出発(2)



 雨でも降るのだろうか。
 真夏の昼下がり、自宅の最も涼しい場所――庭に面した和室の縁側の前に陣取っていた知三郎だったが、午後になると風も止んでしまい蝉時雨だけが煩く耳についた。
 ランニング、短パンとくつろいだ姿で畳に寝転がっていたが、もぞもぞと動き出すと体を伸ばし扇風機のスイッチを入れる。
 犬飼家はあまり冷暖房に気を使わない家風で、扇風機さえも余程暑くならないと使用しなかった。野蛮人だからさ、と知三郎は悪態をついたものだが、実際は長兄の肩を家族の誰もが暗黙の内に気遣ってのことであった。
 しかしその長兄が家を出てからも、契約金で各部屋に最新のエアコンを導入したのにもかかわらず夏場にそれが動く事は稀だった。家族が使わないのはそんな文明の利器に体が馴れていなかったせいだが、文句を垂れていた当の本人までそれに倣ったのは、長兄と同じくピッチャーになってしまったからだった。
 型の古い扇風機は一生懸命羽根を回していたが、辺りは一向に涼しくならない。知三郎は唇をひん曲げると、またスイッチのほうへ伸び上がろうとして、……そのままごろりと姿勢を変えると、天井を見つめた。

 小次郎アニキはエアコンのガンガン利いた部屋で眠ったことがあるんだろうか。右手で爪切りを使っているのも見たことがないし、真夏でもランニングは着ない。そうだ、故障を経験してからはタバコも吸わなくなったし、大好きな酒も控えているようだ。食べ物にも気をつけているし、たぶん……あっちのほうも。武蔵アニキよりもずいぶん慎重だ。
 ダイエーホークスのエースの座は、確かにそこまでしても守る価値があるのだろう。
 では、M大は?2年待てばと言われたが。

 蝉は喧しく鳴き騒ぎ、風鈴の音はリンとも鳴らない。
 知三郎は不機嫌な顔つきのまま置きあがると、網戸越しに眩しい庭を眺めた後、ガラス戸を閉めた。蝉の鳴き声が途絶える。
 畳の痕の残る腕を掻きながら、エアコンのリモコンを探した。冬場は主にコタツを使っていたから、長らく忘れられていたそれを探し出すのに手間取ったが、やがて懐かしい唸りとともに運転が始まる。
 設定温度を26℃から22℃に下げた。俺はもともと暑いのは嫌いだ。努力とか根性とか、そんなダサイ言葉も。アニキたちと違って繊細なんだからな。
 知三郎はリモコンをテーブルの上に放り出すと、今度はTVのリモコンを手に取った。
 夏休みの真っ昼間にTVを観るなんて久しぶりだ。高校受験の後は野球部の練習、そして大学受験……4年ぶり?本来なら今年の夏も野球部の練習を……。
 チャンネルを変える度に笑い声が聞えたが、知三郎は何が面白いのかさっぱりわからなかった。同じような違和感を大学のキャンパスでも感じていた。弱小と知りつつ野球部へ入ったのは、どこかでそんな隙間を埋めたかったからかもしれない。しかしそれは周囲との隔たりをますます感じる結果になるだけだった……知三郎はせわしなくチャンネルを切り替えた。
 笑い声、わざとらしい喧しいレポーター、レトロな時代劇、笑い声、ただただ驚かせるためだけのコマーシャル、古い洋画、笑い声……アナウンサーの声に野球場。
 高校野球はまだだろ……プロのデーゲーム?ロッテ対ダイエー、千葉マリンスタジアムか!……でも小次郎アニキは少し前に完投したところだったな。しかしTVでやってるなんて珍しい、このクソ暑いのにご苦労なこった。
 しかし知三郎の指はもう動かなかった。




