出発
(1)

 はじめに、この作品における知三郎の容貌・性格は『大甲子園』に準じています。
 試合終了後「もう野球は終りです、東大を目指します」と言っていた知三郎です。
 取り扱っている時期が知三郎の大学一回生時なので設定こそドカプロを元にしていますが、動いているのが何分大甲子園知三郎なので、細かい部分ではドカプロと異なっているかも知れません。
 また、かなりオリキャラ(しかも女)が出張っているので、苦手な方はくれぐれもお気をつけ下さい。(ほんのわずかですが小次郎と怪しかったと匂わせている描写あり。なお冒頭で描かれている女性ではありません。(3)に出てきます)。



 もともと野球をやるために大学に入ったのではない。
 だからこんなに憤るのは筋違いなはずなのだが。
 だけれども。



 
 不調のエースの後を受けてマウンドに上った彼女は、メッタ打ちを食らっていた。
 最近変えたばかりのぎこちない投球フォームから繰り出される球は、やっとストライクゾーンに入ったかと思えばミットに納まることはなく、文字通りポンポンと外野の頭上を超えた。
 そもそも、一軍に入る実力など彼女にあるはずがない。こんな場面でストッパーを任されるような実力も。そんなことは彼女自身が一番よく知っていて、だからその顔は苦痛と屈辱に歪んで。
『本来ならば、俺が任されるマウンドのはずだ』
 汗で滑った眼鏡の位置を直すと、顔にモミアゲの目立つその少年は暗いベンチの奥で集中砲火のマウンドを眺めた。監督が真剣に試合をやっているならばこんな采配をふるうわけがない。これでは対マスコミ用のデモンストレーション試合だ。
 
 だがカメラのシャッターを切る音は、他の選手たちのどのホームランよりも、どのファインプレーよりも数多く響いている。
「やはりまったく歯が立ちませんな」
 そろそろ変え時ですな、2回も投げれば充分話題になったでしょう……コーチに囁かれ監督はやっと動いた。

 ごめんなさい、すみません、を連発しながら、彼女は味方ベンチに戻ってきた。涙ぐんでいたらもっと絵になったかもしれないが、表情は強張っていたものの、しっかり顔を上げている。
 腫れ物に触るような、しかし何処か冷たいチームメイトたちの反応と、満面の笑みを浮かべた監督。野球部関係者もさぞ嬉しかったことだろう、弱小M大野球部にマスコミの注目が集まるなど絶えてなかったことなのだから。これで野球部の予算が上がるかもしれないし、何より色々な意味で入部希望者が増えることだろう。

 
 
『犬飼知三郎くん。君はダイエーの犬飼小次郎選手と、阪神の武蔵選手の弟だそうじゃないか。なんでもっと早く言わなかったのかね?』
『はい監督。しかし野球部に入るのに、別に兄たちのことは関係ありませんから』
『君も甲子園に出場したんだって?土佐丸高校出身なの?』
『1年の夏の大会に出ました。土佐丸じゃありません、室戸学習塾です。土佐丸ではこちらの大学に進学できません』
『室戸?ああすまない、聞いたことがないな』
『教養や専門科目の教授たちはご存知でしたが野球では知られていないのですね。まぁ、初出場で一回出て、それきりの学校ですから。1年の夏だけです……夏の大会後、監督が辞任されて部員が減りまして……もともと室戸はスポーツには力を入れていない進学校だったので、……結局それっきりです』 
『ああ、なるほどね。高知は土佐丸なら知っているけど室戸はなぁ。しかし君にはプロの誘いはこなかったの?……ああそうか君はその、兄さんたちほど熱心に野球をしているわけではないんだ』
『……。ずっと進学の予定でしたから』
『なるほど野球はあくまでも趣味というわけだな。……ところで室戸とか言ってたね。えっと君が1年の時とすると、何年の大会になるの?』
『94年大会ですが、何か?』
『ほう、明訓四天王最後の甲子園大会に出場したのか! いや、ちょっと調べてみようと思ってね』
 
 しかしいくら毛並みが良いとはいえ、初出場一回戦で消えた高校のエースなどあまり話題性がないと野球部関係者は踏んだのだろうか。確かに室戸など記録上、強豪明訓高校と一回戦で対戦し、当然のごとく敗退した不運な初出場校の1つに過ぎない。
 同時入部のある選手が突然、フォーム改造を言い渡されたのはそれから間もなくだった。
 ずっと左オーバースローで投げてきたその選手がアンダースローで投げる事を命じられた理由は、
『まー何と言うか、珍しくていいだろう』
 男のスポーツ硬式野球を、小中高と続けていくだけでもどれだけの苦労があっただろうか。そのすべてを否定しかねない命令とも言えたが、彼女は苦笑いしただけで何も言わなかった。チームメイトたちも、もちろん同回生の知三郎も、敢えて何も言わなかった。
 野球部長の憶測は当たり、左アンダースローで投げる女性ピッチャーはマスコミの話題性充分で、このところ目立たなかった大学野球は突然華やかな脚光を浴びた。
 新聞やニュースでも取り上げられ……。

「おい、犬飼」
 ぼんやり考え事をしていた知三郎は気づくのが遅れた。
「行け、交替だ」
 女子投手の次は輝けるプロ野球選手の、ヘボな弟というわけか。
 知三郎はグローブを手に取ると、マウンドへ向かった。
 
