(3)



「頭はわからんが、体は大丈夫のようだな」
 三日後カプセルから出た土井垣は、三時間ぶっ続けに素振りをした後、バーチャルバッティング場に五時間ほどログインしたまま、今度はぶっ倒れたらしい。
「イカレちまったんじゃねぇか」
 同僚と犬飼が噂をしながら廊下を歩いていた時、土井垣担当になった職員が、医務室のドアから顔を出した。
「ああ、犬飼、ちょうどよかった。土井垣が呼んでいるぞ。入ってくれ」
 精神崩壊の危機にある土井垣は、安定するまでどんなわがままでも許されているらしい。
 犬飼は同僚と別れると医務室に入った。
 ベッドに横たわる土井垣は、疲れきっているように見えた。犬飼が入ってきても気づいていないのか目を閉じたままだったが、枕元の椅子に座って見守っていると、ややあって目を開けた。
「犬飼……。驚いたか。いやお前も、何もかも知っていたんだな」
「………」
 犬飼には返す言葉がなかった。
「攻めているんじゃない。仕方のないことなんだろう?仕事だものな」土井垣はぼんやりと天井を見ていた。「なぁ……。俺と、ドームを出ないか?」
「な、何を言ってる」
 犬飼のうろたえる様が面白かったのか、天井に向かって土井垣が笑った。
「冗談だよ。お前が失業するわけにはいかん……。来週の今頃には何もかも忘れて、あの男の養子だか秘書だかと思い込まされてここを出て行くことになるんだな。なぁ、犬飼」
 土井垣は向き直ると犬飼の手を取り、握った。まっすぐこちらを見つめている眸を、犬飼は直視することができなかった。
「俺を忘れないでくれ。俺が今の自分を忘れても、お前だけは覚えていてくれ」
「………」
 閉ざされた唇に土井垣は視線をそらし、引き攣ったような笑顔を浮かべた。
「冗談だよ。……冗談ばかり言っているなぁ俺は。……忘れてくれ」
 土井垣は犬飼の手を離し力なく眼を閉じると、顔を背けた。
「忘れねぇよ。キャッチボールは、楽しかった」
 犬飼は、やっとこれだけ搾り出せた。
「有難う。もう、行ってくれ」
ふいに土井垣の肩が震えた。顔は壁を向き坊主頭しか見えないので、表情は伺えない。
「頼むから行ってくれ」
 犬飼は椅子から立ち上がると戸口に向かい、ドアノブに手をかけた。振り返る。
「おめぇを、忘れやしねぇよ」
 土井垣からの返答はなかった。
 
 ドアは締まり、去っていく靴音が廊下に響いた。

 
 
 
 
 
「おい、犬飼起きろ!」
 寮の自室で眠っていた犬飼は、ドアを叩く音に目が覚めた。
「起きろ!」
 目をこすりながらドアを開けると、職員の一人が息を切らしていた。
「土井垣が逃げた。みんなで探している」
「素体が逃げたくらいで何故そんなに騒ぐ?こないだ十歳体プレミアムの集団脱走があった時だって、保安警察に任せたきりだったじゃねぇか」
「アイツは特別仕様なんだぞ!廉価やプレミアムとは価格が違うんだ、傷物になったらどうする!」
「わかったよ、探すよ……当てはあるのか?」
「見てくれは素体に見えないから繁華街か……E地区の素体保護協会だろう。あそこに逃げ込めば、買い手を自分で選ぶ権利が与えられる。ヤツもそのことは知っているしな」
「……わかった」
 職員達はそれぞれ社用の車に分乗していったが、犬飼はひとり自分のバイクにまたがった。そして、車とは反対方向に出発した。
 違う。アイツはドームを出る気なんだ。だとすればJ地区のドーム障壁の外れだろう。あの辺りは障壁が薄くなっているらしい、かつてドームを逃れようとした人間はみなそこへ向かったとの都市伝説を、犬飼は思い出した。
 
 バイクは夜のドームを疾走した。

 
 
『誰も追ってこない』
 上手く裏をかけたのかもしれない。この街に住む者は、潜在的にドームからでることを恐怖しており、障壁のそばにわざわざ近寄るものなどいないはずだ。
 障壁に近づくにつれ、土井垣は激しい恐怖と、眩暈と吐き気を感じた。ドームの外では人は住めない、荒涼とした廃墟が広がっているだけだ……子供の頃から吹き込まれた噂が、怯えた心を苦しめた。子供の頃だと?土井垣は不敵に笑った。
 俺に……素体の俺に子供の頃などあるものか。あるとすれば全てカプセルの中の夢だ。
 土井垣はよろめくと、アスファルトに片膝をついた。嘔吐。
俺の過去が全て作りモノなら、障壁への恐怖も作りモノのはずだ。……土井垣は口を拭うと、荒い息をついて立ち上がった。