「知三郎、ちょっと知三郎!……あら野球やってたの、小次郎、それとも武蔵?」
「どっちもはずれ。ダイエー戦だけど小次郎アニキは投げないよ」
 襖を開ける音に振り返ると、興味を失ったらしい顔つきの母親が立っていた。
「なんですかこの部屋、冷房の利き過ぎですよ。寒そうに丸まっているなら消しなさい。……ちょっと知三郎、暇だったら網元さんのところに持っていて欲しいものがあるんだけど。母さん今手が離せないの」 
「待ってよ、今最終回、ツーアウトだ。カウント2−2走者2、3塁、1打でれば同点、逆転もあり……見送り?マジ?ど真ん中で見送りはないだろ!!良い球過ぎて手が出なかったってか?岩鬼じゃあるまいし、なにやってんだよ、まったく!」
 母親は近付くとTVを除き込んだ。
「あら、里中くんじゃないの!じゃあロッテが勝ったのね。ダイエーはまた負けたの」
「母さんはダイエーと阪神の選手しか知らないと思ってたよ。しっかしあんなやつが完投なんて、プロも甘いな」
 TVではマウンドに駆け寄る瓢箪と、里中の笑顔が映っていた。
「甘いなんてお兄ちゃんたちが聞いたら怒りますよ」
「甘いから甘いんだよ……見ろよ、里中なんて俺と体格大差ないぜ。プロってのは小次郎アニキや武蔵アニキみたいな体じゃないと務まらないと思ってたんだけどな。あんなチビでも完投できるんだ。あの夏の室戸戦より、ぜんぜん楽勝だったと思うよ」
 知三郎はTVに映るお立ち台の里中を睨み、母親はそんな息子に眉をひそめる。
「何よ偉そうに。里中くんと知三郎では背の高さや体つきは似ていても、中身はぜんぜん違います。大学野球部の練習をサボって夏休み中家でごろごろしているようなのと比べたら、里中くんに失礼と言うものよ」
「あんな野球部、俺が投げる必要はない」
「あらまぁ、それは野球部を辞めるということかしら?だったらバイトでもなさい。勉強はどうなの?宿題がなければやらないようなものだったのですか、お前の勉強は。はっきり言うけれど、大の男に家でごろごろされたら目障りなのよ」
「小次郎アニキや武蔵アニキに比べたら俺はコンパクトなもんさ。冬はいっぺんに家が狭くなるけど、母さん何にも言わないじゃないか。武蔵アニキなんかトドみたいにごろごろしているのに」
「冬のあの子たちは一本釣り漁にいった父さんが戻って来て、家でくつろいでいるのと同じですよ。今の知三郎とは違います」
 いつの間にかヒーローインタビューは終ってしまい、監督の談話に移っていた。知三郎は黙ってTVを消した。
「行って来る」
 母親の耳に、立ち上がった知三郎の声はなんとなく湿りがちに聞えた。
「そう……ありがとう」
 ちょっと着替えてくるよ、この格好で外は歩けない……後ろ手に襖を閉める末っ子の後ろ姿を、母親はため息をついて見送った。