 たった2回で8点入れられ、試合は大差がついていた。しかし一回限りの高校野球ではないし、M大が負けるのは今に始まった話ではない。大学野球で建造物のような名前の投手が吼えながら投げていたのは、遠い昔の物語だ。

 野球部のエースの座は理事長の息子が独占していて、4月に入部した知三郎にとっては夏休みを前にやっと手にした公式戦のマウンドと言ってもいいはずのものだったが、嬉しいどころか厭な気分だった。無駄な時間を過ごしているとしか思えなかった。
 M大の貧打では逆転は奇跡でも起きない限り無理だろう。そもそも誰も願っていないところに奇跡など起こりはしない。試合はこれからも、何回もある。
 知三郎はマウンドをスパイクで蹴った。土を抉る音は、室戸学習塾のちっぽけな野球部練習場も、甲子園も、大学野球の球場も同じだと思った。
『野球をやるために大学に入ったのではない』
 敗戦処理を任されたのが厭なんじゃない。
 軽く投球練習。知三郎はプレートを踏むと、振りかぶった。
 1球目。
 頭の悪いアニキたちには野球しかなかったが、俺は違う。
 2球目。
 高校の2年、3年と甲子園出場の望みもないのに野球を続けたのは、ただの体力維持のためだったはずだ。
 3球目。
 徳川さんが俺には素質があるとか言っていたが、自分ではプロで一流になれるとは思ってはいない。だから高校3年の冬、スカウトから打診があったのには正直驚いた……アニキたちならともかく、この俺がねってね。
 4球目。
 3兄弟全員野球選手ってのは確かにちょっとした話題にはなるだろう。しかし俺は客寄せパンダになる気はないんだ。明訓と……山田や岩鬼、殿馬、里中らとたった1回しか対戦できなかったのには大いに悔いがあるが、それはどうにもならないことだしな。
 左腕がしなる。肩は作っていたつもりだったが、まだ本調子とまではいかないようだ。
 小次郎アニキと同じ左腕なのに、と知三郎は思う。腕の長さが違う。肩の厚みが違う。腰のキレも、背筋も何もかも。
『俺は小次郎アニキとは違うんだ』
 ボールがミットに収まる音が響いたが、皆が驚いて注目するようなものではない。
 投球練習はもう結構です……。片手を上げて審判に合図を送る。どうせ敗戦処理だ。気合を入れて投げることはない。スポーツ新聞の見出しも決まっている。『女子投手初リリーフは完敗』とかなんとか、そんなもんだろう。

 球審の右手が上がる。プレイ再開。

 知三郎は振りかぶった。ホームランで走者が一掃した後なのでリリーフという気も起こらない。気楽に投げればいいのさ。負けたところで俺の責任ではないし、これっきりというわけでもない。しかしこの気持ちの悪さは一体なんだ?
 俺はこれからの4年間を、こんな気分で過ごさなきゃならないのか?
 ……たかが野球じゃないか。アニキたちみたいにシャカリキになる必要はない。

 鋭い音をたてて、ボールはミットに納まった。
 
 そんなつもりはなかったのに、帽子が飛ぶほどの全力投球をしてしまったことに肩をすくめる。
 驚いたようなバッターの顔。インコースの速球に完全に腰が引けていた。
 1回生だと油断しただろ、甘いな。知三郎は小さく笑った。スピードは小次郎アニキにはぜんぜんかなわないけど、それでも山田を打ち取った球なんだぜ、コントロールなら負けない。馬鹿みたいに、ただただ投げるしか能がないピッチャーとは違うんだ。……地面に落ちた帽子を拾い上げると、知三郎は目深に被りなおした。取材陣はベンチの奥に引っ込んだ“彼女”の動向のほうが気になるらしく、“犬飼小次郎投手の末弟”には全く気づいていないらしい。
 先輩捕手のサインにうなずいた後、第2球目。
 さほどスピードのない甘いスライダーだったが、さきほどインコースの速球に驚いたバッターは、腰を引きながら見送った。ストライク。
 あんた、4回生だろ?こんな球、あの頃の微笑でも三遊間抜いてたぜ。気を抜いて投げた球なのに。
 知三郎は味方ベンチに眼をやる。
 監督さん。この俺が敗戦処理投手で、ストッパーは彼女のつもりなのか?で、エースは相変わらず理事長の息子かい?女に救援してもらうようなヘボなのに?……すっかり上の空で、記者連中になんて話そうか草案でも考えているんだろう。
 3球目、足が上がる。振りかぶった。
 弱小なのはわかっている。部員の大半は高校時代、勉強ばかりで野球経験があまりないような連中なのも。
 野球をやるために大学に入ったんじゃない。それぐらい、わかっていた。
 だから憤る筋合いではない。
 室戸野球部からM大に進んだ中で、野球を続けているのは俺ぐらいだ。
 俺が甲子園に出たいと思うほど野球に打ち込んだのは、ただあの小次郎アニキでさえどうしても勝てなかった明訓高校に興味があっただけで。
 アニキたちみたいに野球に人生賭けようなんて気は微塵もなくて。
 だけど。だけど。

 
『こんな野球を4年間続けろと?こんな気分を抱いたまま4年間を過ごせと?』

 
 
「ほう……なかなか良い球を放りますな」
 3球ともバッター見送りの立ち上がりに、コーチがつぶやいた。
「そうだ、悪くない球だった。フォームに慣れてコントロールが良くなれば君もまだまだやれるぞ」
 マウンドに背を向けたまま、監督は硬い表情の女子投手に話かけていた。

 


 

出発(2)に続く


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