 障壁への恐怖は、徐々に形成されていったものらしい。現にここでは障壁の際まで町並みが形成されているのに、ゴーストタウンと化している。障壁が近づくにつれ、人々だけが減っていっているのだ。
 眩暈がひどい。少し休もう。土井垣はほとんど這いずりながらかつて道路であったひび割れたアスファルトを横切ると、ブティックかなんかであったらしい建物の中に転がり込んだ。通りに面したショーウィンドウは粉々で、鍵などは関係なかった。
 店内は割れたガラスの破片が散乱していたが、靴底で蹴散らすと、座る場所を確保する。
 崩れるようにへたり込むと、目を閉じた。胃からは苦いような、甘酸っぱいような感覚が、相変わらず上がってくる。
 それにしても……土井垣は荒い息を吐きながら思い出していた。ここに来る道すがら、あれはK地区だろうか?Tプラントと壁にかかれた工場の前を通った。夕方の散歩の時間だったらしい。十歳と五歳ぐらいの少年達の、賑やかな声が辺りに響いていた。Sタイプとは異なる素体の存在は兼ねがね聞いていたが、実際目にするのは始めてだった。
 犬飼が見たら、さぞ驚くことだろう。
 土井垣は息を弾ませながら犬飼のことを考えた。アイツはTタイプを見たことがないのだろうか。いや、知っていれば、あのような写真を俺に見せるはずはない。
 ……犬飼に伝える手段があればいいのだが。
 込み上げてくる感覚は収まらず、土井垣はその場でさらに吐いた。もう食べ物は何も胃には残っていないのに、胃液だけが溢れて、食道や口内を痛めた。一体これはどう言うことだ。ただの体調不良などではない。悪性のガス、放射能?……閉ざされた空間の中でそれはないだろう。土井垣は引き攣った笑みを浮かべながら否定した。それとも、マインドコントロールの一種か?苦い思いが胸に広がるが、気分が悪いせいなのか嫌な思いつきのせいなのかよくわからない。
 のた打ち回る土井垣の耳には、近づいてくる排気音は聞こえてこなかった。
 

 バイクは、ひび割れたアスファルトの上に停車した。
 痛む頭に、犬飼の顔つきは不機嫌だった。
 バイクを降りるとアスファルトにへばりつく白っぽい物体に近づく。まだ新しい吐しゃ物だった。ここにはもはや住人はいないようだし、ドームには人間に飼われている以外は、動物は存在しない。土井垣は、この近くにいるはずだ。
 犬飼は尋ね人を探す前にポケットから痛み止めの錠剤を取り出すと、水無しで嚥下した。

 土井垣は涙を流して苦しんでいた。嘔吐は止まらない上に、ふらつく頭は持ち上げていることができず、吐しゃ物が鼻の方まで逆流していたのだ。だから、足音がつい目と鼻の先のガラスを踏み砕く音に変わるまで、全く気がつかなかった。

「しっかりしろ、土井垣!」
 犬飼は土井垣を抱き起こすと、背中をさすった。
「犬飼……」土井垣は驚いたようだったが、苦しい息の下で笑顔を見せた。「一緒に……ドームを出るのか」
 小次郎は無言だった。
「なぁ……」
 土井垣が再び口を開いた時だった。
 無線機の不明瞭な音が聞こえた。
『……ヌカイ、……現在地、……』
「土井垣を発見した。連れて帰る」
 無表情に無線に答える犬飼に、土井垣は逃れようと身もだえした。しかし普段ならいざしらず、嘔吐と眩暈で弱りきった男を犬飼は容易く取り押えることができた。
「離せ。俺は、ドームを出るんだ」
「出てどうする。素体に何ができる」
「知ったことか。……ドームは嫌だ、それだけだ」
「帰ろう。お前、具合が悪いじゃないか」
「頼む、見逃してくれ。離っ……」
 土井垣は声にならないうめきを上げて、犬飼の腕の中に倒れ込んだ。
 
 火花を散らすスタンガンを、嫌なものでもみるように犬飼はしまい込んだ。

 もうそろそろ痛み止めが効いてもいい時刻なのに、頭はますます締めつけられるように痛んだ。犬飼はかなり苦労しながら土井垣を運び出すと、バイクにまたがらせ、自分もまたがり、ロープで意識のない体と自分の体を結びつけた。
 エンジンが唸りを上げたときだった。
「犬飼……」抱きつくように犬飼の背中に体を固定された土井垣が、耳元でうめくように言った。「Tプラント工場……K地区」
 犬飼が振り向いた時には、土井垣は再び意識を失っていた。

 
 
 土井垣は再びSプラント内のカプセルに戻された。体調が戻り次第、記憶スキミングの後、マインドコントロールが施されるらしい。逃亡の恐れがあるので、それまではカプセルから出ざれることはない。
 こんなことをしでかしたからには、かなり強力なマインドコントロールをせにゃならんな……徳川工場長は残念そうだった。せっかく自然なし上がりだったのによう、S素体が美貌を保ったまま、こんなに立派に育つことはまずねぇのになぁ……。
 強過ぎるマインドコントロールは、人間らしい自然の表情を損ない、青年素体の売りの一つでもある本物の人間らしさが失われ、値が下がってしまう。

 脱走騒ぎは保安警察の手を借りることなく治まり、Sプラントには平穏が戻りつつあった。夜勤職員以外には時間外手当が支給されることになり、みな眠たげながらもご機嫌な顔つきで社員寮に戻っていった。
「犬飼、上手くやったな」
 職員の一人が話しかけてきた。 「お前、臨時手当が出るそうじゃないか。でもおかしいな。Q地区なら俺も探したぜ」
「あんたがヘボだからさ」
 犬飼は不機嫌に言うと、早々に寮の自室に消えた。

 


 

(4)に続く


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