「凄いじゃない、四球団でクジ引きだなんて」
台所からティーカップの触れ合う音がする。
「レモンとミルク、どっちがいい?砂糖は?」
ミルクで、砂糖はいらない、と知三郎は答えた。
網元は留守だった。デートだってさと杏子が嬉しそう言ったのは、やもめになった父親を残して嫁いでいくことを気にしていたからだろうか。とは言え、市内には若夫婦のための新居を建築中とのことだった。
コタツの幅が広いので角を挟んで向かいあう。二人きりで話すのは夏以来だった。グレイのカシミアセーターに膝丈のスカート、長い髪を後ろできっちりまとめた杏子の姿は、夏場と違いすっかり落ち着いて見える。
「チサくん甘いもの好きだったよね。ここのカステラ有名よ、いいの頂いても?武ちゃん残念がってなかった?」
ミルクティと菓子を勧めながら、彼女は自分もフォークを取り上げる。
「嵐が死んでからあんまり食欲がないみたいなんだ」
「弟みたいに可愛がっていたもんね。武ちゃんが一番つらいかも」
杏子は紅茶を一口すすった。
「で?ライオンズのお世話になるの」
「ああ。……たぶん、ね」
しかし、返ってきた返事はなんとなく煮え切らない。
「たぶんって?あれ、迷ってるんだ」
「……いや。お前は山田と組むんだなって、小次郎アニキがさ、ちょっと羨ましそうに言ったんだ。正直、驚いたよ。あのアニキに羨ましがられるんじゃ、迷ってたら罰が当たりそうだ」
自分が今年ドラフトにかかることは先ずないだろうと思っていただけに、指名されたことは、本当はとても嬉しかった。実際、岩鬼があんなにあっさり西部入りを勧めなければ案外すんなり入団していたかもしれない。まぁ山田には気を持たせてやっただろうが。
偉大なる山田太郎が出迎えに行けば、自分がすぐに尻尾を振ると考えていたとしたら、東尾監督もずいぶんと俺を見くびってくれたものだ。……ドラフト当日の出来事を思い出した知三郎は少し不満げな顔になる。
「セ・リーグだったら古田やタイムスリップできたら往年の野村と組みたいと思うのと同じようなものなのかな、ピッチャーなら一度は組んでみたいと思うような。凄いんだね、山田太郎って」
知三郎の思惑など知る由もない杏子は、感心しながらカステラをパクついている。
「ああ凄いよ。神がかりさ。もうあいつの打撃を気にしなくていいのはありがたい。それに捕手としても、里中を甲子園で優勝するようなピッチャーに育てたのは山田だからね。楽しみではあるんだ、あいつが俺をどの程度のピッチャーにしてくれるのか」
必ず、ドックルは取ってもらうからな。……知三郎はカステラの断片にフォークを突き刺した。
「だったら決まりじゃない。チサくんがプロか……。犬飼三兄弟は全員自分の夢をかなえたのね」
今日子の明るい笑顔に、しかし知三郎は素直に笑顔を返せなかった。
そのとおりだ。俺の中でも、もう決定事項のはずなのに。何を迷っているんだ……なぜか練習場での小次郎と岩鬼の姿を思い出した。土佐丸高校時代の兄たちのようだった二人。まるで弟のように振舞う岩鬼にその頃の武蔵に感じたのと同質の怒りを覚えたが、ドラフトが終わればこんなふうに隣に並ぶのは自分だから、と言い聞かせていた。
確かにプロでそれなりに活躍できれば、小次郎アニキは俺を認めてくれるかもしれない。山田と組めば一泡吹かせることさえ、可能かもしれない。
だが、たとえ認められても同じチームでなければ、昔の武蔵アニキのようにはなれない。現に阪神に入団してからは、2人の距離は微妙に遠ざかった。
微妙な距離。今までさんざ甘えてきた武蔵アニキにとっては平気なのかもしれないが。しかも俺は同リーグ……。
『どうしても俺は、小次郎アニキと一緒にいることはできないのか』