 蝉は相変わらず煩かった。
 日陰のない焼けつくアスファルト。
 強過ぎる陽射しに、ちゃんと帽子を被りなさいと小さな子供扱いする母親の言葉を無視してきたことを、少し後悔した。
 坂の上の奥まったところにある網元の家まで大きなスイカを持っていくのは、この暑さでは愉快な用事ではない。
 小さな子供の頃は、尋ねていけば決まって何かおいしいものをもらえたのでみそっかすの知三郎は何の役にも立たないのに、用事を頼まれた小次郎のお供に付いていったものだ。
 男の子のいない網元にとって小次郎は気に入りの子供で、何かと呼ばれることが多かった。親父の後を継いで漁師になることは絶対にない、俺は将来プロ野球選手になる、と小次郎が宣言するまでは。
 知三郎は垂れてきた汗をぬぐい、じっとり濡れた腕に眼をやった。確かに兄たちや地元の漁師たちに比べると色は白い。色白な上に日に焼けない体質なのだ。赤くなっても黒くはならず、すぐもとに戻ってしまう。
 兄たちに比べ生っ白くて小柄な末っ子を、母親はかなり大きくなるまで体の弱い大人しい子だと勘違いしていた。まぁあんなに猛々しい小次郎と武蔵の後に、女の子という望みは叶わなかったものの、自分似の優しい顔立ちの赤ん坊が生まれればそれも致し方ないことだったろう。
 お陰でずいぶん得をしてきた知三郎だった。ケンカをすれば最後に母親に怒られるのはいつも武蔵で、知三郎はそれこそどんなに悪い事をしても、涙さえ浮かべてみせれば楽勝だった。さすがに4つも年上でしかも面倒見のよかった小次郎と、派手なケンカをした記憶はない。
 小次郎アニキは優しくて甘いアニキだった……重い風呂敷包みを持ち替えながら、知三郎は長兄を思い出した。自分が利き手で荷物を運んでいるのを見たら、ピッチャーのあの人は怒るだろうか。優しい長兄とは上手くいっていたが、逆に小さい頃は武蔵アニキと仲が悪かった。今思えば小次郎アニキを独占したくてお互い張り合っていたのかもしれない。
 ……知三郎はシャツの前立てを空いた手でつかむと、暑そうに前後に振った。
 この坂道を小次郎アニキと手を繋いでよく歩いた。珍しいことにいつも武蔵アニキはついてこなかった。網本の番犬の顔に、油性マジックで落書きをして睨まれていたからな。武蔵アニキにとっては、嵐以外はみんな駄犬だったから……。
 しかしそれ以外は、知三郎の思い出の中で兄たちはいつも一緒にいた。
 武蔵はたいてい小次郎と行動を共にしていて、知三郎はそんな次兄が羨ましくて仕方がなかった。年齢は2歳ずつしか違わないものの、大柄な2人の兄と小柄な彼とでは体格の差は大きく、兄たちが小学校高学年で中学生に間違われていた頃(しかも武蔵は中学3年生とならんでも大きいことがあった)、知三郎は上手くやれば電車を無賃乗車できた。幼稚園児のフリをして殊更甘えると小次郎も調子を合わせておんぶなどしてくれ、指を咥えて見ているだけの武蔵にこの時ばかりはザマミロと見返せた。眠った真似をして家まで負ぶってもらったこともあった。
『小次郎アニキは優しくて甘いアニキだった』
 しかしほんの少し泣きべそをかいて見せただけでもお菓子をくれる小次郎だったが、同じ手は野球では通用しなかった。小学生の頃から近所の子供を集めて草野球チームのプレイングマネージャーのようなことをしていた小次郎だったが、武蔵はレギュラーなのに、知三郎は入れてくれなかった。どんなに本気で泣き叫んでも。
 武蔵ぐらいでっかくなったらな、というのが小次郎の口癖だったが、知三郎がそれぐらいの大きさになる頃には、二人は高校野球に夢中で中学生の弟のことなど眼中になかったし、知三郎自身も小学校高学年になれば、もう一緒に野球をさせてくれとは言わなかった。2人の兄たちとはっきりと違う進路を志したのもちょうどその頃だった。
『だけど』
 再び垂れてきた汗をぬぐう。
 誰よりも速いボールを投げていた小次郎アニキ。俺はずっとアニキに憧れていたんだ。アニキは誰が見たってカッコよかった。みんなアニキに憧れていた。
 だからアニキと一緒に野球をやれるやつらが羨ましかった。だってあいつらは、ただ遠くから憧れているだけではない、アニキに信頼されている仲間だったから。アニキが同類と認めている仲間だったから。
 武蔵アニキは小次郎アニキに認められていた。だからこそあんなにも一緒にいられたんだ。俺は……あの人にとって、ただのかわいい弟に過ぎない。それ以上にはなれなかった、それ以上は近づけなかった、どうしても。
『明訓に勝てていれば、また違ったかもな』
 でもあの夏は、もう終わってしまった。

 不機嫌に顔を上げると見覚えのある門構えがあった。



 

出発(3)に続く


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