しだから」何故か自分の寝乱れた所は見せたくはない。フスマをピシャリと閉めると、沢田を促し、食堂へ向かった。
「キャプテン、おはようございます!!」土井垣が食堂に現れると、後輩達が口々に挨拶した。
「どえがきー、わりゃいつまで寝とんのじゃあ、みんな食わんと待っとったんやぞー!!」
朝っぱらから騒がしいやつだ…土井垣は思わず耳を塞ぐ。
「岩鬼、そりゃすまなかった…朝食の挨拶を頼む」
「朝飯の音頭取りまでわいがせなあかんのかいな、もうほとんどキャプテンやないけ…。ほな、いくでぇ!」
すぐに、いただきます、かと思いきや、岩鬼が何やら長々とブチはじめたので、抗議の声が巻き起こる。土井垣は苦笑して眺めていたが、部屋の隅で、徳利を抱えた徳川が、こっそり場所を移動するのに気づいた。土井垣はそっと後を追った。
「監督、もう戻ってられたのですか?」
「おう土井垣…。ちょっくら寝かせてくれや。朝練はおめぇにまかせたぜ」欠伸が漏れる。
「早朝戻られていたのですか?僕を起こしてくだされば良かったのに…」
「あんまりぐっすり眠りこんでいたからよう…昨日のノック、そんなにキツかったか?」徳川はまた欠伸をすると、眠そうに続けた。「しかし土井垣よ、おめぇもほどほどにしとけよ。まぁ若いのは結構なこったが…。あの部屋、普段は俺が使ってるんだからよう、仲居が掃除に来やがったら、きっと俺だと思われるぜ」
何が言いたいのかわからず、土井垣は狐に摘まれたような顔をする。
「ちり紙で一杯のくず入れなんてよう…思わず便所のごみ箱に、中身空けてきた。ティッシュボックスも空っぽだったぜ…まぁ、俺もお前ぐらいの歳にはなぁ…。野球一筋も結構だが、早く彼女でも見つけろや、土井垣」
「???」相変わらず訝しげな土井垣をそのままに、徳川は廊下の向こうに消えた。
徳川の姿が見えなくなると、土井垣はすぐに午前の練習の段取りを組みたて始めた。ノックは昨日たっぷりやったから、走り込みを長くやるか…。
「?」ふと、視線を感じて降りかえる。
壁にもたれて、アイパッチの男がこちらを見ていた。土佐丸の部員のようである。確か、丹座…。
「…ひょっとしてお前か?…いつも俺を見ていたのは」しかし観察者の目だったが、悪意は感じられなかった。
「何のことだ?さっぱり訳がわからんぜ」男はニヤニヤ笑っている。「お前んとこの監督、いつもあんな感じか?」
「昨日はたまたま…。いや、まぁだいたい、あんなもんかな」
男は土井垣の全身を眺めた後で、おもむろに口を開いた。
「そんなところのキャプテンは大変だ…ところで、昨日はよく眠れたか?」
「ああ、よく眠れたよ…お前のところの監督こそ、どうなんだ?」なんでこんなことを聴いてくるんだ?
「気になるかい?俺んところの監督はなぁ…」人相の悪い顔がほころぶ。監督の話をするのが嬉しいらしい。
こらキャプテーン、岩鬼が朝飯食っちまうぞー、と甲高い少女の声が館内に響く。
あの子なにもの?という丹座の問いに、部員の妹だ…と土井垣は答えた。
そして踵を返すと、土井垣は行ってしまった。
二人きりの会話は、これでお終い。
しばらく見送っていた丹座だが、やがて立ちあがる。そろそろこっちも朝飯だ。…土井垣のヤツ、何にも覚えていないようだな。丹座はすこし寂しい気もしたが、これでいいんだ、とつぶやいた。
「武蔵、もう泣くんじゃねぇ」
土佐丸の夏は、準決勝で終りを告げた。
小次郎の2つ下の弟、1年生の武蔵は、大きな体に似合わぬ可愛らしい目に、相変わらず涙を溜めている。明訓に負けたのが、よほど悔しいのか、試合を思い返すたびに涙が溢れるようだ。
小次郎は涙を流さなかった。小次郎は今、一部員としてでなく、監督の顔をしている。もう、来年の春を見据えて、これからの新野球部のことに、思いを馳せているのだろう。
丹座も、泣かなかった。試合を思い返すと確かに悔しいが、涙が溢れることはなかった。
高校3年最後の夏。燃え尽きた…絞っても、何も出てきやしねぇ。芸術的プレイも全国に見せつけてやれたし、高校野球で、やるべきことは全てやった。むしろ満足げな笑みさえ浮かんでくるのを、禁じえない。優勝していれば、ほろ苦くはなかったろうが。
予算の乏しい土佐丸は、一泊することもなく、部員達は甲子園から戻ると帰り支度を始めている。
「……」こういうことには手際のいい小次郎は、もう手持ち無沙汰に明訓の部員がたむろっている辺りを眺めている。
「おい、キャプテン」支度を終えた丹座が、見とめて声をかけた。降りかえった小次郎は、丹座の大好きな…あの、微笑みを浮かべている。決して丹座のためには、見せない笑顔。
「住所と電話番号は聴いたか?」
「あん?」
「土井垣のだよ」
「馬鹿言え、女ならともかく…。なんであんな野郎の…」
「じゃあ、なんで見ているんだ」
「別に見てやしねぇ…いや、…ヤツのマヌケ面は、見ていると楽しい」小次郎は笑った。見ている丹座の胸が、悦びで苦しくなるほどの笑顔だった。
「あのマヌケ面とも、もうお別れだな」連絡先教えてやろうか…丹座が言いかけた時、
「おかしいな…。何故かまた、アイツと逢えるような気がする」小次郎がぼそりとつぶやいた。
「…キャプテンも土井垣も、きっとドラフトで指名される。プロで逢えるんじゃないかな」
「かもしれねぇ…。そういやお前は、これからどうするんだ?早く決めろって進路指導にせっつかれてたけどよ」
「…さあてな」
俺たちの夢は終わった。これからは一人で新たな夢を追わにゃならん…。
空を見上げて明日の天気を気にしている小次郎を見ながら、丹座は思った。