誰よりもカッコよかった小次郎アニキ。みんなが憧れていた小次郎アニキ。
アニキと一緒にいたかった。アニキと様々な体験を分かち合いたかった。……独り占めにしたかった、手に入れたかった、アニキのすべてを。
「おーい、チサくん」
顔を上げると、杏子の手が目の前でひらひら動いていた。
「なんか深刻な顔だね。とても夢のプロ入りをかなえて希望に燃えている若人には見えないよ」
その美しい笑顔がひどく無神経に思えて、知三郎は無性に腹が立った。自分にとっては単にきれいなだけだが、こういう顔が男をたぶらかすのは容易なことなのだろう。
……小次郎の、汗で光る裸の逞しい肩の向こうに見え隠れしていた白い顔。
「俺はダイエーに入りたかった」
知三郎は、ほとんど上の空で答えた。ほんのわずかに開いていた小次郎の部屋の扉。汗まみれの揺れる浅黒い身体。普通だったらまず豊かな白い胸に視線がくぎ付けになるだろうに、記憶に残っているのは、鷲づかんでいる毛深く力強い大きな手と、胸毛の密生した厚い胸板と。
「ホークスそんなに好きだった?子供の頃はカープ応援してなかったっけ?」
皿の横にこぼれた菓子の屑を、白い指先がつまんだ。アニキの汗ばんだ顔に当てられた白い指。その下の太い眉は苦しそうに寄せられ、唇は喰い締められているのに微妙にゆがんで。
「小次郎アニキのチームメイトになりたかったんだ」
アニキの目は、引き戸の隙間からのぞいている俺を確かに見ていたのに。うつろで何も映っていなかった。アニキの、あんなに余裕のない顔は見たことがない。あんな……。思い浮かべると胸の鼓動が早くなる。息が、苦しい。
知三郎はひどく喉が渇いてきた。カステラが甘すぎるんだと考えようとしたが、小次郎の顔が頭から離れない。
「トレードやFAがあるじゃない」
杏子の声が遠くから暢気に聞こえた。身近にいて手ごろだった……ふいに、小次郎の言葉が知三郎の脳裏に浮かぶ。お互いな。……婚約者がいたくせに。ただ女だからって。あんたは気軽に。手軽に。
『小次郎アニキを手に入れた』
「なんでアニキと寝たのさ」
口に近づけた杏子のティーカップから、歯にぶつかった硬い音が響いた。
「やだ、なんの話し?」
口元を押さえたので表情がよくわからない。
「俺、見たんだよ。確か婚約が決まった頃だろ?アニキの部屋でさ。その一回きりじゃない。アニキがホークスに入るまで、何回か逢ってたろ」
「何の話?嫁入り前の娘の評判を傷つけたいの?」
杏子の目が冷たくにらんだ。
「どうしてアニキと寝た?違う男と結婚するつもりだったくせに。愛してたの?」
あっけに取られたような顔つきをした後で、杏子がうつむいた。肩が震えている。
笑っていることに気が付くまで、少し時間がかかった。
「愛してる?小次郎を?ごめん、そんなこと考えもしなかったな!」
チサくん、以外に純情なんだね。武ちゃんと同じタイプとは思わなかった……杏子は笑いを収めるように冷え切った紅茶を飲み干すと、突然慌しく空いたケーキ皿に紅茶の受け皿を重ねた。
「身近にいて、手ごろだったから?……アニキがそう言ってた」
「そうよ。ごめんね、夢壊した?見られたんなら弁解のしようがないか。……お皿下げるわよ、紅茶、お代わりいい?」
知三郎は精一杯意地悪く言ったつもりだったが、杏子の取り澄ました顔は微笑さえ浮かべている。
「若気のいたりってやつ、昔話よ。それに今頃蒸し返したって小次郎に迷惑がかかるだけよ。だいたい、チサくんには関係ないでしょう?」
知三郎のそばの、からになったケーキ皿に白い手が伸びた。小次郎の肩をつかんでいた手。汗にぬめった裸の肩を。
「アニキの身体って、どんなだった?」
何処か遠くで、皿のぶつかり合う耳障りな音が響いた。